2024年2月4日日曜日

倭国に及んだ東アジア情勢/百済歴史散策⑪

「落花岩」の少しばかり上流の扶蘇山麓に船着き場があり、私たちはそこでいったん下船した。すぐ近くに、落花岩の宮女たちを慰霊するために建てられたともいわれる皐蘭寺(コランサ)というお寺があり、大きな読経の声がスピーカーから聞こえていた。その横道から扶蘇山を登った。 

中腹まで行くと視界がひらけた。ゆったりと流れる錦江が一望できた。ここから河口の白村江までざっと50キロで、わずかながら海水も届いているという。百済・新羅・高句麗の3国に唐、そして倭国も入り乱れた7世紀後半の北東アジアの大戦争は、この河と周辺地域を一つの主舞台に展開されたのだった。 

河の向こう岸の山麓にならされた広い敷地が見えている。望遠レンズで引くと、道路が通り、植林がなされているのがわかる。ここが王興寺址という。日本の飛鳥寺のモデルになったとみられる寺の址である。 

王興寺址  手前は錦江

日本はこの時代、どのような状況だったのか。錦江一帯で繰り広げられた大戦争について見る前に、当時の倭国のことを概観しておきたい。 

■倭国初の本格寺院

飛鳥真神原(まかみはら)の地において、倭国初の本格的な寺院が建設され始めたのは、崇峻元(五八八)年のことであった。飛鳥には五世紀から渡来人が集住していたが、その一人飛鳥衣縫造祖樹葉(あすかのきぬぬいのみやつこのおやこのは)の家を撤去して、伽藍が造営されることになった。 

先にも引用した京都大教授吉川真司さんの『飛鳥の都 シリーズ日本古代史③』(岩波新書)は飛鳥寺建立のことからこの書を書き起こしている。以下、同書をなぞると概略、つぎのようである。 

■上から下まで百済様式

飛鳥寺創建に着手したのは蘇我馬子だった。百済王が仏舎利を倭国にもたらし、何人もの僧と専門技術者を派遣して造営を援けた。590年用材切り出し開始。592年に仏堂と回廊ができ、596年堂塔完工。鞍作鳥が受けもった造仏には高句麗王が資金支援をしたという。 

こんな経過をへて609年本尊の仏像が完成した。20年の歳月をかけて飛鳥寺は建立されたのである。この間、崇峻天皇は馬子に暗殺され、推古天皇が即位していた。 

1957年の飛鳥寺発掘で見つかった舎利容器には大量の玉類や金銅製装身具が添えられ、武具や馬具も置かれていた。これらは古墳時代後期の副葬品と共通し、古墳から寺院へ、伝統的な祖先祭祀が受け継がれた証拠と考えられてきた。 

ところが21世紀に入り、2007年の王興寺発掘で丁酉年(577)の銘文を刻んだ舎利容器とともに膨大な金銀製装身具や玉類などが出土し、これらは舎利を荘厳する(飾る)品々と理解されている。とすれば、飛鳥寺の出土品も舎利荘厳具と考えるのがよく、百済に学んだとみるのが妥当だろう。 

王興寺址出土の舎利容器 扶余博物館HP

塔の頂部にすえられる相輪をつくったのも百済の技術者たちであり、真神原にそびえ立った五重塔は、まさに上から下まで百済様式を受け継いだと言わなければならない――と、そんなふうに吉川さんは書いている。 

甘樫丘から見た飛鳥寺
韓国ツアーから帰って間もない秋の一日、私は奈良・明日香村に足を運び、甘樫丘の展望台から東南方、飛鳥寺を眺めてみた。木々に隠れて見えないが、丘のすぐ下には飛鳥川が流れているはずである。大河錦江とは比べようもないが、川を挟んで向こうに見える寺の風景はどこか王興寺と重なって見えてくる。

 

■百済・高句麗・倭の共同作戦

飛鳥寺創建には百済と高句麗の援助が欠かせなかった。しかし百済王も高句麗王も、純然たる善意や仏教流布の熱意だけでこうしたことを行ったのではない。背景には、6世紀後葉から急速に動き出した東アジアの国際情勢があった。 

隋唐帝国の出現に伴う動きである。6世紀最後の年である600年は、倭が積極的な外交政策を始めた年だった。新羅に軍隊を送って交戦し、隋にも最初の遣隋使を派遣した。ともに、新情勢と深く関わる施策だった。 

新羅との戦闘は旧加耶領をめぐる抗争だった。百済・高句麗との連携があったとみられる。飛鳥寺の造営援助に続き、百済と高句麗はそれぞれ僧の慧聰、慧慈を派遣し、倭と通じた。とくに高句麗僧の慧慈は聖徳太子の師となった人物だった。 

百済・高句麗・倭のこのような3国共同作戦の成立は7世紀の朝鮮半島情勢の起点といえた。百済・高句麗が滅亡し、倭が完全に放逐されて新羅が半島を統一するまでの歴史過程はここに始まったのだった。 

■「乙巳の変」と「大化改新」

推古天皇亡き後629年に即位した舒明天皇は630年、初の遣唐使を派遣した。朝鮮3国はすでに唐に朝貢し冊封を受けていた。唐はなかでも新羅を重視していた。舒明朝では、そんな新羅も仲立ちに、隋の時代から中国で学んでいた学問僧や留学生が相次いで帰国した。 

僧旻や南淵請安、高向玄理らである。彼らが飛鳥の都に現れると、次代を担う若者たちが新しい政治思想など新知識をどん欲に求めた。そんななかに中大兄皇子や中臣鎌足、蘇我入鹿らもいたのだった。 

642年、舒明の皇后だった皇極天皇が即位した。朝鮮半島での戦争や政変など、東アジア激動の時期と重なった。有力王族が分立していた倭国としても権力集中の一枚岩の国づくりが求められていた。中大兄皇子、中臣鎌足らが決起して蘇我本宗家を滅ぼした6456月のクーデター「乙巳の変」と、それに続く「大化改新」はそんななかで展開していったのである。 

■律令体制への起点

「乙巳の変」を経て孝徳天皇が即位、中大兄が皇太子となり難波宮に遷都して改革に取り組んだ。柱に据えたのは公民制と官僚制だった。

難波宮跡

 

646年、中大兄はクーデターの結果として自らのもとに集中した部民と屯倉を率先返上し、部民の公民化を推進した。官僚制についても649年に十九階冠位制を施行、畿内豪族を官人として体制に組み込み、中央集権化を進めた。これが律令制への起点となっていく。

 そんな改革政権だったが、653年に分裂した。中大兄は孝徳天皇を難波宮に残し、母親の前天皇皇極や妹の皇后間人皇女らとともに飛鳥に移った。百済と新羅・唐のどちら側を重視するかという外交路線の違いが背景としてあったとの見方もある。 

■倭、対外戦争突入へ

654年冬、孝徳天皇は病死し、翌655年正月、前天皇の皇極が重祚して斉明天皇となった。政治の実権は中大兄が握っていた。 

斉明朝は積極的な東北支配に乗り出した。658年から660年まで3次にわたる北征で北海道南部にまで支配を広げたとみられる。その目的に関し、高句麗への北方航路の開拓をめざしたのではないか、という説も提起されている。 

斉明朝の北征は660年で終わった。朝鮮情勢が急変したためだった。同年7月、百済滅亡。倭は総力をあげて対外戦争に突入していった。(つづく)     波佐場 清                      



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