2021年8月31日火曜日

日韓の深淵――盧泰愚さんの時代③/日本人老旧師との再会

日本統治下の国民学校で盧泰愚少年が慕い、深い感銘を受けた日本人教師は、佐藤彰先生といった。盧泰愚さんは『回顧録』で書く。

   ▽差別しなかった佐藤先生

学校は、校長はじめ半分ほどが日本人で、あとは韓国人の先生だったと思う。とくに記憶に残るのは佐藤彰という日本人の先生だ。

その方は他の先生と違い、民族差別をしなかった。「内鮮一体」のスローガンは宣伝用で、実際には韓国人と日本人の間に厳然たる差別があった。佐藤先生だけは、真から日本人と韓国人を区別せず、同じように接してくださった。

 ▽「森の石松」

佐藤先生は教え方が特別だった。分かりやすく、目標が達成できれば必ず賞を出してくれた。賞の中でも子供たちが一番喜んだのは先生から昔話を聞くことだった。

どれほど興味深く話されたものか。眠くなっていた時も話が始まると、目がパッチリと開いた。

アンデルセン童話をはじめ、いろいろな国の童話を聞かせてくれた。私は、そんな話に引き込まれた。5年生のとき、本を読む楽しさを知った。野山で木を切り、それを売ったお金で本を買ったりもした。いちばん最初に読んだ本として記憶に残るのは侠客、森の石松の物語だった。

 ■日韓の長い断絶

佐藤先生は盧泰愚少年が3年生のときの担任だった。ほどなく異動で他校に移り、日本は敗戦。解放された朝鮮半島は南北2つに分断され、朝鮮戦争を戦った。休戦後も混乱は続き、日本との関係は断たれた。1965年、戦後20年にして日本は南の韓国と国交を正常化したものの、人々の往来がほとんどない時代が長く続いた。

その間、盧泰愚少年は陸軍士官学校を出て軍人になり、政治家に転身。朴正煕、全斗煥と続いた韓国の軍事政権は民主化運動で終わりを告げ、新たな大統領直選制の選挙で盧泰愚さんは民主化後最初の大統領に選ばれた。

佐藤先生は1919年、福岡・大牟田市の生まれ。熊本の中学を出て朝鮮に渡り、京城師範学校を出て38年、慶尚北道の公山小学校(のちに国民学校)に赴任した。盧泰愚少年はこの年の春、同校に入学したのだった。

戦後、佐藤先生は日本に引き揚げ、岡山県で教員生活を続けた。78年、倉敷市の小学校校長を最後に退職。その後、地元で公民館長などをしていた。

■45年ぶりの再会

そんな師弟が45年の歳月を隔てて再会を果たすこととなった。盧泰愚さんが大統領になったすぐあとの88年春、ソウルの大統領官邸青瓦台に、この老旧師を夫人共ども招待したのである。韓国で先生に感謝する日として設けられている「教師の日」の翌日の516日のことだった。

文藝春秋に載った佐藤彰先生の手記

その時のことを『盧泰愚回顧録』は次のように書いている。

就任式の盧泰愚大統領=『盧泰愚回顧録』

  ▽「よかった義理と人情の教育」

昼食をとりながら2時間近く、ご一緒した。佐藤先生はしきりと感激の涙を流した。私は童心に返ったような思いだった。先生は姿こそ昔のままではなかったが、物言いはいつまでも教師であった。

私が「日帝時代の教育は悪い点もあったが、義理と人情を重視した教育はやはりよかったのだと思います」というと、先生は「不死鳥という鳥は火の中に身を投じ、自らを焼く苦痛を克服することで永遠に死なない鳥になるといいます。大統領にもそのような精神が必要だと思います」と諭してくれた。

 ■佐藤先生の回想

佐藤先生は帰国後、大統領との再会の日のことや昔日の盧泰愚少年について書いた手記を『文藝春秋』(19887月号)に載せた。ここで紹介した佐藤先生の生い立ちなどもその手記によっている。そこには、次のようなことが書かれている。

    再会

▼日本語で「せんせい」。それが45年ぶりに聞いた教え子の第一声だった。「大統領、おめでとう」と返すと、盧泰愚大統領は旧師の手を握り、そのまま抱きかかえた。佐藤さんは夢中で抱き返し、ただオイオイと泣いてしまった。

▼食事を囲みながら、通訳を通しての会話だった。大統領は昔のことをよく覚えていた。まず、「先生はいろいろな昔話をしてくれました。なかでも桃太郎と浦島太郎の話はよく覚えています」と切り出してきた。

  学校

公山国民学校は、児童1学年約60人、全校で400人近かった。教師は校長を含めぜんぶで6人で、日本人は校長と佐藤先生だけだった。

授業はもちろん、教科書も日本語。1940年の「創氏改名」で、朝鮮の人たちは日本式の姓を名乗らされた。盧泰愚さんも例外でなかった。そうした事情から、盧泰愚さんが大統領になっても、それが自分の教え子だということに、はじめのうちは気が付かなかった。

  盧泰愚少年

当時、小学校に進む児童は朝鮮人のなかではエリートだった。父親がいなかった盧少年の家庭環境からすれば、近くの簡易学校[手っ取り早く「文盲」をなくすために山村僻地に設立された2年制の学校]に通ってもよかった。5キロも6キロも離れた小学校に通えたのは余裕のある叔父の助けがあったからのようだった。

▼422月、「シンガポール陥落祝い」で学校にゴムボールとゴム靴が支給された。佐藤先生への割り当てはボール10個と靴10足。担当の60人以上の児童のうち、盧少年にだけ、両方をペアでやった。苦境に負けていないことへの褒美のつもりだった。

佐藤先生自身、結核を患った父のことで辛い思いをしていた。そんな自らの境遇を盧少年に重ね合わせ、特別な思いで見ていたようだ。

盧泰愚さんとの再会に際し、佐藤先生は記念品として2冊の本を用意した。「五・一五事件」で凶弾に倒れた首相犬養毅の生涯を記録した『犬養木堂伝』と、二宮尊徳について書いた『尊徳報恩記』だ。あらかじめ東京の韓国大使館から、大統領が尊敬する日本人はこの2人だと聞き出していたからだった。

佐藤先生は次のように書いている。

「二宮尊徳は私の影響かな、と思いました。公山小学校の校庭に尊徳の像をたててもらい、子どもたちに尊徳を尊敬すべしと説いたのは、若き日の私だったからです。犬養が標榜した政治は庶民の政治、大統領がめざす『普通の人』の政治の通じるところがあります」

「弾圧に手を貸していたのかも……

佐藤先生にとっては四十数年ぶりの韓国だった。盧泰愚少年らが学び、自らが教鞭をとった公山国民学校のあった公山に立ち寄ったときは三十数人もの教え子たちが集まり、歓迎してくれた。

佐藤先生は文藝春秋の手記で「教え子たちが自分の名前を言いながら抱きついてきたときには、韓国に来て本当によかったと涙が出た」と書いている。さらに次のようにも書いている。

「日本に帰ってきたいま、私はつくづく思います。私は確かに自分の信念を持って教えてきましたが、しかし正しいと思ってやったことも、実はときの日本政府の韓国人に対する弾圧に手を貸していたにすぎないのかもしれません」

「けれども、彼らはあくまでも優しく私たちを受け入れてくれました。韓国の人というのは、いわゆる恨みに恨みをもって返すような、そういうふうな精神構造を持たない、すばらしい国民じゃないかと思います」

 私たちは、このことをいま、どう受け止めたらいいのだろうか。(つづく)

立命館大学コリア研究センター上席研究員 波佐場 清

参考文献

趙景達『植民地朝鮮と日本』岩波新書、2013

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