錦江を離れた私たちは定林寺址に案内された。かつての百済の泗沘都城址にひらけた今の扶余のまちのほぼ中央にあった。寺址といっても残っているのは石造の五重塔だけで、これが残ったこと自体、アイロニーであり、一つの奇跡といえた。
定林寺址の石塔 |
660年7月、百済の都城を攻め落とした唐・新羅の連合軍は破壊と略奪の限りを尽くした。官寺だったこの寺もそのときに徹底的に破壊され、焼き尽くされたとみられているが、唯一この塔が残ったのには理由があった。
■石塔に唐の「勝利宣言」
唐の軍司令官・蘇定方がこの石塔に、自らの功績を後世に伝える文字を刻みつけたのである。
「大唐平百済…」と刻まれた塔身 |
高さ8・33メートル。近づいて初層の塔身に目を凝らすと文字が刻んであるのが分かる。風化で判読しにくいが、「大唐平百済国碑銘」と書かれているのだそうで、そう言われると、確かにそう読める。
唐が百済を平定したことを誇ろうというもので、百済はなぜ滅ぼされなければならなかったのか、といった内容も小さな文字で書き込まれているという。唐軍はこの記録を残すために石塔を壊さず、逆にだいじに保存したというわけである。
韓国の人たちにとっては「屈辱の塔」といっていいだろう。後日、ソウルの友人にこの話を持ちかけると、「私たちもあそこへ行くと、石塔のことより唐の蘇定方の悪口ばかりを言い合っている」という。今日まで残ったのは「歴史の教訓」としてだったのか、あるいは韓国の人たちの中華の帝国に対する気がねからだったのか……。
■百済金銅大香炉
扶余では最後に国立扶余博物館を訪れた。圧巻は何といっても百済文化の結晶、「百済金銅大香炉」だった。同様の香炉はたしか、ソウルの国立中央博物館でも展示されていたはずだと思い、館側に尋ねると、ソウルの方はレプリカで、こちらが本ものなのだという。
百済金銅大香炉 |
7世紀前半ごろに作られたと考えられ、仏教はもちろん、道教の神仙思想の影響もみられるという。照明を落とした展示室で、下からのライトを浴びて黄金色に輝く逸品は、どこか神秘的な雰囲気を漂わせている。写真撮影は自由だった。
■国際情勢に疎く…
この香炉は、さきに見たように1993年12月、扶余羅城近くの陵山里寺址で見つかった。発見現場の状況から、慌てて土中に埋められた様子がうかがえるといい、唐・新羅軍によって都城が踏みにじられた際、略奪を免れるために、とっさの方便で隠されたのではないかと推測されるという。
義慈王末期の百済は国際情勢の変化にうとく、相手国の情報にも鈍感だった。唐が海を越えて大挙攻撃してくる可能性について十分考えず、侵攻があったとしても、まず矢面に立つのは高句麗で、対応策はそれからでも間に合うと考えていたようだ。
実際のところ、百済は唐の高宗から攻撃の可能性を警告されていた。新羅が唐と同盟を進めていることも知っていた。それなのに百済の支配層は安逸をむさぼり、備えを怠った。攻撃を受けると右往左往するばかりで、そのまま滅亡の淵に沈みこんでいったのである。
■百済復興へ倭の決断
とはいえ、百済の勢力はこれによって完全に消滅したというわけではなかった。唐・新羅軍が制圧したのは点と線だけで、唐が駐留軍を置いて主力を本丸の高句麗に振り向けると、百済の遺民らが立ち上がった。中心になったのは義慈王のいとこともいわれる鬼室福信だった。
百済復興軍は任存城(忠清南道礼山)を拠点に勢力を広げ、唐が援軍を送って巻き返そうとすると、福信らは錦江河口に近い周留城に入って守りを固めた。一方で、復興軍は660年10月、倭に使者を送って援軍の派遣と、倭に「人質」として送られていた百済の王子余豊璋の送還を要請。福信らは豊璋を王に立てて百済を復興しようとしたのである。
百済は昔から倭と深いかかわりがあった。何よりも百済がこのまま滅べば、唐の脅威は直接、倭に及ぶ。逆に、もし百済が倭の力で復興するなら、朝鮮半島南部を倭の勢力下におくことができる――。
倭は百済復興軍を救援する決断を下した。(つづく) 波佐場 清
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