日本の律令国家は、隋唐帝国の脅威に対処するための権力集中と軍事体制強化によって実現していった。その仕組みは大化改新以後半世紀、近江令、飛鳥浄御原令をへて701年の大宝律令の完成によってほぼ整った。「日本」が国号として正式に用いられるようになったのもこのころだ。
■唐の律令法と日本
律令国家づくりで日本が手本にしたのは唐の国制だった。そんな唐の律令法とはどういうものであり、日本はどう見習ったのか――。坂上康俊『平城京の時代 シリーズ日本古代史④』(岩波新書)は次のように書いている。
隋唐の律令法は、天から統治を委託された皇帝(天子)が、徳治主義をもって天下を統治するための法、すなわち帝国法でもあった。…
皇帝が支配する空間には同心円的に価値が付与され、郡県に分けられて官僚が派遣される支配地を「中国」と呼び、その周辺に羈縻(きび)政策といって、官僚を派遣せずに現地の有力者の支配を温存する地域を置くことがあり、さらに外蕃(げばん)と呼ばれる、皇帝に朝貢してくる諸国があり、さらにその外側には、国家の態を成さない人々がいることにしていた(華夷秩序)。
日本の律令は、いま述べた点まで含めて唐のそれとそっくりに作られている。天皇は皇帝・天子とも呼ばれ(儀制令)、元号を制定し(公式令)、詔勅を出す様式や手続きが盛り込まれている(公式令)。
日本と新羅はともに唐に朝貢していた。しかし、日本が唐の冊封を受けずに独自の年号や律令法をつくったのに対し、唐の脅威により直接的にさらされた新羅は激しいあつれきの末に冊封国として唐との関係を築いていったことは先に見た通りである。
■「蕃国」新羅
日本の律令にあって外国は「隣国」の唐と、「外蕃(蕃国、諸蕃とも)」の新羅(のちに7世紀末にできた渤海も)に区分され、ほかに隼人、蝦夷など列島内の異民族を「夷狄(いてき)」と位置づけた。そこでは、天皇は蕃国や夷狄を従える存在であらねばならなかった。
新羅は、唐と対立していたことから日本には比較的低姿勢で臨んだ。日本が大宝律令を制定した後も、たとえば706年正月に藤原宮でおこなわれた元旦の朝賀に使臣を参列させたりしている。日本はそんな新羅を名目上、朝貢国とし、日本からも遣新羅使を送っていた。
奈良・明日香村の甘樫丘から藤原京跡付近を望む。正面は耳成山 |
■新羅征討計画
変化は、唐と新羅の接近によってもたらされた。732年、渤海が唐山東半島の登州を攻撃、唐の要請を受けた新羅は唐側について参戦した。これをきっかけに735年、新羅は唐から大同江以南の朝鮮半島領有を正式に認められ、両国は安定した関係を築いていった。
これに伴い、新羅は日本に強い態度で臨むようになった。これより先、渤海は日本に使節を送ってきており、対新羅で利害を共にする日本と渤海の関係はおのずと深まった。とはいえ、日本にとって渤海はあくまで「蕃国」であり、朝貢国あらねばならなかった。
758年に渤海から帰国した小野田守が、唐で「安史の乱」(755~763)が起こり、玄宗皇帝が都から逃げたと報告すると、翌年、朝廷は新羅征討計画を立てた。内乱の唐に新羅を援ける余裕がないとみたようで、当時実権を握っていた恵美押勝(藤原仲麻呂)によって準備が進められた。
律令国家は諸蕃と夷狄を支配する帝国でなくてはならなかった。新羅が名目的な朝貢関係から離反するのを容認することは、押勝にはできなかった。
(吉田孝『日本の歴史【2】 飛鳥・奈良時代』岩波ジュニア新書)
新羅征討は押勝の失権で実行に移されなかったが、日本と新羅の関係はこのように険悪なものになっていたのである。
■「白村江の呪い」
以上が7世紀後半から8世紀半ばごろにかけての日本と新羅の関係の概略である。記紀はこんな時代状況のなかで編纂されていったのだった。明治維新時の「征韓論」と結びついたとみられる神功皇后による「三韓征伐」は、そんな史書の中で語られていたのである。
『日本書紀』の記述について盧泰敦(橋本繁訳)『古代朝鮮 三国統一戦争史』(岩波書店)は次のような指摘をしている。
白村江の戦い以降、数多くの百済人が倭に亡命した。…亡命した百済人のうち相当数は、彼らの才能を活用しようという倭の朝廷に登用された。…日本の皇室に寄生して明日の暮らしを立てていくほかないのが、彼らのもつ宿命であった。
彼らは、百済復興と故国復帰を望んだが、自力で具体化する力量はなかった。彼らがこれを熱望すればするほど、実現の可能性は、日本勢力の朝鮮半島への介入に見出すほかなかったのである。…このために朝鮮半島が早い時期から日本の天皇家に従属したという歴史像の構築に積極的に乗り出した。…
いわゆる百済三書[筆者注:日本書紀の基本史料の一つ]は彼らの叙述であるか、彼らの手を経て修正されたものと考えられ、そうした著述は『日本書紀』の内容構成に大きく作用した。…
『日本書紀』は、その後の日本人の対外意識、特に対朝鮮認識に大きな影響を及ぼした。白村江の戦いで流された百済人と倭人の血の呪いは、千数百年過ぎた今日まで作用して、韓日両国人の間の葛藤を焚きつけている。いまやその呪いから逃れねばならない。
■「朝貢」vs「交隣」
『日本書紀』の記述は日本人の対朝鮮観に大きな影響を及ぼし、その「呪い」はいまもとけていないというのである。同書は次のようにも書いている。
唐との安定的な朝貢・冊封関係を結ぶようになった新羅としては、今や現実的に安全のために日本の動向にこれ以上神経を使う必要がなくなった。日本は隣国として同じ唐の朝貢国であるので、当然、両国は対等な隣国として関係を結ばなければならないと考えた。
この点に日本が反発したので、両国の関係は次第に悪化した。新羅の対外政策は、唐とは事大関係、日本とは交隣関係と設定された。こうした対外政策の基調は、その後、高麗・朝鮮を経て、朝鮮半島諸王朝の対外政策の基本的枠組みとなった。
一方、日本は、引き続き新羅を朝貢国とみなそうとしたため、両者の間に摩擦と不信が積み重なっていった。新羅としては、日本との関係は交隣関係であるほかなく、現実的に日本もそれを受容するほかないと考えたが、日本朝廷が拒否する姿勢を堅持したことによって、両国の関係は事実上断絶へと向かった。…
両国支配層が想定する相手国の性格は、それぞれ隣国・蕃国であった。これは統一戦争の終盤である新・唐戦争[筆者注:「羅唐戦争」]を歴史的背景として形成されたもので、その後も両国関係に影響を与え、ある面では、今日でも両国人の意識に作用していると思われる。
日韓はどうしてこうなのか――。そんな私の問いかけに対する一つの答えがここには提示されている。これをどう受け止めるか。歴史を直視することが未来の関係づくりへの確実な一歩であることはいうまでもない。(おわり)
立命館大学コリア研究センター上席研究員 波佐場 清
参考資料(百済歴史散策⑯~⑱)
姜在彦『歴史物語 朝鮮半島』(朝日選書)
姜在彦『新版 朝鮮の歴史と文化』(明石書店)
朝鮮大学校歴史学研究室編『朝鮮史 古代から近代まで』(朝鮮青年社)
盧泰敦(橋本繁訳)『古代朝鮮 三国統一戦争史』(岩波書店)
吉川真司『飛鳥の都 シリーズ日本古代史③』(岩波新書)
韓国民族文化大百科事典 경주 문무대왕릉(慶州 文武大王陵) - 한국민족문화대백과사전 (aks.ac.kr)/신문왕(神文王) - 한국민족문화대백과사전 (aks.ac.kr)
坂上康俊『平城京の時代 シリーズ日本古代史④』(岩波新書)
大津透『律令国家と隋唐文明』(岩波新書)
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