2021年9月21日火曜日

日韓の深淵―盧泰愚さんの時代⑧/大統領として天皇と向き合って…

盧泰愚さんの少年時代に戻りたい。1945年春、国民学校を卒業した盧少年は中学校へ進んだ。『回顧録』は次のように書いている。 

▽凶作と貧困

国民学校6学年の同級生105人のうち中学に進学したのは私を含め4人だけだった。みな貧しかった。光復(解放)の前年、故郷は厳しい凶作に見舞われた。何カ月も雨が降らなかった。水利施設がなくて田植えができず、人々はアワを植えた。アワのごはんすらまともに食べられず、少しばかりのアワに、乾かした豆の葉っぱが入った水っぽい粥がせいぜいだった。

村の人たちが土気色にむくんだ顔で生き延びるためにマツの皮なりと剥いで食べようともがいていた光景が今もありありと目に浮かぶ。

私は中学に行けるような家庭環境ではなかったが、満州で稼いできた叔父が学費を出してくれたおかげで進学できた。 

この地方随一の名門、慶北中学を受験して失敗。大邱工業学校に進んだ、その夏、解放を迎えた。その日のことを次のように書いている。

815

1945815日、飛行場近くで防空壕を掘っていると、突然「家に帰れ」という。「どうして?」と思いつつ喜んで帰った。夕方、日本の降伏を知った。正午に天皇の肉声で「無条件で降伏する」との放送があったのだという。日本人の先生は「米軍が日本本土に上陸したとしても竹槍で退ける」と豪語していたのではなかったか。

街では愛国歌が歌われ、太極旗が翻った。独立運動の志士、李承晩博士や金九先生が帰国されるといううわさが聞こえてきた。胸を張って暮らせる国になるように思えた。 

工業学校に3年間通ったあと慶北中学校に編入。6学年に進級した1950625日、朝鮮戦争が起き、勉強どころではなくなった。学徒兵として志願するか、召集を待つか……。結局、憲兵学校から陸軍士官学校(陸士)へと進み、軍人になったのだった。 

激動の中、大統領就任

それから30年の歳月をへて1980年代初め、盧泰愚さんは政治家に転身した。同郷、陸士同期の全斗煥政権下だった。80年代後半、内外情勢は大きく動いた。グローバルな冷戦体制が崩壊に向かい、韓国内では87年、怒涛の民主化運動が政権を追い詰めた。 

与党の大統領候補になった盧泰愚さんは急遽、大統領選を間接選挙から直選制に改める改憲を「民主化宣言」で約束し局面を打開、野党・民主化勢力の分裂にも助けられてその年暮れの大統領選を勝ち抜いた。 

882月、大統領就任。南北和解を掲げて果敢な北方外交を推進し、国内ではソウル五輪後に韓国民の海外旅行全面解禁に踏み切った。民主化は急進展し、封じ込められてきた歴史清算要求も一気に噴出し始めた。そんな時期、盧泰愚大統領は9052426日、日本を訪問した。 

「おことば」問題浮上

訪日にあたり、天皇(現上皇)の「おことば」問題が大きく浮上した。韓国側が、過去の植民地支配に絡み、天皇が大統領を迎えて開く宮中晩餐会で、加害者の立場からはっきりと謝罪することを要求、日本側に強い反発が起きた。 

今年3月、韓国外務省は31年前の外交文書を公開、当時のいきさつが明らかになった。盧大統領の訪日に際し韓国側は、84年の全斗煥大統領訪日時に昭和天皇が表明した内容を上回る「より具体的で強いおわび」を求める方針を決めていたのだった。 

全大統領の訪日時、昭和天皇は「両国間に不幸な過去が存したことは誠に遺憾」と述べたが、韓国側には「謝罪の主体などがはっきりしない」との不満が強かった。韓国側は、新たな「おことば」の内容によっては盧大統領の日本滞在中に天皇の訪韓を招請することも決めていた。 

盧大統領の訪韓を前に、外交交渉はぎりぎりまで続いた。514日、盧大統領はソウル駐在の日本メディア特派員との会見で「天皇は加害者の立場ではっきりと謝罪しなければならない」と言明。翌15日、韓国政府は「天皇の謝罪表明を大統領訪日まで要求し続ける」と発表した。 

■1歳違い

1990524日、盧泰愚大統領は予定通り、国賓として日本を公式訪問した。赤坂迎賓館での歓迎行事のあと、大統領夫妻は皇居で天皇皇后と会見。双方は、大統領が天皇より1歳年上であることや、お互いの趣味であるテニス談議に花を咲かせた、と報道された。

青瓦台HP 天皇皇后と会見する盧泰愚大統領夫妻 1990年5月24日
1歳違い――193312月生まれの天皇と、32年12月生まれの大統領。振り返ってみると、少年時代、大統領が植民地下、片道6キロの山道を通った国民学校で「私共は心を合わせて天皇陛下に忠義を尽くします」と唱えさせられていた時、天皇は皇太子として学習院初等科で「帝王学」を学んでいたのだった。 

天皇との会見で、盧泰愚大統領の脳裏をめぐったものは何だっただろうか。 

「痛惜の念」

夕方、海部俊樹首相との第1回首脳会談のあと、宮中晩餐会。天皇はここで、次のような内容を含む「おことば」を述べた。

「朝鮮半島と我が国との長く豊かな交流の歴史を振り返るとき、昭和天皇が『今世紀の一時期において、両国の間に不幸な過去が存したことは誠に遺憾であり、再び繰り返されてはならない』と述べられたことを思い起こします。我が国によってもたらされたこの不幸な時期に、貴国の人々が味わわれた苦しみを思い、私は痛惜の念を禁じえません」 

盧泰愚大統領は次のように答えた。

「歴史は、真実が消されたり忘れ去られたりしてはなりません。しかし、いつまでも過去にしばられているわけにはいきません。正しい歴史認識に基づいて間違った過去を洗い流し、友好協力の新しい時代を開かなければなりません」

盧大統領は、口頭で天皇の韓国訪問を招請した。 

「真実に基づいた理解を」

525日、盧大統領は衆議院本会議場で演説をおこなった。日本の国会での演説は、韓国大統領としては初めてのことだった。ここでは、本稿のはじめの部分で紹介したように「母親から直接覚えた自分の国の言葉を使ったからといって先生に鞭打たれた」などと少年時代をしんみりと振り返りながら、次のようにも語りかけた。

青瓦台HP 国会で演説する盧泰愚大統領 1990年5月25日

 

 「過去の暗かった時代、私たちの民族が味わった、それ以上の大きな苦痛や試練、そのとてつもない悲劇についていま、ここで語る必要はありません。私たちは国を守ることができなかった自らを反省するのみで、過ぎ去ったことを反芻して誰かのせいにしたり恨んだりしようとは思いません。私が申し上げたいのは真実に基づいた両国民のしんからの理解であり、それを土台に明るい未来を開いていこうということです」

 「過ぎ去ったことは神であっても変えることはできません。歴史とは、今日の私たちが過去をどのように見、どう理解するかという問題です。いま、私たちのやりようによっては過去のくびきを断ち、その残滓を片付けることができるのだと思います。私たちみんなの勇気と努力が必要なだけなのです」

 韓国大統領記録館HPhttp://www.pa.go.kr/research/contents/speech/index.jsp 

盧大統領は526日、帰国。韓国民への報告で「日本がどんなに謝罪しても、それが不十分なものであり、暗い時代を忘れられないだろうが、日本側が過ちを率直に認め反省、謝罪した以上、我々はそれを広い心で寛大に受け入れ、善隣友好の新時代をつくっていかねばならない」と説いた。 

日韓閉塞

盧泰愚大統領のこの訪日から、もう30年余がたった。日韓関係は盧泰愚さんが思い描いたようには進んで来なかった。訪日翌年の91年、慰安婦問題が浮上。「天皇訪韓」はどこかに消え、過去清算問題は元徴用工などにも広がって、両国関係はいま、閉塞状態に陥っている。 

盧泰愚さんはソウルで長い闘病生活の末に今年10月26日、永眠した。日韓関係のその後の展開といまの状況は、盧泰愚さんの目にどう映り、その思いはいかようなものであったろうか。(おわり)

立命館大学コリア研究センター上席研究員 波佐場 清

*参考文献

趙世暎(姜喜代訳)『日韓外交史 対立と協力の50年』平凡社新書、2015

 

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