2024年6月16日日曜日

「民主主義は只(ただ)ではない」/金大中さんが語った日韓の民主主義の違い

5月、韓国・光州で、1980年の「光州事件」にちなむ民主化運動記念行事を見てきた。1980年代末~90年代初め、新聞記者として取材で現地を訪れて以来、30余年ぶりだったと思う。 

光州の街は私の記憶のなかにあるものとはずいぶんと違っていた。街並みは整備され、「市民軍」が立てこもった旧全羅南道庁の建物は記念館になって補修工事が進められていた。 

■金大中さんの全南大学講演

市内にある国立全南大学を訪ねた。805月の学生デモの拠点となったところである。そのことを確認したかったのと、もう一つ、私のこころの中にずっとあった、ある残像をたどってみたかったからである。

光州市にある国立全南大学    

事件から26年が経った200610月、ここ全羅南道地域出身の元大統領金大中さんがこの大学で特別講演会を開いていた。金大中さんが亡くなる3年前のことだった。私がその講演会のことを知ったのはだいぶ後になってからで、たまたまYouTubeで遭遇したのだった。 

金大中さんはここで、民主主義の普遍性や韓国の民主主義、そして日本の民主主義についても熱っぽく語っていた。今回、光州行きにあたって聴き直してみて、改めて腸(はらわた)にしみいるものを感じた。日本の民主主義が危機的な状況にある折、そんな講演内容を拙訳で紹介したい。 

――韓国型民主主義はアジアの民主主義のモデルになり得るでしょうか?

金大中さんの民主主義論は全南大学留学中のウズベキスタンの女子学生のこんな質問に答えるなかで語られた。金大中さんは「民主主義は普遍的なもので、韓国型といったものはない」などと、次のように語ったのだった。https://youtu.be/upk6meSmdHY 

 ■民主主義は只ではない

 民主主義はただではありません。対価なしに得られるものではない。米国の第3代大統領トーマス・ジェファーソンは「民主主義は血なまぐさい」と言いました。そのことはまさに、わが国で証明されました。

金大中さんのYouTube画像

 どれほど多くの人が死んだでしょうか。光州で、そして全国の至る所で…。私も死刑判決を受け、執行直前で助かりました。約6年にわたる監獄暮らしもしました。亡命、軟禁生活も10年以上に及びました。 

 ■根を張った韓国の民主主義

これは自慢ではありません。どれほど多くの方々が、この光州で命を捧げたでしょうか。だから韓国の民主主義はしっかりと根を張っているのです。いまはもう、どんな軍部の人間も、どんな独裁者も韓国では民主主義をしないわけにはいきません。軍部がまた、クーデターを起こすなど夢想だにできません。 

全南大学の正門

私たちは3度、独裁者を克服しました。李承晩、朴正煕、全斗煥。そして結局、盤石の民主主義を築いたのです。

全南大学正門横には1980年5月18日、ここで撮った写真パネルが展示してあった
 ■与えられた日本の民主主義

 最近、日本を見ると、急激に右傾化しています。それは日本人が自ら自分の手で民主主義をやらなかったからです。軍国主義をしていて突然降伏し、戦後マッカーサーが来て民主主義をしろ、というからやったのでした。日本には民主主義の主体勢力がありません。 

 だから過去の軍国主義時代の勢力がまた、復活したのです。いま見ると、そのような軍国主義勢力が幅を利かせてきており、「民主主義を守らないといけない。軍国主義の方向に行ってはならない。非常に危険だ」といっている。いまごろ、そんなことを言っても話になりません。 

 ■過去を教えない日本

 日本は戦争を起こし、戦争犯罪をおかしたことを国民に教育してきませんでした。だから、いま5060代以下の人たちは過去のことをまったく知りません。 

それで、わが朝鮮半島を占領し、朝鮮人を助けてやった、という。中国で南京大虐殺をしたというのは全部ウソだ、われわれは大東亜戦争をし、アジア人を西欧の植民地から解放してやったのだ、という。 

 現在だけでなく、将来がもっと問題です。この先、韓国、中国とも、東南アジア諸国とも葛藤があることでしょう。このように見てくると、「民主主義は只ではない」ということを、日本を見るにつけ、ほんとうに実感してしまいます。 

 ■犠牲になる覚悟が必要

 民主主義について質問したウズベキスタンの学生の心情は理解できます。ほんとうに胸が痛みます。しかし、ウズベキスタンの場合も、民主主義は結局のところ、ウズベキスタンの人たちがしなければなりません。 

 やることができます。ただ、そこには民主主義のために犠牲になる覚悟が必要です。そして国民をそこに導いていかなければなりません。

全南大学キャンパス メタセコイアの並木がきれいだった

 私たちも、「419革命」[1960419日をピークとした全国的な学生蜂起で李承晩政権を倒した民主闘争――訳者注]では、まず学生たちが立ち上がりました。そして遂には、国民がこぞってそれに加勢しました。 

1987年の民主抗争[876月の民主化要求闘争。大統領直選制などを求め、政権側から「民主化宣言」を引き出した――訳者注]のときも、最初に学生、政治家が始めたのが、最後には結局、全国民が参加していったのです。 

そうなると国会の方でも独裁者に圧力をかけ、「李承晩大統領は下野しろ」「全斗煥氏の戒厳令は許さない」となったのです。結局、始まりは私たちが受け持ち、犠牲も引き受けなければなりませんが、最後は、全国民が参加することになり、世界が援けてくれるのです。 

■英国の平和革命と血のフランス革命

ウズベキスタンの場合も同じです。中央アジアのすべての国もそうでしょう。それは必ずそのようになるだろうと思います。 

経済が発展すれば、中産層が生まれます。そうなると中産層は自由を求め、政治参加を要求します。投票権を求め、被選挙権を要求するようになります。要求が認められなければ問題が生じます。 

イギリスでは産業革命によって中産層が生まれました。彼らがそのような要求をすると、貴族らは気持ちよく明け渡しました。それでイギリスは平和革命となりました。 

フランスでは貴族らが要求を受け入れなかった。それで大革命が起き、皆殺しになりました。このことはどこの国であっても真理なのです。 

■揺るがぬ民主主義と、長続きしない民主主義

民主主義は只ではないということ、血と汗と涙を流さなければならないということ、最後は国民が同調するようにしなければならないということ、そうすれば成功し、そうして成し遂げられた民主主義は決して揺らぐことなく根を張ることができます。 

そうしないで外国勢力や偶然によって民主主義がなされても、そういうものは長続きしないということ、そういうことを申し上げたいと思います。 

以上が、200610月、金大中さんが全南大学でおこなった特別講演の民主主義論に関する部分のほぼ全訳である。 

The tree of liberty must be refreshedwith the blood

金大中さんが「民主主義は只ではない」と繰り返し強調し、米大統領トーマス・ジェファーソンの言葉として引用した「民主主義は血なまぐさい」は、金大中さんが韓国語で「민주주의는 피를 먹고 산다」と言ったのを拙訳したものである。 

このフレーズを例えばGoogle翻訳にかけてみると「民主主義は血を食べて生きる」という機械的な逐語訳が返ってくる。ジェファーソンは実際、どう言ったのか。立命館大学で学ぶ韓国からの留学生に調べてもらうと、「これだと思います」と次のような一文を示してくれた。 

The tree of liberty must be refreshed from time to time with the blood of patriots and tyrants. 

Google翻訳にかけると、「自由の木は、愛国者や暴君の血で時々更新されなければなりません」となる。英語に自信があるわけではないが、納得のいく訳語といえる。 

■「民主主義は闘いだ」

最近、フランスのマクロン大統領が「(人々が)民主主義に慣れてしまい、それが闘いであることを忘れている」と語ったという(6月11日付朝日新聞、杉山正欧州総局長)。欧州議会選での右翼政党躍進を伝えるなかで紹介された発言だが、闘いを止めれば、民主主義は後退するというのは真理であろう。

民主化運動記念行事で気勢を上げる参加者 5月17日 光州・錦南路

 

44年前の5月、銃撃の現場となった光州市のメーンストリート、錦南路一帯で開かれた今年の民主化運動記念行事を見ながらずっと考えていたのは金大中さんの「民主主義は只ではない」という言葉のことだった。

           


             立命館大学コリア研究センター上席研究員 波佐場 清

 

2024年6月7日金曜日

ハンギョレ新聞イ・ジェフン記者に聞く(下)/南北関係はどうなっていくのか

韓国のハンギョレ新聞記者イ・ジェフンさんは韓国政府の対応や南北関係のこんごの見通しについても話してくれた。

――韓国政府は北朝鮮の「2国家」路線をどう見ているのでしょうか。 

■「北は反統一勢力」

尹錫悦大統領は「反民族、反統一であり、歴史に逆行する挑発だ」と言いました。金暎浩(キム・ヨンホ)統一部長官(統一相)も「歴史に逆行する」と非難し、「統一は究極の目標であり、最重要課題だ」と言っています。簡単に言えば、北は反統一勢力であり、反民族的で、歴史に逆行する、北が統一をしないというなら、われわれがする――というのが尹錫悦政権の立場です。

韓国大統領室HP  尹錫悦大統領

――尹錫悦政権になって統一部(省)で南北交流を担う部門が統廃合され、人員も削減されました。保守層には「統一部をなくしろ」という主張もあったと聞いています。北の新路線で韓国の統一部もなくなる方向に進むのでしょうか? 

 ■存続する韓国の統一部

 逆でしょう。いま言ったように、北に対し尹錫悦大統領は「反統一、反民族、反歴史的だ」と非難しています。そんなことを言う一方で、統一部をなくすというのは理に合わないでしょう。尹錫悦大統領は外に向けても内に向けても「北が統一をしないというなら、われわれがやらないといけない。私がやろう」といったふうに主張していくと思います。統一部がなくなるとは想像しがたいことです。 

 ■南北逆転

 かつて金日成主席は口さえ開けば統一の話をしていました。朝鮮半島の外にいる人には統一に関しては北の方がある意味、南よりも優位にあるようにも見えたかと思います。北は経済的には劣っているが、民族の自主、統一という面では南よりずっと積極的で一定、政治的正当性もあるではないか、と。そんな歴史的関係が金正恩総書記のこんどの宣言で逆転しました。北の政権にとっては政治的に危険な状況といえるでしょう。 

 逆に、韓国政府にとって統一部は政治的資産になります。いまの枠組みが大きく変わらない限り、韓国はこの先どんな政権になっても統一部はなくならないと思います。 

――この間、韓国では「南北は統一指向の特殊な関係」という考え方が広く共感されていたように見えました。 

 ■「特殊関係」か、「2国関係」か

 その通りです。南北基本合意書ができたあと、南北に関することはすべてそれに基づいてやってきました。北に行くときはパスポートでなく統一部長官(統一相)の承認を受ける。ODA援助から北を除く。貿易でなく交易とし、輸出入統計に含めない。学校でも「北は外国ではない」と教えてきました。 

一方で、韓国では一部進歩的知識人を中心に「平和的2国関係を」とする主張がずっとなされてきました。北を国家ではなく「反国家団体」とする国家保安法に反対する立場から「南北が敵対的でない、平和的な2国関係になれば保安法は根拠を失い、そこから統一への道も開ける」とするものです。とくに若い層には「統一」より「平和共存」志向が強くなってきており、こんご、そんな主張も強くなるように思えたのですが、北の新路線で、そうした論議はかえって困難になるかもしれません。 

――南北分断は80年近くになります。若い層は「統一」より「平和共存」志向だといわれましたが、統一はしたくないということなのでしょうか。 

 ■北は他人ではない

統一への関心がないと言っても、例えば北朝鮮がどこかの国とスポーツの試合をするとなると、たとえそれが韓国との友好国であったとしても、韓国人の大部分は必ず北の方を応援します。外国人にはよく分からないと思いますが、韓国人が北を応援しないのは南北間で試合するときだけです。 

北朝鮮は貧しく、小さな国です。しかし、韓国人はEU委員長や英国首相の名は知らなくても、北の最高指導者の名前は、そこらの小学生でもみんな知っている。北は他人ではないと思っているからです。韓国人は保守的であれどうであれ、言葉では統一する必要はないと言っていても、いつか、そういうときになれば、統一すると思っているのです。 

――韓国を「敵対国家」とする北朝鮮の新路線はずっと続いていくのでしょうか。韓国とはもう、対話や交渉はしないのでしょうか。 

 ■「発展権」をどうするか

結論から言えば、変わる可能性はあると私は見ています。北朝鮮は米国と交渉するときなどによく「自主権」「生存権」「発展権」ということを言っていました。それでいうと、「自主権」と「生存権」は金正恩体制のいまの路線で最小限の目標は達成できるでしょう。しかし「発展権」は可能なのか、ということです。 

「発展権」を北朝鮮流に言えば、「瓦屋根の家に住み、白いご飯と肉のスープ」。つまり生存のレベルではなく、ちょっとゆとりのある暮らしということになるでしょう。それが中ロの援助でできるのか。できるならすでにそうなっていたはずです。だから、金日成主席の時代から米国、日本と関係正常化をしようとしてきたのです。 

「発展」の問題を解決するには米国、日本、さらには韓国とも関係を持ち、交流することが不可欠だということです。停戦体制を平和体制にかえる問題もあります。そう考えると「敵対的2国家関係」は、持続可能と断言し難いと思います。 

すでに見たように「2国家関係」というのは歴史的趨勢であり、戦略的、防御的なものです。しかし「敵対的」かどうかは相手の出方によって変わり得ます。北朝鮮がこの先も永遠に統一の話をせず、大韓民国を他国だと、ずっと言い続けることができるのかどうか。そういうことはできないように私には思えます。 

――韓国の尹錫悦政権は敵対政策を続けていくのでしょうか。  

 ■「北カード」

変わる可能性がないとは断定できません。もちろん尹錫悦大統領の基本認識に照らすと真摯な意味での対北政策変更はまず期待できないといっていいでしょう。しかしこの春の総選挙で野党が圧勝したことで国政運営が難しくなっています。就任以来この2年間の米日偏向外交で韓国の外交的立場が弱まって来てもいます。そんな状況にあって活路を南北対話に求めようとする可能性も排除できないと思います。 

歴代の保守政権、李明博政権や朴槿恵政権も、行き詰った時には「北カード」を使おうとしました。全斗煥政権のときもそうでした。もっとも、政権の狙い通りに行くかどうかは、別の問題ですが……。 

――最後に、ご自身はいま、朝鮮半島の平和と統一について、どう考えておられるのでしょうか。 

 ■真の平和のために…

 今のような状況で、仮に、統一か平和か、どちらか一つを選べと言われれば、私は平和を選びます。しかし統一なしに真の平和はむずかしいと思います。統一は困難だけど、私たちが進んで行かなければならない道なのです。

 

イ・ジェフン(이제훈/李制勲) 1965年生まれ。ソウル大学社会学科卒。北韓大学院大学で博士。93年ハンギョレ新聞入社、編集局長などを経て現在、同紙政治部統一外交安保チーム先任記者。近著に『非対称な脱冷戦1990~2020:平和への細い回廊に刻まれた南北関係30年』(市村繁和訳、 緑風出版)。非対称な脱冷戦1990~2020 李 制勲(著/文) - 緑風出版 | 版元ドットコム (hanmoto.com)

                                    おわり

立命館大学コリア研究センター上席研究員 波佐場 清

2024年6月6日木曜日

ハンギョレ新聞イ・ジェフン記者に聞く(中)/北朝鮮社会に混乱や動揺はないのか

韓国のハンギョレ新聞政治部統一外交安保チーム先任記者、イ・ジェフン(이제훈/李制勲)さんは北朝鮮内部の状況についても語った。

――北朝鮮がここに至って「南北2国家」を明言したのはなぜなのでしょうか。 

 ■吸収統一への警戒

 金正恩総書記の演説のなかに、「万一の場合、核戦力を含むすべての物理的手段を動員して南朝鮮の全領土を平定…」などとした部分があり、一部保守的な学者の中には金日成時代の「戦争統一論」に戻るものだという人もいます。しかし金正恩総書記は「敵が手出しをしない限り、一方的に戦争を決行しない」とも言っています。私は、防御的なものであり、戦略的変化を追求するものだと見ています。

労働新聞HP  昨年末の労働党中央委全員会議での金正恩総書記
北朝鮮は1980年代からずっと韓国に対して「吸収統一をするな」と言い続けてきました。「2国家」表明はそんな文脈の上にあり、吸収統一の憂慮をなくそうとするものです。金正恩総書記は韓国の歴代政権について、「われわれの体制と政権を崩壊させようという野望は『民主』も『保守』も同じだった」と言っています。南は吸収統一を狙っている、よろしい、それなら統一はしない――ということなのだと思います。 

■南と手を切る好機

なぜ、今なのかで言えば、3つの側面があると思います。まず国際情勢。新冷戦なのかどうかはともかくも米国と中国が対立し、北朝鮮は中国、ロシアとの関係を強めている。そんなときに対米交渉が決裂し、北朝鮮としては南と手を切るのは今だ、「北方政策」に集中しよう、と判断したのでしょう。 

次に、南北関係です。南北間の交流協力が始まって30年になりますが、北で主導権が取れていないし、南への依存度も高まってきていました。そんなところへ「北は敵だ」という尹錫悦政権が登場してきた。文在寅前政権のように、毎日、対話しよう、会談をしようと言ってきているときに「敵対的な2国家関係」などというのはむずかしいが、「今なら…」というわけです。 

北の内部事情からいってもその必要に迫られていました。北では3年ほど前から「反動思想文化排撃法」「青年教養保障法」「平壌文化語保護法」という3つの法律が相次いで施行されています。南のビデオやテレビを見るな、南の言葉を使うな、と。労働新聞を見ると、思想闘争をしなければならないとしきりと説いている。思想取り締まりのうえからも南との遮断が迫られたのだと思います。 

――それにしても急な転換です。北朝鮮はごく最近まで一貫して統一を「最重要課題」としていました。そんなところへ、いきなり「統一といった概念をなくしろ」という。大きな混乱は起こらないでしょうか? 

■大きな混乱?

統制と収拾ができないほどの困難さを伴うだろうと思います。金正恩総書記の言うとおりに「民族史から『統一』『和解』『同族』という概念を完全になくす」となると、ほぼすべての教科書や辞書、百科事典なども改めなければならない。金日成、金正日の選集や著作集のようなものを見ても真っ先に出てくるのが統一の問題ではありませんか。 

たとえば、『金日成著作集』の第31巻には、1976年に日本の月刊誌『世界』の編集局長とおこなった会見の内容が出てきます。そこでは「クロス承認」[日米が北朝鮮を、中ソが韓国をそれぞれ承認することで朝鮮半島の平和を達成しようという政策。70年代以降、韓米によって唱えられた――筆者注]に触れる中で「『2つの朝鮮』を言うのは売国奴だ」というようなことを言っている。どうしますか。直すこともできないでしょう。 

金正恩総書記は昨年末の党中央委全員会議で「現在、朝鮮半島に最も敵対的な2つの国家が併存していることについては、だれも否定できない」と公言しました。「朝鮮は一つ」と言っていた祖父(金日成)の「遺訓」と孫(金正恩)の「教示」は論理上、共存不可能な状況にあるのです。 

■経済的にも負担

ともかく、図書館にある本も、科学技術などイデオロギーと直接関係のない分野を除けば、統一という言葉が出てこないものはまず、ないでしょう。彼らは口さえ開けば、「統一」と言ってきたのですから。徹底するとなると、経済的にも大きな負担になると思います。 

この間、首都平壌の入り口に設置していた「祖国統一3大憲章記念塔」の撤去▽京義線・東海線道路での地雷埋設と街路灯撤去▽北の「愛国歌」の歌詞変更▽平壌の地下鉄駅「統一駅」の駅名変更――といったことが報じられています。 

金正恩総書記は1月の最高人民会議で、統一に関連した憲法上の規定の削除に言及し、「次回の最高人民会議で憲法改正を審議すべきだと思う」と言っていました。その後どうなったのか、次の最高人民会議はいつ開くのか、といった続報はありません。さまざまな問題が生じていることも考えられます。 

――北朝鮮の一般人民の思いは、どうなのでしょうか? 動揺や大きな反発などはないのでしょうか? 

■「統一」の目標を失って…

北朝鮮に長い間住んでいた人に聞いてみると、外部の人にはよく理解できないだろうが、北では「やれ」と言われれば、そのとおりにする、のだと…。少し冷笑的な言い方でしたが、人民は反発したりはせず、適応していくだろう、というのです。

ハンギョレ新聞のイ・ジェフン先任記者

しかし、いくら「一心団結」が強調され、閉鎖的な社会だからといって、北の社会にあって「統一」は空気のようなものだったと思われます。そんなところへ一朝にして「統一をしない」という。それでうまくいくのか、という気がします。 

人民の不満を抑えてきたのはイデオロギーです。言ってみれば、次のようなことだったと思います。

われわれが統一しようというのに、米国が南朝鮮を占領し、植民地にしてわれわれを圧迫している。戦争も起こし、われわれを無くしてしまおうと虎視眈々と狙っている。 

だから、われわれは貧しいなかでも武器を大量につくらなければならず、人手が十分でないというのに若者をみな軍隊に送らなければならない。夏場や春には農作業をしなければならないのに、米国の奴らが来て軍事演習をし、飛行機を飛ばすから、しかたなく地下のトンネルに入って過ごさなければならない。 

 そんななかで、統一さえすれば苦しみは終わる、統一をしよう――と。そういうことでやってきたのに統一をしないという。だとすれば、この苦しみはどこから来ているというのか、どうやって解決したらいいのか、と……。 

 ■北の政権にリスク?

金正恩総書記は、一心団結し、「卵に思想を込めれば、岩をも砕く」の精神で一生懸命働けば、われわれも他人を羨むことのない、いい暮らしができる、というようなことを言っています。人民はどこまでそれを信じていくのか。北朝鮮のこんどの新路線は、金正恩政権にとって危険な側面があると私は思います。(つづく)

           立命館大学コリア研究センター上席研究員 波佐場 清

 

2024年6月5日水曜日

ハンギョレ新聞イ・ジェフン記者に聞く(上)/ 北朝鮮の「南北2国」路線、長期間をかけて準備

 「北と南は同族の関係でなく、敵対的な2国間関係」「わが共和国の民族史から『統一』『和解』『同族』という概念を完全になくすべきだ」――北朝鮮が昨年末から今年初めにかけてこんな方針を打ち出し、実際に行動に移しつつある。朝鮮半島の南北分断からほぼ80年になる。この間一貫して「統一」を主張してきた北朝鮮に何が起きたというのか。南北関係はどう展開していこうとしているのか。5月、韓国を訪問した折に、こうした問題で洞察に富む筆をふるうハンギョレ新聞記者イ・ジェフン(李制勲)さん(58)に聞いた。

(立命館大学コリア研究センター上席研究員 波佐場 清)


イ・ジェフン(이제훈/李制勲) 1965年生まれ。ソウル大学社会学科卒。北韓大学院大学で修士・博士。93年ハンギョレ新聞入社。編集局長、『ハンギョレ21』編集長などを経て現在ハンギョレ新聞政治部統一外交安保チーム先任記者。近著に『非対称な脱冷戦1990~2020:平和への細い回廊に刻まれた南北関係30年』(市村繁和訳、 緑風出版)。非対称な脱冷戦1990~2020 李 制勲(著/文) - 緑風出版 | 版元ドットコム (hanmoto.com)

 ――南北関係の歴史的な転換といえそうです。朝鮮民主主義人民共和国という国のアイデンティにもかかわるように思えます。予兆はあったのでしょうか。

 ■外務省局長が「入国」不許可

 信号は発せられていました。例えば昨年7月1日、北朝鮮は、韓国現代グループの玄貞恩会長の金剛山地区(北朝鮮)への訪問希望にたいし、外務省局長名で「南朝鮮のいかなる人物の入国も許可できない」という談話を出しました。玄会長は、金剛山地区の観光事業に尽力した夫の故鄭夢憲元会長のお墓がある同地区への訪問を韓国統一部(統一省)に申請していました。それに対して北は、外務省局長談話で「入国」は許可できないとしたのです。

  南北は1991年末に採択した「南北基本合意書」で、「双方は国と国の関係でない、統一を指向する過程で暫定的に形成される特殊な関係」であると約束しあい、その通りにやってきました。韓国では統一部、北では特別な対南機構がそれぞれ窓口となり、いずれも外務省とは切り離していた。南北間の人の往来も「入境」「出境」と言っていました。そんなところへ、外務省の局長が出てきて「入国」は許可しないとしたのです。その時点で明らかに、南を「外国」として扱っていたわけです。

  ■対南部門を外務省傘下に?

 昨年末の労働党中央委員会全員会議で金正恩総書記は「党の統一戦線部をはじめ対南事業部門の機構を整理改編する」と明らかにし、今年1月15日の最高人民会議(国会に相当)では祖国平和統一委員会や民族経済協力局、金剛山国際観光局の廃止を決めてしまいました。

労働新聞HP   1月15日、最高人民会議で演説する金正恩総書記

 今年1月初めの労働新聞は、崔善姫外相が金正恩総書記の指示を受け、対南事業部門の整理改編について対南部門の関係者と協議会を開いた、と報じました。外相が主催したというのです。対南部門はいったん外務省の下に入っているように見えます。

――2年前に発足した韓国保守派の尹錫悦政権は「北朝鮮の政権と軍は韓国の敵」とするなど、前任の文在寅政権と比べ強硬な姿勢をとっています。そのことと関係があるのでしょうか。 

 ■長い期間にわたって準備?

 韓国内には、尹錫悦政権の対北政策が敵対的だから北も強硬なのであり、韓国の政権がかわれば、北の対南政策も変わるという見方がありますが、私はそうは思いません。この間の歴史的な積み重ねのうえに、この「新路線」がある。長い期間にわたって準備してきたものだと見ています。 

 要するに、南北の分離です。たとえば、北朝鮮は20158月、北の標準時を韓国や日本より30分遅らせる「平壌時間」というのを始めました。労働新聞は「奸悪な日本帝国主義者らの、わが国の標準時間まで奪う許し難い行為」を糾弾していましたが、金日成・金正日政権期には問題にしていなかったことを考えてもこじつけに過ぎません。

  金正恩総書記は南北で時間を分離することを狙っていたのだと思います。「平壌時間」はその後、20184月の板門店での南北首脳会談直後に撤回されましたが……。 

 北朝鮮のいう「わが国家第一主義」というのも同じです。これは201711月の労働新聞に初めて登場し、20211月の第8回党大会で公式的に宣言されました。先代の父、金正日総書記は「わが民族第一主義」と言っていた。明らかに南北分離志向といえます。 

 ■「南の革命」を放棄

 第8回党大会時の党規約改定では、労働党の「当面の目的」について、それまで「全国的な範囲で民族解放民主主義革命の課題を遂行する」としていたのを、「全国的範囲で社会の自主的で民主主義的な発展を実現する」と改めた。韓国は革命の対象ではない、韓国に対して統一戦線戦術を駆使しないといったのと同じことです。私は当時、「北は2つの国家を指向している」と書きました。 

 第8回党大会では、金正恩総書記は「統一という夢はさらにかなたへと遠ざかった」と言いました。米朝のハノイ会談が決裂した後でもあり、当時は、情勢が悪くなったから、という解釈がなされていたのですが、「南北2国家」「統一問題」という観点から改めて演説文を読み返してみると、そこには「統一をしなければならない」といった言い方がない。第7回党大会(2016年)では統一は「最も重大かつ切迫した課題」としていたのに、です。 

8回党大会の時点、あるいはそれを準備する過程で金正恩総書記と首脳部は悩んでいた可能性があります。それで、「統一の夢はかなたへ遠のいた」という言い方になったのでしょう。後から考えると、そういうふうに解釈できます。どれだけの期間にわたって準備をしたかは分かりませんが、「南北2国家」は即興で決めたようなものではありません。 

――北朝鮮は長いあいだ、「朝鮮は一つ」と言っていました。 

157カ国が南北双方と国交

 「朝鮮は一つ」というのはスローガンにすぎず、内容を伴いませんでした。中国(中華人民共和国)が「一つの中国」というのとは違う。中国の場合は、どこかの国が台湾と国交を結べば、その国とは断交します。中国、台湾双方との国交はありえない。例外はありません。

  その点、北朝鮮と国交を持つ国はいま、159カ国を数えますが、うち157カ国は韓国とも  国交がある。シリアとパレスチナの2カ国を除くと、みな、南北双方と国交を結んでいます。これまではキューバも含めて3カ国だったのですが、そのキューバも今年になって韓国とも国交を結びました。 

 金日成主席の時代から北が掲げてきた「朝鮮は一つ」というモットーは「絶対原則」というより統治イデオロギーの一環でした。実際には「2つのコリア」をずっと認めてきていたのです。 

 ■「2つの国家」かつ「統一指向の特殊関係」

  1972年の「74南北共同声明」もそうでした。「自主・平和・民族大同団結」という 「統一3原則」に合意したこの声明は、正式国号こそ明示していなかったものの、お互いの政治的実体を暗黙のうちに認めていました。 

 19919月の南北の国連同時加盟は、大韓民国と朝鮮民主主義人民共和国が国際法的に 別個の「主権国家」として国際社会に公認されたことを意味しました。つづいてその年12月、南北は「基本合意書」を通して双方の関係が「統一を指向する特殊な関係」であると確認しあいました。要するに、国際的には「2つの国家」、南北間では「統一指向の特殊関係」という矛盾した関係設定に合意したというわけです。 

■「主体年号」と、「南北共同宣言」と…

金正日総書記の時代になり、19977月に北朝鮮独自の「主体」年号が導入されました。金日成主席が生まれた1912年を「主体元年」とするものです。南北で「時間の分離」を指向したといえ、さきほど触れた金正恩総書記の「平壌時間」は、その延長線上にあったというわけです。 

金大中コンベンションセンターでは南北首脳談時の写真が展示されていた  5月18日、光州市内で
20006月、金大中大統領と金正日総書記の間で分断後初の南北首脳会談がおこなわれました。そこで出された「南北共同宣言」は、南北の統一案(連合制案と、低い段階の連邦制案)に共通性があることを認め合い、「その方向から統一をめざす」としていました。「統一」が表に出ているのですが、「長期共存」を指向している点に注目する必要があります。 

分断の歴史にあって南北の最高指導者が初めて直接会い、相手方の統一案が「悪いもの」ではないと認め合い、統一を「長期にわたる過程」と認識しあったという点が重要なのです。 

――そんなところへ、今、金正恩総書記が「2国家関係」を明言した、ということになりますね。   (つづく) 

2024年3月3日日曜日

「蕃国」新羅を見下す「帝国」日本/百済歴史散策⑱

日本の律令国家は、隋唐帝国の脅威に対処するための権力集中と軍事体制強化によって実現していった。その仕組みは大化改新以後半世紀、近江令、飛鳥浄御原令をへて701年の大宝律令の完成によってほぼ整った。「日本」が国号として正式に用いられるようになったのもこのころだ。 

■唐の律令法と日本

律令国家づくりで日本が手本にしたのは唐の国制だった。そんな唐の律令法とはどういうものであり、日本はどう見習ったのか――。坂上康俊『平城京の時代 シリーズ日本古代史④』(岩波新書)は次のように書いている。 

隋唐の律令法は、天から統治を委託された皇帝(天子)が、徳治主義をもって天下を統治するための法、すなわち帝国法でもあった。…

皇帝が支配する空間には同心円的に価値が付与され、郡県に分けられて官僚が派遣される支配地を「中国」と呼び、その周辺に羈縻(きび)政策といって、官僚を派遣せずに現地の有力者の支配を温存する地域を置くことがあり、さらに外蕃(げばん)と呼ばれる、皇帝に朝貢してくる諸国があり、さらにその外側には、国家の態を成さない人々がいることにしていた(華夷秩序)。 

日本の律令は、いま述べた点まで含めて唐のそれとそっくりに作られている。天皇は皇帝・天子とも呼ばれ(儀制令)、元号を制定し(公式令)、詔勅を出す様式や手続きが盛り込まれている(公式令)。 

日本と新羅はともに唐に朝貢していた。しかし、日本が唐の冊封を受けずに独自の年号や律令法をつくったのに対し、唐の脅威により直接的にさらされた新羅は激しいあつれきの末に冊封国として唐との関係を築いていったことは先に見た通りである。 

■「蕃国」新羅

日本の律令にあって外国は「隣国」の唐と、「外蕃(蕃国、諸蕃とも)」の新羅(のちに7世紀末にできた渤海も)に区分され、ほかに隼人、蝦夷など列島内の異民族を「夷狄(いてき)」と位置づけた。そこでは、天皇は蕃国や夷狄を従える存在であらねばならなかった。 

新羅は、唐と対立していたことから日本には比較的低姿勢で臨んだ。日本が大宝律令を制定した後も、たとえば706年正月に藤原宮でおこなわれた元旦の朝賀に使臣を参列させたりしている。日本はそんな新羅を名目上、朝貢国とし、日本からも遣新羅使を送っていた。

奈良・明日香村の甘樫丘から藤原京跡付近を望む。正面は耳成山

■新羅征討計画

変化は、唐と新羅の接近によってもたらされた。732年、渤海が唐山東半島の登州を攻撃、唐の要請を受けた新羅は唐側について参戦した。これをきっかけに735年、新羅は唐から大同江以南の朝鮮半島領有を正式に認められ、両国は安定した関係を築いていった。 

これに伴い、新羅は日本に強い態度で臨むようになった。これより先、渤海は日本に使節を送ってきており、対新羅で利害を共にする日本と渤海の関係はおのずと深まった。とはいえ、日本にとって渤海はあくまで「蕃国」であり、朝貢国あらねばならなかった。 

758年に渤海から帰国した小野田守が、唐で「安史の乱」(755763)が起こり、玄宗皇帝が都から逃げたと報告すると、翌年、朝廷は新羅征討計画を立てた。内乱の唐に新羅を援ける余裕がないとみたようで、当時実権を握っていた恵美押勝(藤原仲麻呂)によって準備が進められた。 

律令国家は諸蕃と夷狄を支配する帝国でなくてはならなかった。新羅が名目的な朝貢関係から離反するのを容認することは、押勝にはできなかった。

(吉田孝『日本の歴史【2】 飛鳥・奈良時代』岩波ジュニア新書) 

新羅征討は押勝の失権で実行に移されなかったが、日本と新羅の関係はこのように険悪なものになっていたのである。 

■「白村江の呪い」

以上が7世紀後半から8世紀半ばごろにかけての日本と新羅の関係の概略である。記紀はこんな時代状況のなかで編纂されていったのだった。明治維新時の「征韓論」と結びついたとみられる神功皇后による「三韓征伐」は、そんな史書の中で語られていたのである。 

『日本書紀』の記述について盧泰敦(橋本繁訳)『古代朝鮮 三国統一戦争史』(岩波書店)は次のような指摘をしている。 

白村江の戦い以降、数多くの百済人が倭に亡命した。…亡命した百済人のうち相当数は、彼らの才能を活用しようという倭の朝廷に登用された。…日本の皇室に寄生して明日の暮らしを立てていくほかないのが、彼らのもつ宿命であった。 

彼らは、百済復興と故国復帰を望んだが、自力で具体化する力量はなかった。彼らがこれを熱望すればするほど、実現の可能性は、日本勢力の朝鮮半島への介入に見出すほかなかったのである。…このために朝鮮半島が早い時期から日本の天皇家に従属したという歴史像の構築に積極的に乗り出した。…

いわゆる百済三書[筆者注:日本書紀の基本史料の一つ]は彼らの叙述であるか、彼らの手を経て修正されたものと考えられ、そうした著述は『日本書紀』の内容構成に大きく作用した。…

『日本書紀』は、その後の日本人の対外意識、特に対朝鮮認識に大きな影響を及ぼした。白村江の戦いで流された百済人と倭人の血の呪いは、千数百年過ぎた今日まで作用して、韓日両国人の間の葛藤を焚きつけている。いまやその呪いから逃れねばならない。 

■「朝貢」vs「交隣」

『日本書紀』の記述は日本人の対朝鮮観に大きな影響を及ぼし、その「呪い」はいまもとけていないというのである。同書は次のようにも書いている。 

  唐との安定的な朝貢・冊封関係を結ぶようになった新羅としては、今や現実的に安全のために日本の動向にこれ以上神経を使う必要がなくなった。日本は隣国として同じ唐の朝貢国であるので、当然、両国は対等な隣国として関係を結ばなければならないと考えた。 

この点に日本が反発したので、両国の関係は次第に悪化した。新羅の対外政策は、唐とは事大関係、日本とは交隣関係と設定された。こうした対外政策の基調は、その後、高麗・朝鮮を経て、朝鮮半島諸王朝の対外政策の基本的枠組みとなった。 

一方日本は、引き続き新羅を朝貢国とみなそうとしたため、両者の間に摩擦と不信が積み重なっていった。新羅としては、日本との関係は交隣関係であるほかなく、現実的に日本もそれを受容するほかないと考えたが、日本朝廷が拒否する姿勢を堅持したことによって、両国の関係は事実上断絶へと向かった。…

両国支配層が想定する相手国の性格は、それぞれ隣国・蕃国であった。これは統一戦争の終盤である新・唐戦争[筆者注:「羅唐戦争」]を歴史的背景として形成されたもので、その後も両国関係に影響を与え、ある面では、今日でも両国人の意識に作用していると思われる。 

日韓はどうしてこうなのか――。そんな私の問いかけに対する一つの答えがここには提示されている。これをどう受け止めるか。歴史を直視することが未来の関係づくりへの確実な一歩であることはいうまでもない。(おわり)

 立命館大学コリア研究センター上席研究員 波佐場 清

参考資料(百済歴史散策⑯~⑱)

姜在彦『歴史物語 朝鮮半島』(朝日選書)

姜在彦『新版 朝鮮の歴史と文化』(明石書店)

朝鮮大学校歴史学研究室編『朝鮮史 古代から近代まで』(朝鮮青年社)

盧泰敦(橋本繁訳)『古代朝鮮 三国統一戦争史』(岩波書店)

吉川真司『飛鳥の都 シリーズ日本古代史③』(岩波新書)

韓国民族文化大百科事典 경주 문무대왕릉(慶州 文武大王陵) - 한국민족문화대백과사전 (aks.ac.kr)신문왕(神文王) - 한국민족문화대백과사전 (aks.ac.kr)

坂上康俊『平城京の時代 シリーズ日本古代史④』(岩波新書)

大津透『律令国家と隋唐文明』(岩波新書)

吉田孝『日本の歴史【2】 飛鳥・奈良時代』(岩波ジュニア新書)

2024年2月28日水曜日

倭と新羅の和解と不信/百済歴史散策⑰

白村江の敗戦によって倭国は国家体制の整備と防衛の強化を迫られた。防衛政策では敗戦翌年、対馬・壱岐・筑紫に「防人(さきもり)」と「烽(とぶひ)」(のろし)をおき、亡命百済人の指導下、大宰府を守る水城や大野城、基肄(きい)城を築城、瀬戸内海の要地や大和でも朝鮮式山城が築かれた。 

国内政策でも664年、中大兄は「甲子(かっし)の宣」を発して制度改革に着手。冠位制の改定や氏上(うじのかみ)制で豪族らの不満をかわし、体制の立て直しにかかった。中大兄は6673月、飛鳥から近江の大津宮に遷都した。防衛上の理由からとの見方がある。

大津宮跡近くの琵琶湖  大津市柳が崎

大津宮跡  大津市錦織
668年正月、中大兄は大津宮で即位して天智天皇(在位668671)となり、近江令を編纂(異説あり)、最初の戸籍である庚午年籍を作るなど、緊迫した国際情勢に対応する律令体制づくりを進めた。 

■倭王朝滅亡の危機

すでに見たように、高句麗が唐・新羅軍に滅ぼされたのは天智即位とまったく同じ時期だった。大津宮遷都後の66711月、百済に駐屯していた唐の鎮将の使者が筑紫に来ていたが、これは倭が高句麗と結ぶのを牽制するためだったとの見方がある。

高句麗が滅亡する直前の6689月、新羅の使臣が倭を訪れている。両国の断絶から11年、白村江の戦いから5年が経っていた。ここで天智は新羅王らに船を与え、国交を再開した。このあとに羅唐戦争が始まっており、新羅は唐との対決に備えて背後の倭との和平へ布石を打ったようにもみえる。 

高句麗を滅ぼした唐王朝は北方、西方でも対抗勢力を屈服させ、最大版図を実現していた。669年段階の唐の東方での課題は、新羅の後方海上の倭を屈服させることだった。吉川真司『飛鳥の都 シリーズ日本古代史③』(岩波新書)は次のように書いている。 

  倭王朝は天智八(六六九)年に新羅使を迎え、戦勝国からじかに高句麗の滅亡を聞かされた。迫りくる脅威をやわらげようと、天智天皇はすぐに遣唐使を派遣し、高句麗平定を祝ってみせたが、唐の倭国征討計画はすでに始まっていた。後世のモンゴル襲来に匹敵する、倭(日本)王朝滅亡の危機であった。 

そんな情勢を一変させたのが「羅唐戦争」(670676)だった。唐と新羅が対立すると、唐の倭国征討は棚上げになったのである。 

■天智から天武へ

671年、唐と新羅が相次いで倭国に使節を送ってきた。双方、それぞれに倭の協力を求めたとみられる。厳しい選択が迫られた倭は、綱渡りの交渉で戦争への介入を避けようとしていた、そんなさなかの同年9月、天智天皇が病に倒れ、12月に没した。

天智天皇陵  京都市山科区

天智の後継としていったん子の大友皇子が決まったものの、弟の大海人皇子が巻き返して権力を掌握した。672年の「壬申の乱」である。大友が「羅唐戦争」で唐側につく動きをみせたのに対抗して大海人が決起したとの見方もある。 

大海人は翌6732月、飛鳥浄御原宮で即位し、天武天皇(在位673686)となった。半年後の8月、新羅が「祝賀使節」を送ってくると天武はその入京を許すなど、新羅との関係を深めた。一方で、唐との交流はこのあと約30年にわたって途絶え、遣唐使派遣の再開は702年まで待たなければならなかった。 

■倭と新羅の「蜜月」

「羅唐戦争」で朝鮮半島から唐を追い出した新羅は、結果として、日本の危機を救う防波堤の役割を果たした。唐は西方の吐蕃との対立や則天武后(在位690705)の執権をめぐる内政問題で余裕がなくなり、新羅と倭にとっての唐の脅威は670年代の終わりにひとまず消えた。 

これによって、「白村江の戦い」以来続いていた倭の臨戦体制は終わりを告げ、平時にふさわしい体制に切り替えられていくことになる。天武朝下で進められたのは律令制の確立だった。 

681年、飛鳥浄御原令編纂開始▽682年、藤原京造営開始▽684年、「八色の姓」を定めて豪族たちを天皇中心の新しい身分秩序に編成――。天武は686年に没したが、これらの施策は、後を継いだ皇后の持統天皇によって実行されていった。 

新羅でも680年代に集権的中央官制が完成。倭と新羅は歩調を合わせるように集権的国家体制を整備していったのだった。この時期、倭と新羅の関係はきわめて緊密であり、唐との関係が冷えた分、さまざまな文物や情報が新羅から倭に伝えられた。 

■倭国警戒の「海中陵墓」

とはいえ、新羅の倭に対する警戒心は強かった。

文武大王陵  慶州市HP
新羅の都であった慶尚北道慶州(キョンジュ)市の海辺近くの沖合に「文武大王陵」がある。三国統一を成し遂げた新羅30代文武王(在位661681)の「海中の陵墓」といわれている。

朝鮮の史書『三国遺事』によると、文武王が681年に没すると、その遺言によって東海(日本海)で葬儀をおこなった。遺言は、仏教の法式に則って火葬した後、東海に埋めれば、龍となって倭の侵攻を防ぐ――とする内容で、後継の子の神文王(681692)が、その通りにしたがったという。 

陵墓の岩は沖合200メートルほどのところにある。東西南北の両方向に水路がつくられ、そこに平べったい大きな石が置いてある。遺骨はその下に埋められたのではないかともみられている。 

近くに、この時建てられた感恩寺という寺の跡もある。この寺は元もと「鎮国寺」と呼ばれ、倭兵を防いで国を安定させるという意味をもっていたという。 

新羅には、倭に対する根本からの警戒心があった。実際、新羅と倭の緊密な関係は長続きしなかった。(つづく)               波佐場 清 


2024年2月24日土曜日

「羅唐戦争」と新羅の統一/百済歴史散策⑯

百済を滅ぼした唐と新羅は、北と南から挟み撃ちにするかたちで高句麗に迫っていた。そんなとき、高句麗で独裁体制を固めてきた淵(泉)蓋蘇文が665年(664年あるいは666年とも)に没すると、後継をめぐって蓋蘇文の身内で争いが起きた。 

蓋蘇文の次男の淵男建が主導権を握り、兄と叔父を追放すると、兄は唐に走り、叔父は新羅に降った。そんななか北方から唐軍、南方から新羅軍が攻めて平壌城を包囲した。男建は最後まで抵抗したが6689月、力尽きて投降、ここに高句麗は滅んだ。 

■唐の支配欲望

百済に続く高句麗の滅亡はしかし、そのまま新羅の三国統一ということにはならなかった。唐は新羅を含む旧三国をすべて支配下におこうとした。異民族に一定の「自治」を与えて統治する独自の「羈縻(きび)政策」をとろうとしたのである。 

百済の故地は、百済復興軍壊滅後の664年、洛陽に連行していた元百済王子扶余隆を熊津(公州)都督に任命して管轄させた。高句麗が滅ぶと668年、平壌城に安東都護府を置き、唐将・薛仁貴2万の兵を与えて駐屯させた。 

新羅についても、唐はこれより先の663年、文武王に鶏林(新羅の別称)大都督という内臣の官職を与えて配下においた。新羅には屈辱だったが、高句麗との敵対に加え、背後の倭国への警戒もあり、従うほかなかった。 

■「羅唐戦争」

670年、高句麗の遺民が唐に反旗をひるがえした。すると、唐と提携していたはずの新羅軍がこれを支援した。唐が反撃に出ると、高句麗遺民らは高句麗最後の王、宝蔵王の外孫にあたる安勝という人物を押し立て、新羅の地に駆け込んだ。 

新羅は彼らを現在の全羅北道益山にあたる旧百済の金馬渚に住まわせ、安勝を「高句麗王」に冊封した。唐中心の支配体制への挑戦であり、以来676年に唐軍が朝鮮半島から撤退するまで続いた唐と新羅の戦いを韓国では一般に「羅唐(ナダン)戦争」と呼んでいる。

安勝が一時ここにいたともいわれる王宮里の遺跡 益山市HP
羅唐戦争 赤は唐軍、黒は新羅軍 『한국사』미래엔

新羅が唐に強く出た、そのころ、唐の西方領に吐蕃(チベット)が進攻していた。唐は6704月、高句麗支配にあたっていた薛仁貴を吐蕃討伐に向かわせたが、大敗した。新羅はその間旧百済地域の掌握に注力し、翌671年秋までにこの地域から唐軍を追い払った。 

■唐軍撤退

新羅と唐はその後も一進一退の攻防を繰り広げたが、675年9月の買肖城(メソソン/京畿道北部)の戦闘と翌676年の錦江河口の伎伐浦(キボルポ/)の海戦で新羅軍が唐軍を撃破した。羅唐戦争はそれが決定打となって新羅に勝利をもたらしたというのが韓国での一般的な評価のようで、高校の教科書はそのように書いている。 

676年、唐は高句麗支配の拠点であった安東都護府を平壌から遼東故城(遼陽)へ、また旧百済遺民を支配する熊津都督府を熊津から建安故城(営口)に移した。翌677年、安東都護府をさらに新城(撫順)に再移転させ、唐の内地に移住させた高句麗・百済の遺民をそれぞれ統括させた。 

唐軍は朝鮮半島から撤退したものの、再征討を狙っていた。しかし676年、チベット高原の吐蕃が再び攻勢を強め、西域方面では西突厥と連合して唐の支配拠点を奪いとった。結局678年、唐は新羅再征討計画を中止した。 

緊張緩和に伴い、新羅は国家体制の整備にかかった。681年に文武王が没し、子の神文王が即位すると、百済の故地に「高句麗王」に封じていた安勝を都の金城(慶州)に定住させ、684年、新羅はその「高句麗国」を吸収して名実ともに三国統一を達成した。 

■「南北国時代」

しかし、この統一は朝鮮半島全域に及ぶものではなかった。新羅が領有できたのは、平壌付近を流れる大同江と東海(日本海)に面する元山湾を結ぶ線から南に限られた。それ以北の高句麗の故地には698年、「高句麗の後継国」を名乗る渤海国が新たに建国された(当初は「震国」を名乗った)。 

統一新羅と渤海(8世紀) KOREA.net
ここらあたりの歴史の評価は一様でなく、南北朝鮮の間でも分かれている。韓国では、たとえば、高校教科書『韓国史』(検定)は次のように書いている(拙訳)。 

新羅の三国統一は外国勢力の支援を受けたという点と、大同江以南の領土を確保することで終わったという点で限界がある。しかし粘り強い抗争の末に唐軍を追い出した事実は自主的性格を見せている。また、わが国歴史上初めての統一であり、三国の文化を融合して民族文化の枠組みを整える契機となった。(고등학교한국사미래엔 

これに対し北朝鮮は、新羅の統一に否定的で、10世紀にできる高麗国を最初の統一国家としている。北朝鮮に近い立場とみられる朝鮮大学校歴史学研究室編『朝鮮史 古代から近代まで』(朝鮮青年社)は次のように書いている。 

  新羅は大同江以南の地を統合することに成功した。しかし、三国全域を統一しようとする新羅の最初の目的は達成されず、北方の高句麗領土の一部は唐の手に渡った。……九三六年、高麗の大軍は慶尚北道善山で後百済軍をうちやぶり、ついに後三国は高麗によって統合されるに至った。こうして高麗は、朝鮮最初の統一国家となったのである。 

韓国には新羅と渤海が並立した時代を「南北国時代」とする学者もいる。三国時代に続く「二国時代」、あるいは「南北朝時代」ということなのだろう。 

■朝貢・冊封関係

新羅は、唐との戦争期間中も朝貢・冊封関係にもとづく外交的関係を断ち切らず、唐の年号を使い続けた。羅唐戦争後もあつれきは残り、唐が大同江以南の新羅領有を正式に認めたのは735年のことだった。両国関係が安定していったのはそれ以降である。 

盧泰敦(橋本繁訳)『古代朝鮮 三国統一戦争史』(岩波書店)は次のように書いている。 

新羅と唐が力の対決を通じて、言い換えれば、中国天子の徳を万民に及ぼすといういわゆる徳化論を掲げて、三国を併呑して唐の郡県や羈縻州に編入しようという策動を、最終的に新羅が斥けたことによって、力の限界を感じた唐と、唐の現実的な優位性を認めた新羅が、共存の道を求めて妥協がなされた。ここに新羅と唐の安定した朝貢・冊封関係が定立した。 

このような国際情勢のなかで倭国はどのように身を処していったのだろうか。(つづく)

                          波佐場 清 

2024年2月20日火曜日

百済の微笑/百済歴史散策⑮

私たちの小さな旅も終わりに近づいた。最終日の4日目、私たちは忠清南道瑞山(ソサン)市を訪ねた。宿泊地の公州から高速道路を北西方向に走って1時間40分。そこの山中で見た別名「百済の微笑」といわれる摩崖仏が印象に残った。

摩崖如来三尊像

加耶山(標高678メートル)という山の中腹にあった。あいにくの雨模様だった。渓流にかかる橋を渡り、ぬれ落ち葉の石段を用心しながら一段一段登っていくと、切り立った崖面で3体の仏像が穏やかな微笑みで迎えてくれた。

■磨崖如来三尊像

国宝の「磨崖如来三尊像」だった。現地のパンフレットによると、中央は如来立像(高さ28メートル)、向かって左に菩薩立像(17メートル)、右は半跏思惟像(166メートル)で、それぞれ法華経の釈迦と弥勒、提華褐羅菩薩を表現しているという。 

よく見ると、表情はそれぞれにあじわい深い。中央の如来立像は大きな目がなごやかで、やや獅子鼻、厚ぼったい唇はおおらかさと慈悲深さを感じさせる。左の菩薩立像は目と口元の笑み、そして宝珠を包み込む手がいかにも優しい。右脚を左脚の上に載せる半跏思惟像は右手の指をそっとほおに当てており、心清い童女を思わせる。 

この仏像が世に知れたのはそう古いことではない。1959年、付近の寺院址などを調べていた扶余の博物館長がムラの木こりから偶然聞いた話が「大発見」につながった。 

瑞山の地は扶余に都した百済後期(538660)、中国に通じる交通の要所にあたった。この摩崖仏は中国との文化交流が盛んだったそのころにつくられたとみられている。 

■「高句麗が統一していたら…」

私たちはすべの旅行日程を予定通りに無事終えた。日本に帰ったあと、百済の本拠地といえる忠清道地域出身のソウルの友人にメールで報告し、この「百済の微笑」についての「感銘」を伝えると、意外な返事が戻ってきた。 

「百済の微笑……ふっふっふ(ㅎㅎㅎ)、微笑だけ浮かべていて、それで滅んでしまった。やはり強い軍事力を持たないことには……。百済の文化を見て察せられたと思うけど、平野が多く豊かな穀倉地帯だった分、どこか、もの静かでおとなしく、気質の面で高句麗や新羅に押されてしまった。いまも忠清道の人はすこしのんびりしていると言われたりするんです」 

「あの時代、私は高句麗が統一してくれていたらよかったのに、と思っています。そうすれば、中国との国境が白頭山よりずっと北のほうまで広がっていた。韓国人なら、ほとんどみんな、そう考えていると思いますよ」 

「高句麗が統一してくれていたら…」という話は、これまで韓国人から何度か聞いたことがある。 

■百済の仏教

百済は朝鮮3国のなかでも古くから日本と関係が深かった。4世紀、高句麗の隷属下にあった百済は倭国の軍事援助で独立をはかろうとした。奈良県天理市の石上神宮に伝わる七支刀も「軍事同盟」の証しとして百済から倭国に贈られたとみられるということについはすでに触れた。 

百済と倭国の軍事同盟関係はその後も維持され、百済は主に中国の南朝から得た当時最高の文化や技術を軍事援助の見返りとして倭国に伝えた。538年の百済の聖王から欽明天皇への「仏教公伝」もそんななかでなされたのだった。 

そんな仏教は中国から朝鮮に伝わった。372年、五胡十六国時代の前秦から高句麗に伝えられ、百済へは384年、江南の東晋から伝わったとされる。新羅には535年、高句麗からもたらされた。日本公伝はそのすぐ後、ということになる。 

この時代、仏教は東アジア普遍のイデオロギーだった。鎮護国家思想とした国王らも多かった。そんななかで百済には極端すぎる王も出た。第29代法王(在位599600)は一切の殺生を禁じ、民家で飼っている鷹を放させ、魚釣りや狩りの道具までも燃やさせたという。 

「百済の微笑」は、法王のそのような原理主義的な信仰心にもつうじる「優しさ」だったのだろうか。百済と対立した新羅はその間、国力の増強につとめ、それが両国の力の逆転につながったともいわれているようだ。

 ■日韓関係の「答え」を求めて…

私はこの旅を始めるにあたり、歴史問題でぎくしゃくする今の日韓関係に関して、日本と韓国はなぜこうなのか、という問題を提起した。東京大学の小島毅教授の著書を引き合いに、どうやら7世紀後半の国際情勢のなかで編纂された記紀(『古事記』と『日本書紀』)に由来する「歴史捏造」とも関係しているのではないか、という仮説を立ててみた。 

『日本書紀』は681年に天武天皇が発した詔(みことのり)によって編纂事業が始まったと考えられており、完成したのは720年だった。『古事記』も似たような編纂過程をたどり、712年に完成している。

私たちの「百済歴史散策」の旅は終わったが、この間にたどった歴史は、記紀編纂の時代にまでまだ到達できていない。私が最初に投げかけた問いに対する「答え」はまだ探し出せていない。 

その答えを求めて、もうすこし、歴史の旅をつづけてみたいと思う。(つづく)

 立命館大学コリア研究センター上席研究員  波佐場 清 

参考資料(百済歴史散策⑬~⑮)

盧泰敦(橋本繁訳)『古代朝鮮 三国統一戦争史』(岩波書店)

吉田孝『大系日本の歴史③ 古代国家の歩み』(小学館ライブラリー)

吉川真司『飛鳥の都 シリーズ日本古代史③』(岩波新書)

遠山美都男『白村江 古代東アジア大戦の謎』(講談社現代新書)

교육부 검정고등학교 한국사(미래엔)

https://www.youtube.com/watch?v=kwURGkNehOM

姜在彦『新版朝鮮の歴史と文化』(明石書店)

崔夢竜編著(河廷竜訳)『百済をもう一度考える』(図書出版周留城)


 

2024年2月16日金曜日

白村江の戦い/百済歴史散策⑭

百済復興軍の救援を決断した倭国は660年暮れ、斉明女帝が難波宮に赴き、出兵の準備にかかった。翌661年正月、斉明は68歳の老齢を押して難波を発ち、北九州に向かった。一行は途中、兵士を徴発しながら西へと進み、伊予熟田津(にぎたづ)の石湯(道後温泉)の行宮に泊まった。 

熟田津に 船乗りせむと 月待てば 潮もかなひぬ 今は漕ぎいでな 

教科書にも載る『万葉集』のこの一首は、このとき額田王(または斉明女帝)がつくった、とされる。 

■余豊璋、百済へ帰還

一行は同年3月下旬、娜大津(博多)に着き、磐瀬行宮を本営とした。5月、朝倉宮に遷宮。7月、斉明はここで没した。母の女帝亡きあと、中大兄は皇太子のまま博多湾に面した長津宮(以前の磐瀬行宮)で国政を執った(称制)。 

ついでに言っておくと、斉明が亡くなるひと月前の6616月、新羅でも武烈王(金春秋)が死去し、生前から後継者に決められていた息子の金法敏が即位していた。これが文武王(在位661681)である。倭と新羅はこのあと、共に新しい体制で相打つことになったのである。 

8月、第1次百済進攻軍が編制され、阿曇比羅夫(あずみのひらふ)や阿倍比羅夫(あべのひらふ)らが将軍に任命された。ついで9月、余豊璋に5千余の護衛兵を与えて百済へ帰還させた。豊璋はこの年のうちに周留城で鬼室福信と合流できたようだ。 

662年正月、倭の朝廷は福信に矢や糸、なめし皮など、武器やその材料を送った。『日本書紀』によれば、同年5月、豊璋は百済王位を継承した。第1次進攻軍の将軍阿曇比羅夫が勅命を伝え、倭国の天皇が豊璋を王に立てる形式をとったという。 

7月、唐の百済駐屯軍が百済復興軍を熊津(公州)付近で撃破し、新羅からの兵糧運送ルートを確保。さらに唐本国に兵の増援を要請し、山東半島から7千の水軍が送られることになった。 

■白村江へ結集

6633月、倭国は2万7千の大軍を第2次進攻軍として出し、新羅を攻撃した。そんななかで6月、百済復興軍に内紛が起き、豊璋が福信を「謀反の疑いがある」として殺害、復興軍は崩壊の道へと進んでいく。 

一方、山東半島から増派されてきた唐の水軍は熊津城の唐駐屯軍と合流、新羅軍と協議の結果、陸軍は新羅軍と唐軍が周留城に進撃し、唐の水軍は熊津から錦江をくだり、河口の白村江で陸軍と合流して周留城の百済復興軍を攻めるということになった。 

そのころ、朝鮮半島南部で新羅軍と戦っていた倭国軍も、急の報せをうけて錦江の河口、白村江へと向かった。 

■倭軍敗北、海水皆赤し

817日、唐・新羅陸軍は百済王豊璋のいる周留城を囲んだ。唐の水軍は倭の周留城救援を妨げるため、白村江に軍船170隻をならべて待ち受けた。そんなところへ8月27日、倭の水軍が到達し、2日間にわたる白村江の戦いの幕が切って落とされた。 

錦江(白村江)河口付近  群山市HP
初日、倭国水軍は唐水軍の実力を探るために攻撃を仕掛けてみた。一種、様子見の戦いだったが、唐水軍の布陣は堅固で、倭水軍は、すぐに退却した。唐軍も陣を守って追撃しなかった。 

28日、倭の水軍は唐の水軍に向かって突進した。唐軍は左右から倭の兵船を囲んで挟み撃ちにすると、倭軍は後退することすらできず、大敗した。中国の史書は次のように書いている。 

  四たび戦って捷(か)ち、その船四百隻を焚(や)く。煙と燄(ほのお)、天に漲(みなぎ)り、海水皆(みな)赤し。 

群山市を流れる錦江  群山市HP
■倭、朝鮮半島から完全撤退

97日、周留城陥落。余豊璋は白村江の戦いの直前に城を脱し、倭軍と合流していた。倭軍の敗北を見届けた後、数人の従者らと船で逃走したといわれ、以後消息を絶った。高句麗に逃げたともいわれている。 

周留城の陥落によって唐の百済平定はほぼ完了した。倭の軍兵や百済遺民らの多くは捕虜にされた。逃れた者たちは9月24日、百済南部の弖礼城に集まり、そこから倭国に向かった。以後、大量の百済遺民が玄界灘を越えて倭国に来ることになる。 

この戦闘の敗北によって倭は朝鮮半島から完全に退けられた。この点、古代日朝関係史にもつ意味合いは大きい。日本が律令体制という中央集権国家づくりを進めていく、日本史にとって大きな画期をなしたともいえる。 

■「白村江の戦いって?」

しかし、これを当時の東アジア情勢を決定づけた会戦とするのはあまりの誇張だと、この間しばしば引用してきた盧泰敦氏の著書は指摘する。戦闘の主力は唐軍と倭軍であり、中国勢力と日本勢力が朝鮮半島で雌雄を決した戦争であったかのようにとらえるのは戦争の実像と符合しない、と次のように指摘する。 

  この戦闘は、唐には特に大きな意味を持つ戦闘ではなく、新羅にとっても主たる戦場ではなかった。…白村江の戦いに関する過度の強調は、その年に繰り広げられた百済復興戦争の主戦場が周留城攻防戦であったことと、新羅軍の存在を軽視することになり、新羅を受動的な存在とみる歴史認識を生み出す側面がある。

           盧泰敦(橋本繁訳)『古代朝鮮 三国統一戦争史』(岩波書店) 

韓国の友人たちに白村江の戦いについて聞いてみても「それって、なに?」という感じで首をひねる人が多い。韓国でいま使われている高校の『韓国史』の教科書をみてもこの戦争にはとくに触れていないようだ。(つづく)  波佐場 清   


2024年2月12日月曜日

百済復興軍の決起/百済歴史散策⑬

錦江を離れた私たちは定林寺址に案内された。かつての百済の泗沘都城址にひらけた今の扶余のまちのほぼ中央にあった。寺址といっても残っているのは石造の五重塔だけで、これが残ったこと自体、アイロニーであり、一つの奇跡といえた。 

定林寺址の石塔

6607月、百済の都城を攻め落とした唐・新羅の連合軍は破壊と略奪の限りを尽くした。官寺だったこの寺もそのときに徹底的に破壊され、焼き尽くされたとみられているが、唯一この塔が残ったのには理由があった。 

■石塔に唐の「勝利宣言」

唐の軍司令官・蘇定方がこの石塔に、自らの功績を後世に伝える文字を刻みつけたのである。

「大唐平百済…」と刻まれた塔身

高さ833メートル。近づいて初層の塔身に目を凝らすと文字が刻んであるのが分かる。風化で判読しにくいが、「大唐平百済国碑銘」と書かれているのだそうで、そう言われると、確かにそう読める。 

唐が百済を平定したことを誇ろうというもので、百済はなぜ滅ぼされなければならなかったのか、といった内容も小さな文字で書き込まれているという。唐軍はこの記録を残すために石塔を壊さず、逆にだいじに保存したというわけである。 

韓国の人たちにとっては「屈辱の塔」といっていいだろう。後日、ソウルの友人にこの話を持ちかけると、「私たちもあそこへ行くと、石塔のことより唐の蘇定方の悪口ばかりを言い合っている」という。今日まで残ったのは「歴史の教訓」としてだったのか、あるいは韓国の人たちの中華の帝国に対する気がねからだったのか……。 

■百済金銅大香炉

扶余では最後に国立扶余博物館を訪れた。圧巻は何といっても百済文化の結晶、「百済金銅大香炉」だった。同様の香炉はたしか、ソウルの国立中央博物館でも展示されていたはずだと思い、館側に尋ねると、ソウルの方はレプリカで、こちらが本ものなのだという。 

百済金銅大香炉
博物館のパンフレットによると、高さ618センチ、重さ1185キロ。龍が頭をもたげたかたちの台座と、蓮華の花びら様に装飾された炉心、そして峰々が重なったかたちの蓋の部分から構成され、蓋の上には大きく翼を広げた鳳凰が表現されている。 

7世紀前半ごろに作られたと考えられ、仏教はもちろん、道教の神仙思想の影響もみられるという。照明を落とした展示室で、下からのライトを浴びて黄金色に輝く逸品は、どこか神秘的な雰囲気を漂わせている。写真撮影は自由だった。 

■国際情勢に疎く…

この香炉は、さきに見たように199312月、扶余羅城近くの陵山里寺址で見つかった。発見現場の状況から、慌てて土中に埋められた様子がうかがえるといい、唐・新羅軍によって都城が踏みにじられた際、略奪を免れるために、とっさの方便で隠されたのではないかと推測されるという。 

義慈王末期の百済は国際情勢の変化にうとく、相手国の情報にも鈍感だった。唐が海を越えて大挙攻撃してくる可能性について十分考えず、侵攻があったとしても、まず矢面に立つのは高句麗で、対応策はそれからでも間に合うと考えていたようだ。 

実際のところ、百済は唐の高宗から攻撃の可能性を警告されていた。新羅が唐と同盟を進めていることも知っていた。それなのに百済の支配層は安逸をむさぼり、備えを怠った。攻撃を受けると右往左往するばかりで、そのまま滅亡の淵に沈みこんでいったのである。 

■百済復興へ倭の決断

とはいえ、百済の勢力はこれによって完全に消滅したというわけではなかった。唐・新羅軍が制圧したのは点と線だけで、唐が駐留軍を置いて主力を本丸の高句麗に振り向けると、百済の遺民らが立ち上がった。中心になったのは義慈王のいとこともいわれる鬼室福信だった。 

百済復興軍は任存城(忠清南道礼山)を拠点に勢力を広げ、唐が援軍を送って巻き返そうとすると、福信らは錦江河口に近い周留城に入って守りを固めた。一方で、復興軍は66010月、倭に使者を送って援軍の派遣と、倭に「人質」として送られていた百済の王子余豊璋の送還を要請。福信らは豊璋を王に立てて百済を復興しようとしたのである。 

百済は昔から倭と深いかかわりがあった。何よりも百済がこのまま滅べば、唐の脅威は直接、倭に及ぶ。逆に、もし百済が倭の力で復興するなら、朝鮮半島南部を倭の勢力下におくことができる――。 

倭は百済復興軍を救援する決断を下した。(つづく)    波佐場 清