日本は植民地朝鮮の子どもたちに学校で何を教えていたのか。「修身科」と並び「皇国臣民」化教育の重要な教材の一つだった「歴史」教科書はどのようなものだったのか。
東京の「あゆみ出版」が1985年に刊行した復刻版『朝鮮総督府編纂教科書』(全66巻)の中から朝鮮人児童用の『普通学校国史』(上、下巻2冊)を取り出してみる。1922年(大正11年)の朝鮮教育令(第2次)の下、朝鮮総督府が普通学校用に初めて作った歴史教科書だった。それまで普通学校の教科に「歴史」はなかった。
めくってみると、上、下巻とも巻頭に歴代天皇の名と「皇紀」で示された在位期間が列記されている。目次は天照大神、神武天皇に始まり、天皇の名が頻出する。ところどころに「新羅統一」や「朝鮮の太祖」といった朝鮮に関する項目もある。
■皇国史観
内容はどうだったのか。戦後、朝鮮史研究をリードした歴史家、旗田巍さん(1908~94)が次のような分析をおこなっていた。
▼『普通学校国史』は日本人児童用の国定『尋常小学国史』の全文を収録し、それに若干の朝鮮史に関する教材を加えていた。そこでは朝鮮は古くから外国の属国になり、自立できない国なので天皇の恩沢によって忠良な日本臣民として生きるべきだと説いた。
▼登場してくる天皇はみな英明で国を憂い国民をいつくしむ君主だ。天皇を中心に日本の歴史を考え、天皇の盛徳と天皇への国民の忠誠が日本の歴史を発展させる原動力だとする皇国史観であり、それを日本人児童同様、朝鮮人児童にも注入した。
■神功皇后の「三韓征伐」
皇国史観は対外侵略を「国威の発揚」として美化した。一例として、神功皇后を見る。古事記や日本書紀に登場し、神のお告げで朝鮮を攻めて「三韓征伐」をしたとされる人物だ。明治政府発行の肖像入り紙幣に第1号の人物として採用されてもいた。
普通学校国史は朝鮮半島の地図と挿絵入りで、次のようなことを書いている。
『普通学校国史』に載った神功皇后の挿絵=復刻版より |
▼仲哀天皇の皇后、神功皇后は天皇と共に熊襲の平定で九州に行ったが、途中で天皇が亡くなった。そのころ、朝鮮には新羅・百済・高麗[高句麗]の「三韓」があり、新羅の勢いが最も強かった。
▼皇后は新羅を従えれば熊襲は自ずと治まると考え、兵を率いて新羅を討った。紀元860年[西暦200年]のことだった。皇后は出発前、海水で髪を男のように結い、軍船を連ねて新羅に押し寄せた。
▼新羅王は大いに恐れ、「東の方角に神国があり、天皇というすぐれた君主がいると聞く。これは日本の神兵に違いない。どうして防ぎ得ようか」と直ちに降参し、「毎年の貢ぎ物は怠らない」と誓った。やがて、百済と高麗も日本に従った。
▼こうして朝鮮は天皇の徳になびき、熊襲も治まった。次の応神天皇の代に王仁という学者が百済から来て学問を伝えるなど、日本がますます開けていったのは神功皇后の手柄によるものであった。
■卑弥呼をモデルに歴史捏造
この物語は史実に反し、日本側で勝手に作り上げた虚構であった。東京大学の小島毅教授(1962年生まれ)は著書で、「神功皇后は卑弥呼をモデルに造形された。隣国をひれ伏させたとすることで、記紀が編纂された7世紀後半の国際情勢のなかで、ずっと昔から日本が韓国(当時は新羅)より上位にあるのだという歴史を捏造した」と、次のように指摘する。
▼中国の歴史書『三国志』の「魏志倭人伝」は、西暦239年、倭の邪馬台国の女王卑弥呼が魏の皇帝とよしみを通じたことを記述している。日本書紀の編集者たちはそのことを知っており、中国の史書を無視することはできなかった。
▼そこで、卑弥呼と神功皇后の合体が行われた。神功皇后伝承自体、卑弥呼をモデルに創造されたのかもしれない。日本書紀には、中国の史書と一致させようとする努力がうかがえる。日本書紀と三国志を比較すると、神功皇后と卑弥呼は時代が重なる。
▼日本書紀は無理につじつまを合わせようとし、実際には二代にわたった邪馬台国の女王の治世を神功皇后一代の話にしている。結果、神功皇后の息子の応神天皇は母親の摂政によって70歳まで即位できず、神功皇后も100歳で亡くなったことになっている。
小島教授は、この「三韓征伐」は、明治初年の「征韓論」にも影響を与えた、と次のように指摘する。
「『征』という字は、上に立つ者が下の者の間違った行為を懲らしめる、という意味を持っている。しかも当時、この隣国の正式な国名は『朝鮮』であり、『韓』ではなかった。それなのに『征朝』でなく『征韓』なのは、明治政府が神功皇后の三韓征伐を意識していたからだろう」
■朝鮮を見下げた記述
朝鮮を見下げた記述は神功皇后だけではなかった。豊臣秀吉についても「皇室を尊び人民を安んじ、外征の軍を起こして国威を海外にかがやかした」などとしている。征韓論や日清・日露戦争、韓国併合も美化している。旗田魏さんは次のように書いている。
「注目すべきは、これらの侵略が主として朝鮮を対象に行われたことである。こういう教科書を読まされた朝鮮人児童は一体どんな気持ちがしたであろうか。…当時の普通学校に通ったある朝鮮人の話によると、一番嫌いな授業は歴史の授業だったというが、当然のことと思う。しかし日本は、朝鮮人の気持ちを無視して、こういう教科書を強引に押しつけたのである」
皇国史観を注入する教育は1938年の朝鮮教育令改正(第三次)でいちだんと強化された。盧泰愚さんらはそんな中で、天皇に忠義を尽くす「大日本帝国臣民」たるべく、東方遥拝や神社参拝を強いられ、「皇国臣民の誓詞」を唱えさせられていたのである。
■癒えない歴史の傷痕
植民地朝鮮が日本の支配から解放されて76年になる。この間、韓国側から発せられた天皇をめぐる発言がしばしば日韓関係を揺さぶってきた。
2012年8月、時の李明博大統領(1941年生まれ)が日本と領有権を争う日本海の竹島(韓国名・独島)に突然、上陸して物議をかもした。慰安婦問題をめぐる日本政府への反発が直接の引き金だったとみられたが、そのさい、「天皇が訪韓したいのなら、独立運動で亡くなった人を訪ねて謝罪すればいい」と息まき、波紋を広げた。
2019年2月、韓国の文喜相・国会議長(当時、1945年生まれ)は慰安婦問題に絡み、米ブルームバーグ通信のインタビューに次のように答えたと報じられた。
「(謝罪は)一言でいいのだ。日本を代表する首相か、間もなく退位される天皇[現上皇]が望ましいと思う。その方(天皇)は戦争犯罪に関わった主犯の息子ではないですか。(被害者の)おばあさんの手を握り、申し訳なかったと一言いえば、問題は解決する」
安倍首相(当時)ら日本側が激しく抗議すると、文議長は「なぜ、このように大きな問題になるのか、到底理解できない。被害者から『許す』という言葉が出るまで謝罪しろということだ」「謝罪する側が謝罪せず、私に謝罪しろとは何事か。盗人猛々しい」と猛反発したのだった。
歴史の傷痕は深く、いぜんとして十分に癒されていないようにみえる。(つづく)
立命館大学コリア研究センター上席研究員 波佐場 清
*参考文献
旗田巍「朝鮮人児童に対する朝鮮総督府の歴史教育――第二次朝鮮教育令下の歴史教科書」旗田魏監修『日本は朝鮮で何を教えたか』あゆみ出版、1987年
中塚明『これだけは知っておきたい 日本と韓国・朝鮮の歴史』高文研、2002年
小島毅『父が子に語る日本史』ちくま文庫、2019年
小島毅『父が子に語る近現代史』ちくま文庫、2019年
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