2015年2月12日木曜日

ワイツゼッカー氏と安倍首相の落差


ナチスの罪を直視し、戦後ドイツの周辺国との和解に貢献したワイツゼッカー元ドイツ大統領の公式追悼行事が2月11日、首都ベルリンの大聖堂で営まれた。ことし1月31日、94歳で亡くなった「ドイツの良心」。現地発の共同電は「歴史認識をめぐり日本と中国、韓国の関係が困難に直面しているのに対し、ドイツがナチス時代のイメージを払拭できたのは同氏の功績が大きい」と伝えていたが、その通りだと思う。

「過去に目を閉ざす者は現在にも盲目になる」。こんなフレーズで知られる、あの名演説「荒れ野の40年」(永井清彦訳/岩波ブックレット)を読み返してみた。第2次大戦でのドイツ敗戦40周年にあたった1985年5月8日、連邦議会でおこなった演説である。

折から戦後70年。以下のようなくだりが改めて胸に迫ってくる。

■ワイツゼッカー演説
<大抵のドイツ人は国の大義のために戦い、耐え忍んでいるものと信じておりました。ところが、一切が無駄であり無意味であったのみならず、犯罪的な指導者たちの非人道的な目的のためであった、ということが明らかになったのであります>

<振り返れば暗い奈落の過去であり、前には不確実な未来があるだけでした。
しかし日一日と過ぎていくにつれ、5月8日が解放の日であることがはっきりしてまいりました。……ナチズムの暴力支配という人間蔑視の体制からわれわれ全員が解放されたのであります>

<一民族全体に罪がある、もしくは無実である、というようなことはありません。罪といい無実といい、集団的ではなく個人的なものであります>

<今日の人口の大部分はあの当時子どもだったか、まだ生まれていませんでした。この人たちは自ら手を下していない行為について自らの罪を告白することはできません。
ドイツ人であるというだけの理由で、粗布(あらぬの)の質素な服をまとって悔い改めるのを期待することは、感情を持った人間にできることではありません。しかしながら先人は彼らに容易ならざる遺産を残したのであります。
罪の有無、老幼いずれを問わず、われわれ全員が過去を引き受けねばなりません。だれもが過去からの帰結に関わり合っており、過去に対する責任を負わされております>

<問題は過去を克服することではありません。さようなことができるわけはありません。後になって過去を変えたり、起こらなかったことにするわけにはまいりません。しかし過去に目を閉ざす者は結局のところ現在にも盲目となります。非人間的な行為を心に刻もうとしない者は、またそうした危険に陥りやすいのです>

■韓国、中国の「日独比較」論
過去の侵略や戦争に対する反省、戦後補償のありようをめぐって日本はドイツとしばしば対比されてきた。とくに韓国、中国からは「徹底的に反省し償うドイツと、過去を正当化する日本」といった図式で日本非難が繰り返されてきた。

2013年5月、訪米して米上下両院合同会議で演説した韓国の朴槿恵大統領は英語で次のようにぶった。名指しこそしなかったものの、日本を当てこするような内容だった。

It has been said that those who are blind to the past cannot see the future.
This is obviously a problem for the here and now.

「過去に目を閉ざす者は…」。まったくの偶然だろうが、朴槿恵大統領がこの演説をおこなった日はドイツ降伏68週年にあたった5月8日、まさにその日だった。朴大統領は、ワイツゼッカー演説を意識していたのは間違いないと思われる。

*詳しくは、下の韓国大統領府のホームページ参照(後半に英文が載っている)
http://www1.president.go.kr/news/newsList.php?srh[view_mode]=detail&srh[seq]=139

■東郷和彦教授の論考
ワイツゼッカー演説に類するものは日本にはなかったのか。この点、元外交官(条約局長、駐オランダ大使など)の東郷和彦・京都産業大学教授がその著書『歴史認識を問い直す―靖国、慰安婦、領土問題』(角川oneテーマ21)のなかで、次のような指摘をしているのが、私にとっては目からうろこだった。

▽日本人が自ら総合的に戦争責任と歴史認識について結論を出したのは、戦後50年にあたっての「村山談話」(1995年8月15日)しかない。
▽日本とドイツでは、戦争とのけじめのつけ方が大きく違った。日本はサンフランシスコ条約など一連の戦後処理条約、いわゆる「平和条約」を結ぶことで解決してきたのに対し、ドイツのそれは被害者個人への補償として、相手国との間では、補償を支払うための協約を結ぶことで行われた。
▽そんな異なった背景があるのだとしても、村山談話とワイツゼッカー演説を比べると、そのあまりの違いに驚く。

*村山談話は、外務省のホームページ参照http://www.mofa.go.jp/mofaj/press/danwa/07/dmu_0815.html

東郷教授は2つの演説(談話)の違いを下のような表に整理してみせている。
 

村山談話とワイツゼッカー演説比較



 

村山談話

ワイツゼッカー演説

①    誰が?

日本

特定個人。国家でも民族でもない。

②    何をして?

植民地支配と侵略

ホロコーストを始めとする列挙された犯罪

③    どう対処し?

痛切な反省と心からのお詫び

心に刻む

④    責任者は誰で?

日本(と解釈せざるをえない)

犯罪者ではないが、すべてのドイツ人が結果について責任を負う

⑤    具体的行動は?

平和友好交流事業と現在取り組んでいる戦後処理問題に対する誠実な対応

特定列挙せず(被害者個人への償い方式が背景)
東郷和彦著『歴史認識を問い直す―靖国、慰安婦、領土問題』(角川oneテーマ21)より


表は、2つの演説について①誰が、②何をして、③それについてどう対処し、④やったことの責任者は誰で、⑤具体的な行動は何か――を簡潔にまとめている。説明の概略はこうだ。

▽村山談話は包括的・直観的・無前提な形で国家の行為をとらえ、それについて謝罪している。このようなやり方は、近代国家では例を見ない。
▽ワイツゼッカー演説は徹底して個別的・分析的・条件付きである。たとえば個別具体的な犠牲者をリストアップ。ナチス以外のドイツ人について「罪はないが責任はある」とし、「全員が過去を引き受けなければならない」などとしている。

東郷教授はさらに、ワイツゼッカー演説の思想的背景としてヤスパース、村山談話の精神的背景としては鈴木大拙との関連性について論考を加えている。その詳細は著書に譲るが、ここで明らかなのは、日本の場合、一つには戦争責任の所在を曖昧にやり過ごしてきた結果が、いま大きなツケとして回ってきているということである。

■安倍首相の「戦後70年談話」
いま、気になるのは安倍首相の歴史への向き合い方である。具体的には安倍首相が8月に予定している戦後70年にあたっての「安倍談話」の中身である。安倍首相はこの間、これに関連して次のようなことを言ってきた。

◇2013年4月の参院予算委員会
「安倍内閣として、言わば村山談話をそのまま継承しているというわけではない。これは戦後50年に村山談話が出され、そして60年に小泉談話が出されたわけであって、これから70年を迎えた段階において安倍政権としての談話をそのときに、いわば未来志向のアジアに向けた談話を出したいと今既に考えている」(4月22日)

「侵略という定義については、これは学界的にも国際的にも定まっていないと言ってもいいんだろうと思うわけだし、それは国と国の関係において、どちら側から見るかということにおいて違う」(4月23日)

◇2014年3月14日、参院予算委員会
「歴史認識については、戦後50周年の機会には村山談話、60周年の機会には小泉談話が出されている。安倍内閣としてはこれらの談話を含め、歴史認識に関する歴代内閣の立場を全体として引き継いでいく」

◇2015年1月25日、NHKの討論番組
「村山、小泉談話、安倍政権としてこうした歴代の談話を全体として受け継ぐ考えは、すでに何回も申し上げた通り。安倍政権としてどう考えているという観点から談話を出したい。
このような世界をつくっていくかという未来に対する意思を書き込みたい。いままでのスタイルそのまま、下敷きとして書くことになれば、いままで使った言葉を使わなかった、新しい言葉が入ったという、こまごまとした議論になっていく。そうならないように70年の談話は新たに出したい」(要旨=朝日新聞より)

◇同年1月29日、衆院予算委員会
「村山談話、小泉談話については閣議決定されているものであり、我々は全体として受け継いでいる。先の大戦の反省の上に戦後70年どういう国をつくってきたのか、今後未来に向かってどういう国をつくっていくか発信していきたい。
(戦争の教訓は)まさに多くの国民の命を失い、アジアの方々にも多大なご迷惑をおかけした」(朝日新聞より)

こうして振り返ると、安倍首相の発言は微妙にぶれている。戦後70年の安倍談話に関しては、このところ、村山談話、小泉談話を「全体として受け継ぐ」という言い方で一貫させているが、「全体として」とは引き継がない部分もあるということなのかどうか。いずれにしても、村山、小泉談話にある「植民地支配と侵略」「痛切な反省と心からのお詫びの気持ち」といったキーワードが周辺国との関係でどうなるかが大きな焦点になるのは間違いない。

■落差
戦後70年談話に向けて安倍首相が「未来志向」「未来についての意思」「未来に向かって…」といった具合に、「未来」を強調しているのも気がかりである。

東郷和彦教授は、さきの著書で次のようなことも書いている。
▽歴史認識問題との関連で、「未来志向」ということを日本側から言い出すことは、禁句だと考える。被害者の立場にたてば、「未来志向」と加害者が言えば、それは「過去を忘れましょう」と言っているのと同じように聞こえる。
▽歴史に認識に関していえば、「未来志向の未来」とは、中国や韓国が日本に向けて送るべき言葉なのである。

同感である。ワイツゼッカー氏と安倍首相の落差を改めて感じてしまう。

2014年9月3日水曜日

日本は平和憲法で北東アジアに貢献を——林東源・元韓国統一相

林東源・元統一相
北東アジア情勢は緊張を孕み、複雑な様相を見せている。この地域に平和をもたらすにはどうしたらいいのか。

韓国の金大中政権下、大統領の右腕として初の南北首脳会談に道を開くなど、果敢な平和政策を推し進めた林東源・元統一相が今年7月6日、名古屋で開かれたNPO法人・三千里鐵道主催の集会で、「北東アジア平和への韓国の課題」と題する講演をおこなった。2000年の南北首脳会談の「6・15共同宣言」14周年を記念する集会だった。

講演の内容を以下に掲載する。立命館大学コリア研究センターの波佐場清・上席研究員が翻訳した。

■転換期の北東アジア
日本の安倍内閣は憲法解釈の変更によって集団的自衛権の行使を決めました。日本は「戦争をしない国」「戦争に加担、協力しない国」から、「海外で武力を行使する国」「戦争できる国」に変わることになったのです。
これによって日本と中国の関係はますます緊張し、民族主義の感情が高まって北東アジアにおける安全保障上の不安と軍備競争の加速化が憂慮されます。一方で、そんな日本との間で歴史と領土の問題を抱えた中国の習近平国家主席が韓国を訪問し、朴槿恵大統領との間で、共同声明では明示されなかったものの、日本の右傾化に対する共同対応の問題などを話し合いました。
 東アジアは激動の時期を迎えています。過去30余年間にわたって高度経済成長を続けてきた中国が米国とともに2大経済大国として浮上してきています。中国のGDPは2020年ごろには米国を追い越すだろうと展望されてもいます。経済力の拡大は軍事力の増強を伴うとみられ、国際的な影響力も強めていくでしょう。
 米国が唯一の超大国として国際秩序を仕切っていた時代は過ぎ去ろうとしています。過大な軍事拡張による米国経済の衰退が国力の相対的衰退を招いたのです。とはいえ、米国はまだ相当の期間、軍事、科学技術、文化の分野で中国に対して相対的な優位を維持していくとみられます。
 米国は2012年ごろから経済の再建と覇権の再構築へ「アジア回帰」を宣言し、アジア太平洋地域重視の「リバランス戦略」を推進し始めました。安全保障面では同盟の強化で中国の軍事的膨張の可能性を牽制し、経済面では環太平洋経済連携協定(TPP)の締結によって自らの利益を確保するとともに中国の影響力の拡張を遮断し、覇権を維持しようとしているのです。
 このようなリバランス戦略の中心に据えられているのが、核心的なパートナーである日本との同盟の強化です。厳しい財政難に喘ぐ米国は、日本を押し立てて中国の海洋進出を監視・牽制しようとしており、日本の軍備増強と集団的自衛権の行使を支持しています。米国のリバランス政策で勢いづく安倍首相とその支持勢力は平和憲法の改定を推進する一方で、過去60年間にわたって維持してきた専守防衛の原則を棄て、集団的自衛権の行使と再武装を推進しています。このような状況を背景に安倍首相は「戦後レジームからの脱却」を唱え、靖国神社参拝でナショナリズムを煽り、歴史修正主義を際立たせて領土紛争を激化させています。そんな中、一方で、平和を愛する日本国民とアジアの人々の間には平和憲法の改定に反対する声がしだいに高まってきています。
 いま指摘した米中2大強国という構図は冷戦の復活とは性格が異なるといえます。かつての米ソ冷戦は、両陣営間を「鉄のカーテン」で仕切り、経済や文化などあらゆる面が断絶する中で、イデオロギー対決と核兵器競争、軍事的拡張が極大化したのが特徴でした。いま、米中の戦略的関係はこれとは違い、経済や文化の分野では平和的競争と協力を維持する一方で、政治と軍事の面では互いに牽制しあうという様相を見せています。
 中国は米国との間で、新しい形の大国関係の樹立を主張しています。歴史的に見るとき、既存の覇権強大国と浮上する新生強大国間には摩擦や衝突が生じ、行き着くところ、戦争を招いたりもしてきました。中国が主張する「新型大国関係」というのは超大国である米国と新生大国の中国が互いに相手方の核心的な利益を侵害せず、協力しながら平和的に共同繁栄を追求する関係に発展させていこうというものです。過去の失敗に学び、「ウィン——ウィン」の新しいモデルをつくろうというもののように見えます。中国は米国との軍備競争、武力衝突、そして戦争を回避しようとしているのです。ただ、米国の軍事的な脅威に対抗するうえで必要な先端兵器の開発は推進するという立場のようです。
 ヘンリー・キッシンジャー元米国務長官はその著書『On China』(日本語訳「キッシンジャー回想録 中国」=岩波書店)の中で、米中関係は勝ち負けのゲームになってはいけない、と警告しています。「米国と中国は互いに、相手方によって支配されるにはあまりにも巨大すぎる大国であり、経済強国だ。戦争や冷戦時代のような形の紛争においてはどちらも勝利者にはなれない。…相互補完的な利益を追求し、共同の繁栄と発展を図るべきだ」として「共進化(co-evolution)」論を唱えています。彼は米国の反中国ブロック形成の企図は成功しないだろうといい、太平洋共同体の形成を主張しています。
 協力的な米中関係は北東アジアにとって祝福となるでしょうが、対決的な米中関係は災いをもたらし得ます。米国、日本と中国の間が互いにとって脅威であり対決は避けられない、と誇張し、歪んだ判断によって不信と葛藤を深め、不幸な事態をもたらすようなことがあってはなりません。そのような事態を予防するためには、この地域で、安全保障面で協力しあう平和共同体の形成が緊要だと言えます。

■転換期の韓国の立場
北東アジアの平和に向けた韓国の課題としては何よりもまず、この激動の時期に対処するうえで正しい立場と戦略をとることです。韓国には二通りの考え方があります。一つは歴史的にみて、中国が強大化すれば、朝鮮半島の地政学的地位からいって脅威になるとするもので、従来の韓米同盟を引き続き維持強化すべきだという立場です。もう一つは、誇張された中国脅威論に取り込まれず、中国の浮上を現実のものとして受け入れて米国とともに、中国とも良い関係を維持していくべきだという立場です。
 韓国と中国の間の貿易規模は、韓米・韓日間の貿易規模を合わせた額よりも多くなっています。そして、対中貿易の黒字が韓国の貿易赤字を埋め合わせてもいるのが現状です。韓中間の貿易と経済協力は引き続き増加傾向にあり、中国はすでに韓国にとっては切り離せない最も重要な貿易パートナーとなっているのです。それだけではなく、中国の北朝鮮に対する影響力の大きさや安全保障面における中国の重みを考えるとき、韓国にとって中国の重要度はますます高まっていくでしょう。
 韓国はまた、米中両大国の間にあってどちらの側につくかという選択を迫られる立場に置かれているともいえますが、現実はすでに、「韓米同盟を維持しつつ、韓中間は戦略的協力パートナー」という局面に入っています。米中のうちのどちらかという二者択一ではなく、バランスを保とうというのです。韓米同盟が中国を脅かすものであってはならず、また、中国との協力関係が米国を排斥するものであってもいけないという立場です。また、韓国は安全保障の自律性を高め、バランス外交で国益を高める一方で、米中両国間の葛藤の解消にも寄与していこうというものです。これは朝鮮半島はもとより北東アジアに安定と平和をもたらす道となるでしょう。
 
 ■朝鮮半島における平和体制の構築
 北東アジアの平和に向けての韓国の最も重要な役割は、朝鮮半島で平和体制を構築することです。朝鮮半島の平和なしには、北東アジアの平和は保障できません。
 朝鮮戦争の砲声が止んで60年になりますが、戦争はまだ終わってはいません。軍事休戦体制下で引き続き敵対関係を維持しているのが朝鮮半島の悲しい現実なのです。米国、中国、日本、ロシアと南、北は、6者協議の「9.19共同声明」(2005年)で、関連当事国(米国、中国、南、北)間の平和会談を約束し合いました。この約束にしたがって関連の4者は平和会談を開き、いまの休戦体制を平和体制に転換していかなければなりません。韓国が、北と力を合わせて平和会談の開催を推進し、主導していかなければならないのです。そのためには閉塞した局面にある南北関係をまず改善しなければなりません。南と北は「6.15共同宣言」(2000年)の順守と実行を再確認して交流と協力を活発化させ、相互の信頼を確かめ合っていかなければなりません。「核問題の解決をまず先行させ、その後で平和を」というのではなく、両者を並行して進めるべきなのです。
 4者による平和会談では、朝鮮半島の平和を保障するために、例えば、南北の対決と米朝敵対の関係を解消して関係正常化と非核化を進める▽政治軍事的信頼構築と軍備削減に取り組む▽外国軍の問題の解決をはかる————といった実質的な措置を取っていくべきです。そんな平和プロセスを通して冷戦構造を清算し、朝鮮半島に平和体制を構築していくべきなのです。
 朝鮮半島の問題が米中間の葛藤と紛争の種にならないようにしなければなりません。そのためにも休戦体制を平和体制に転換する努力を急がなければなりません。朝鮮半島に平和体制を構築することによって北東アジアにおける平和共同体づくりに貢献できるのです。
 
 ■平和共同体
 韓国は、北東アジアの平和と安定に向け、地域の平和共同体づくりで先頭に立たなければなりません。米国と中国が共に韓国との協力を必要としている現状況にあって、韓国は米中間の架橋の役割を果たせるでしょう。まず、韓米日3国と北朝鮮の関係改善が緊要です。そのような意味から言って、このところの日朝の関係改善への努力を評価し、いい結果がもたらされることを期待しています。
 地域の平和共同体づくりに向けてはこの間、様ざまな談論が提起されてきました。北朝鮮の核問題を扱ってきた6者協議を母体に、必要に応じてそれを広げていけばいいという主張もその一つです。政治軍事的な信頼構築を推進し、潜在的な葛藤と軍事的緊張の要因をなくして共同の安全保障を実現する一方で、経済、通商、環境、テロ、国際犯罪などを網羅する包括的な地域協力の平和共同体が望ましいでしょう。
 韓国の朴槿恵政権は、「北東アジア平和協力構想」を唱えています。まず域内国家が環境、災害救助、原子力安全、テロ対策など、協力が容易な問題から取り組み、対話と協力を通して信頼を積み重ねながら協力の範囲を広め、いずれ欧州安全保障協力機構(OSCE)のような強固な多者間の協力体に発展させていこうという構想です。まず参加国すべてが受け入れやすい分野から始めようというのは理にかなっていると言えましょう。

 ■北東アジア3国の協力
 韓中日の3国は歴史的にも地理的にも非常に密接で近しくするほかない間柄にあります。北東アジアは躍動的な経済圏として登場してきており、世界経済の成長を牽引する主役として共同の繁栄を先導するチャンスを迎えています。3国は葛藤と対立でなく、協力を通して共同の繁栄と発展を目指していかなければなりません。韓国は日本と中国の間にあって促進者の役割を担うべきでしょう。
 韓中日の3国はこの間、定例化してきた3国首脳会談をうまく運営し、そのもとで2011年秋にソウルに置かれた3国協力事務局を活性化し、共同の関心事を話し合いで解決していかなければなりません。経済分野における3国の協力関係を強化し、国民交流と文化交流を進め、歴史や領土、域内安保、外交葛藤の問題を話し合いの中で克服していかなければなりません。今はまず、韓日関係から早急に回復させていくことが緊要です。
 韓国と日本は米国の同盟国ですが、いまは米中関係を安定させる方向で貢献していくことが、みんなの利益になるでしょう。韓国と日本は力を合わせ、政治的には米中間で架橋の役割を果たし、経済的には北東アジア経済共同体づくりを主導すべきです。そうして北東アジア安保協力の平和共同体づくりを先導するのがこの地域の平和と繁栄のための道となるでしょう。
 最後に、日本の平和憲法第9条に関連して一言申し上げようと思います。植民地支配と侵略戦争を経験したアジアの人々にとってこの第9条は、過去の歴史に対する反省と、過ちを繰り返すまいとする戦後日本国民の真摯な決意として受け止められてきました。第9条は、日本がアジアの人々に信頼され、愛されるうえでの資産となってきたのは事実なのです。
 いま平和憲法の第9条を変えようとする動きに対して、平和と安定にとって脅威になるとの憂慮が広がっています。日本自ら過去を正しく認識し、謙虚に反省しようという決断が不足しているのではないかという疑念も持たれています。
 東アジアの平和に向けての日本の役割は非常に重要です。日本はまず平和憲法の第9条を守ることで自らの安全保障はもちろん、北東アジアの平和と安定にも寄与できるのです。平和を愛するアジアの人々は日本が「平和主義を貫いて国際社会に貢献する国」になることを切に願っています。
 平和憲法第9条を守ろうという道徳的勇気を持ってたたかっている多くの平和を愛好する日本の民主市民に敬意を表し、激励の拍手を送りたいと思います。

《略歴》イム・ドンウォン 1933年平安北道生まれ。韓国陸軍士官学校、ソウル大卒。80年陸軍少将として予備役編入。駐オーストラリア大使。盧泰愚政権下で南北高位級会談代表。金大中政権下で大統領外交安保首席秘書官、統一相、国家情報院長など。著書に『피스메이커(Peace-maker)』(중앙books)=日本語版『南北首脳会談への道』(波佐場清訳、岩波書店)http://www.iwanami.co.jp/cgi-bin/isearch?isbn=ISBN978-4-00-024163-2 /英語版『PEACEMAKER』(米スタンフォード大学アジア太平洋研究センター)=など。




2013年11月20日水曜日

「安重根の隠れ家」を中国・延辺に見た


「犯罪者だ」(菅義偉官房長官)
「独立と東洋平和のために命を捧げた方だ」(韓国外務省報道官)

日本の初代首相、伊藤博文を中国ハルビン駅で暗殺した独立運動家、安重根の碑を建てる計画が中国で進んでいることをめぐる日韓政府間の応酬は、両政府間で行き違う歴史認識問題の、いよいよ核心部分に行きついたようだ。

中国吉林省の延辺朝鮮族自治州で、その安重根が一時期活動の拠点にしていたとされる「隠れ家」を見た。以下は2007年4月に現地を訪れた時の様子を書きとめておいた一文の再録である。
 

中朝国境を流れる豆満江は中流でいったん北に大きくうねり、延辺朝鮮族自治州の州都、延吉市の東あたりで、また、南下しながら東の日本海へ注いでいく。下流付近は北朝鮮とロシアに両側から挟まれて中国領土は狭くなり、日本海まで15キロ余りの防川というまちで、中国の領土は尽きる。その防川の手前およそ20キロの小さな村に「安重根の家」はあった。
 















行政区画でいえば、琿春市敬信鎮圏河村。幹線道路沿いに中国語で「安重根義士故居」、ハングルで「安重根義士遺跡地」と記した案内表示があり、そこをわき道に200メートルほど入ると、畑の中に小さな家がみえてきた。

わらぶき木造、土壁の平屋。オンドルの煙突が突っ立っている。家屋全体がすこし歪んでいる。

どこからか、ひとりの女性が現れた。近くで農業を営み、この家の管理を引き受けている崔今花さん(33)だった。朝鮮族で、その話すところは、こうだ。
  
100年前、安重根は間島(延辺朝鮮族自治州の旧称)から沿海州にかけての地域で活動し、この家は1908年4~6月の間、安重根とその仲間ら12人が拠点にしていた————


 中に入ると、入り口に3つのかまどが並び、むしろ敷き8畳ほどの居間が広がっている。奥には3畳ほどの部屋が2つ。天井に裸電球が一つぶら下がり、その横の壁に安重根の写真が掛けてある。 

家の歪みは外から見た以上にひどく、壁が傾いていまにも崩れ落ちそうだ。崔さんは4年前まで家族とここに住んでいたが、いたみがひどく、別の家に移ったそうだ。
 
関係当局に補修と保存を訴えてきたが、聞き入れてもらえないという。ここら辺りは以前、朝鮮族の住民が多かったが、だんだんと減り、いま、この村の住民380人のうち朝鮮族は15人だけで、あとはみな漢族だという。当局の腰が重いのはどうやら、そんなこととも関係があるようなのだ。

入り口に募金箱があった。のぞいてみると中国の元札にまじって韓国のウォン札も何枚かみえる。ここ数年、韓国の観光客がふえ、去年は約3千人がここに来たという。崔さんは「みなさんの力を借りてこの家を守っていきたい」と、わたしにも協力を求めるのだった。
 
 
 
 
近くに碑があり、安重根についてつぎのような内容がハングルで刻まれていた。 

<1879年9月2日、黄海道海州生まれ。日露戦争後、義兵闘争に参加。上海、延辺とロシア沿海州一帯で抗日救国活動を展開。1907~09年、何度か琿春県敬信を訪れ、人民を動員、学校を建て抗日と民族独立を宣伝した。1909年10月26日、伊藤博文をハルビン駅で射殺。その事績は中国でも大きな波紋を呼び、周恩来は中学時代、「安重根」という劇を演出、のにち「中朝人民が日本帝国主義の侵略に反対した闘争は安重根が伊藤を銃撃した時から始まった」と語った>
 
 
この家について語られていることが実際にどこまで検証されたものか、わからない。しかし蓋然性はある。

韓国各地で義兵が立ち上がった1907年夏、平壌南西の鎮南浦で無為の日々を送っていた青年安重根は山岳ゲリラに加わった。翌年6月、間島で「連合大韓義軍」の参謀中将に選ばれ、朝鮮半島北部の咸鏡北道へ出撃。このあとロシアのポシェットで「断指同盟」を提唱し、仲間と薬指の先を切って「大韓独立」を誓い合ったといわれる。

1909年10月、安重根はロシアのウラジオストクにいて伊藤博文のハルビン行きを知り、ウスリースクから中ロ国境を越えて綏芬河に入り、東清鉄道でハルビンへ。旅順・大連から満鉄を北上し、奉天(瀋陽)、長春をへてハルビンに向かった伊藤を待ち受けたのだった。

これを現地で聞いた説明と付き合わせると、安重根があのわら屋にいたのは、ちょうど連合大韓義軍の参謀中将になる直前だったということになるわけである。

伊藤暗殺後、日本は一気に韓国の完全な植民地化へと進み、1910年8月、併合。その朝鮮支配を「安定」させるためさらに満洲の支配へと突き進んだ。そんな中で間島の地は抗日闘争のひとつの拠点となっていったのだった。
  ◇
中国・延辺朝鮮自治州はかつて朝鮮側から「間島」(朝鮮語読みで「カンド」)と呼ばれた地域である。日本のかいらい国家「満洲国」の時代は「間島省」とされた。もともと19世紀後半、朝鮮からの移住者によって開墾された土地であることから「墾土」(カント)といったのが、なまったとも言われているようだ。

20世紀初頭の日露戦争(1904~05)は朝鮮半島と満州をめぐる争いだった。勝った日本はさっそく伊藤博文が漢城(ソウル)に乗り込み、時の朝鮮の王、高宗に直接迫って韓国の外交権を奪い保護国化する。1905年11月の第2次日韓協約(乙巳保護条約)である。

韓国は強く反発し、高宗は国際社会に訴えようとオランダ・ハーグの万国平和会議に密使を送る。1907年6月のことだった。密使はハーグで門前払いされ、伊藤の激怒で高宗は退位させられる。日本はこれを機にその夏、韓国支配をさらに強め、軍隊も解散させる。

職を失った兵士らは義兵となり、農民らも加わって各地で蜂起する。その一部は豆満江を越え、間島やロシアの沿海州を拠点に抗日活動をおこなった。そんな中に、のちに伊藤博文を暗殺する安重根もいたのだった。