2023年7月27日木曜日

朝鮮戦争休戦70年――『林東源自叙伝』を読んで①/41年ぶりの妹

 少年は日本の植民地下、朝鮮半島の付け根、中国との国境を流れる鴨緑江沿いの山村に生まれた。国民学校(小学校)6年生の夏、日本の敗戦で解放されると同時に国は南北に分断された。北朝鮮に組み込まれた地域で高級中学校(高校)に通っていた19506月、朝鮮戦争が勃発。混乱のなか少年は家族らと別れ、独り避難民にまじって南の韓国に逃げて来た。 

身寄りのない少年は在韓米軍に下働きとして雇われ、苦学の末、陸軍士官学校に入って軍人になり、戦争とも平和ともつかぬ休戦の最前線などで北朝鮮軍と向き合った。やがて国際冷戦終結の波が朝鮮半島に及ぶなかで南北和解に身を投じることになる。いったん明るい展望が開けたかのようにも見えたが、いままた、断絶が深まり、平和は見通せない。 

韓国の元統一相、林東源(イムドンウォン)さん(90)のことである。金大中政権(19982003年)下、大統領の右腕として対北「太陽政策」を推進したことで知られる林さんは昨年10月、自ら歩んできた道を振り返る『林東源自叙伝』(原題『다시,평화 임동원자서전』)を出版した。https://www.youtube.com/watch?v=WWhrABGvC1w 

7月27日は朝鮮戦争休戦協定締結70年。朝鮮半島の人々にとってこの戦争、そして休戦体制とは何だったのか。平和体制をどうつくり上げて行ったらいいのか――。そんなことを考えながらこの書を読んだ。印象に残った一部を抄訳で紹介する。(立命館大学コリア研究センター上席研究員 波佐場 清) 

199010月、平壌

林東源さんが17歳で「越南」した後、再び北の地を踏んだのは41年後の199010月のことだった。国際冷戦の終結に伴い、南北間で高位級(首相)会談が開かれることが決まり、盧泰愚政権下の韓国で外交安保研究院長になっていた林さんはその南側代表団の一人になっていた。9月に第1回会談がソウルで開かれたのに続き、第2回会談が101718日の両日、平壌で開かれた。 

2日間の会談が終わった日の午後、南側代表団一行は錦繍山議事堂に金日成主席を表敬訪問。その夜、北側が設定した夕食会の行事に臨んだ。宿所に戻ると、午前零時が近かった。予期しない出来事が待っていた。 

<午前1時ごろ、ドアをたたく音がした。北と南の責任連絡官がいっしょに部屋に入ってきて「林先生、きょうだいたちと会ってみましょう。妹の林東淵と弟の林東振をここに連れてきました」と言うのだった。私は、わが方の代表は北にいる家族と会わないことになっている、と断ると「ほかの方々も会うのです。林先生だけそうおっしゃらずに、会ってみなさい」と言ってドアを開き、廊下の方に向かって手招きをした> 

南側連絡官の安企部職員も(南側代表団のメンバーで、北に家族関係者がいる)姜英勲首相と洪性澈統一院長官も家族との面談を始めたといい、会うようにと勧めた、という。 

14歳の女学生と、おばあさん

<ずいぶんと年取って見えるおばあさんと若い青年が私の前に立っていた。どう見ても2人が私のきょうだいなのか、見分けがつかなかった。妹の東淵は私より3歳年下で、弟の東振と最後に会ったのはまだ2歳の赤ん坊のときだった。東淵は私の記憶のなかでは14歳のかわいい女学生の顔だけが残っていた。あまりにも苦労が多かったせいなのかどうか、おばあさんの顔からはまったくその面影を見いだせなかった。東淵の方も41年ぶりに会う兄がほんとうにそうなのかどうか、面食らったようすだった> 

林東源さんは2人を座らせ、気持ちを落ち着かせてから確認にかかった。

<父母、姉妹の名前を聞き、わが家の建物の構造、庭のライラックの木や花々のことなど、思い出すままに聞いた。すべてを正確に答えた。妹に間違いないようだった。そんな時、急に47年前だろうか、東淵が小学校に入学した日の朝のことが思い出された> 

<その日の朝のことを覚えているかと聞くと、「兄さん、今もしっかりと覚えています。お父さんが私の誕生日を日本語で教えてくださり、復唱してみろ、と言うので私が「ジュウイチガツ トオカ(1110日)」というべきところを「ジュウイチガツ トッケビ」[「トッケビ」は朝鮮半島に伝わる「お化け」の意]と言ったものだから、兄さんは笑い転げて、からかったでしょう」と言うのだった> 

<私は妹を抱きしめ、ワーッと泣いた。あふれ出る涙が止まらなかった。妹も声を上げて泣いた。しばらく泣き合ったあと東淵は、母は朝鮮戦争の時に39歳の若さで亡くなり、父は医師として動員され、江界[北朝鮮慈江道の道都]の病院で激務のなか30年前に亡くなったと聞かせてくれた。子どもたちのために苦労ばかりで、親孝行一つしてもらえずに亡くなるとは……。全精魂と愛を尽くして育てた息子である私の生死も分からないまま、どれほど辛い日々を送って亡くなったことか。私は父母に孝行を尽くさなかった罪人なのだ> 

<私たちは涙の海から抜け出せなかった。わが民族の悲劇、分断と同族同士で殺し合った悲劇、そして離散家族の悲しみを私たち兄妹ですべて背負い込んでいるような気持になった> 

2週間前に問い合わせ

妹の東淵は江原道元山近くの田舎の病院に薬剤師として勤務し、弟の東振は同じ地方のセメント工場で10トントラックの運転手として働いていると言った。ほかの姉妹らもみな、元気で暮らしていると聞かせてくれた。妹と弟は、私が生きているなんてとても信じられなかったという。 

2週間ほど前に(当局から)「林東源という人を知っているか?」との問い合わせがあったが、その時も亡くなった人のことをいまごろどうして聞くのだろうか、と思ったという。そして1週間前、平壌に出頭しろとの指示を受けた。平壌に来てみると、南北会談のビデオを見せて兄さんに間違いないか、と確認を求められた。父にそっくりで生年月日も合っているし、宣川高級中学校に行っていたというものだから、兄に間違いないようだ、と答えたものの、信じられなかったという> 

■声高に政治宣伝

林東源さんは、南に来て韓国軍に入隊し、陸軍士官学校を卒業、陸軍将校として勤務し、将官として予備役編入後、外国で大使として勤務し、いまは外務省傘下の研究院長をしていることなど、その間の概略を話し、家族のことも話してやった。そして、どれほど苦労したのか、北での暮らしについて知ろうとした。 

<その時、賢明な妹は黙ったまま、文字を書く紙がほしいというものだから、1枚渡すと、「兄さん、私たち北のことについて良いように言ってください。言葉に注意してください」と書いて渡すのだった。私はすぐに、これは録音テープを持たされているのかもしれないと考えた。妹と弟のためにもここは用心深く話すことにした> 

<この時から政治宣伝が始まった。声高に「私たちは偉大な首領金日成主席のあたたかい懐のなかで、なにうらやむこともなく幸せに暮らしています」といい、平等な社会だとか、幸福に満ちあふれる社会だとかを、のべつまくなしに次々と並べ立てた。「早く統一しないといけない」「統一できないのは帝国主義者たちが南朝鮮を強制占領しているからだ」「ソウルに帰ったら、反米闘争を展開しろ」「国連に一つの議席で入ることに兄さんは先頭に立って反対しているそうだが、そんなことをしないで支持しろ」といった言葉が続いた> 

<私はただ黙って聞いてばかりいた。弟の東振が熱を上げるのを見ていると本ものの「アカ」[社会主義者、共産主義者や共産党のことを指す隠語]であるかのように思えた。2人は平壌に呼ばれて徹底した教育を受けたのだろう。こんなに惜しまれる時間をそんなことを言って無駄にするとは……。しかしそれも詮(せん)無いことだった。どうせ、言えということをすべて言ってしまわないといけないのだから>

■小型ラジオ、スカーフ、調味料…

林東源さんはカメラの自動シャッターを使って記念写真を撮った。そして、ソウルから持ってきた土産物の包みを出した。 

<実際のところ、北の代表と案内人にあげろと安企部が用意してくれたものだった。しかし妹はどうしても受け取ろうとしなかった。それで私は、これらは北の人たちにあげようと思って持ってきたもので、たいしたものではないのだと率直に言い、一つひとつ包みを解いて見せてやった> 

<小型ラジオ、ウォークマン、カセットテープ、シルクのスカーフ、ネクタイ、手袋、ティーシャツ、パンティ、アンダーシャツ、調味料、味付け海苔などだった。米貨千ドルも出した。このお金もやはり、安企部が準備してくれたものだった。説得のすえ、受け取ることになったものの、当局に納めると言うものだから、思った通りにしろ、と言ってあげた。どうせ、当局の許可なしには持てないのだろうから> 

いつの間にか午前2時半過ぎになっていた。別れる時が来たようだった。 

■「私たちは大丈夫です」

<妹は心配と愁いに満ちた表情だった。「兄さん、私たちは大丈夫だから安心してください。きのうの夜、テレビのニュースで敬愛する金日成主席におかれて兄さんたちと会ってくださり、南朝鮮の代表たちといっしょに記念写真を撮られる場面が出ていました。明日の労働新聞に金日成主席がいっしょに撮られた写真が大きく出ることでしょう。その写真を切り抜き、額縁に入れて掛けておいてずっと見ています。わが家の栄光です。もう大丈夫です」。このように自らを慰めるようにいう、その言葉が私を限りなく悲しませた> 

<いまとなっては、越南者、それもいわゆる「傀儡政府」の高官の家族に分類されることになったのだから、生き残った家族を苦しみに陥れるのだ、という罪責感が私を襲った。流れ出る涙を止めようがなかった> 

2時間ほどの再会を終え、外に出るとマイクロバスが待っていた。 

<「早く統一していっしょに暮らそう」「また、会える日までおたがい体に気をつけよう」。そう言って、再会の約束もできないあいさつを交わして別れた。部屋に戻るともう、3時になっていた。ベッドに横になったが、眠れなかった。亡くなった父母のことを思い、涙で夜を明かした> 

<翌朝、配られた民主朝鮮と労働新聞の1面に20×30センチの大きな写真が載っていた。金日成主席と姜英勲首相の間の後列に私が写っていた。この写真を切り抜いて額縁に入れて見る妹たちのことを考えながら宿所の百花園を発った> 

■姜英勲首相の辞任

会談を終えてソウルに帰るとすぐに、韓国代表団が北にいる家族と会ったことが、マスコミの厳しい非難にさらされた。1022日、東亜日報が「姜首相、平壌で妹に会う」との見出しの特ダネ記事を1面トップで報じると、各紙が競ってこれを追い、会談代表の道徳性を問題にした。 

姜英勲首相は「離散家族問題の解決もできないのに1人だけ北の家族と会ったことについて1千万離散家族に対し丁重に謝罪」するとし、「残務整理が終わったところで発表しようと考えていて遅れ、物議をかもしたのは遺憾である」と表明。結局、このことが姜首相の辞任に結びついていったのだった。

   

朝鮮半島のほぼ全域に戦火が及び、戦線が大きく動いた朝鮮戦争では多くの家族が散り散りになり、南北の離散家族は1千万人にのぼったともいわれる。20006月に初めて開かれた南北首脳(金大中-金正日)会談では南北離散家族の再会事業をおこなうことで合意。以来、188月までに計21回行われたが、192月の米朝首脳会談決裂後、朝鮮半島情勢が冷え込んだ影響ですでに5年近くおこなわれていない。 

関係者の高齢化が進んでおり、韓国の聯合ニュースによると、韓国側の離散家族再会申請者は235月末現在、計133680人を数えるが、うち70%近い92千余人がすでに亡くなった。再会事業が中断された後、この5年近くの間だけでも約16千人が死亡したとみられる、という。                    (つづく)

 

2023年1月28日土曜日

北朝鮮の「在韓米軍容認論」

米国のポンペオ前国務長官が最近出版した回顧録で、20183月、北朝鮮の金正恩総書記から「在韓米軍は必要だ」と告げられたと明らかにした、と各メディアが伝えている。それによって中国から自らを守ることができるという趣旨の発言だったという(https://www.47news.jp/world/8860910.html)が、北朝鮮の「米軍容認論」自体は、先代の金正日総書記の時代からの一貫した方針だったようだ。

■『林東源回顧録』

北朝鮮が在韓米軍を容認していることが広く知られるようになったのは、北朝鮮に対して「太陽政策」をとった韓国の金大中大統領の側近、林東源氏の回顧録によるところが大きい。

金大中政権(19982003年)で大統領外交安保首席秘書官や統一相、国家情報院長などを務めた林東源氏は退任後の2008年に回顧録『ピースメーカー』(日本語版『南北首脳会談への道』岩波書店南北首脳会談への道―林東源回顧録 | 東源, 東源, 林, 清, 波佐場 |本 | 通販 | Amazon)を出版。その中で林氏は自ら同席した初の南北首脳会談(2000年6月、平壌)における金正日氏の在韓米軍容認発言を公にしている。

■『林東源自叙伝』

詳細は同書に譲るが、林氏は昨年10月にソウルで新たに出版した『林東源自叙伝』(原題『다시,평화 임동원자서전https://youtu.be/WWhrABGvC1wでも、その要点を次のように書き記している。

ソウルで出版された『林東源自叙伝』

金正日国防委員長(労働党総書記)は金大中大統領に秘密の事項について申し上げるといい、在韓米軍の問題について次のように話した。

1992年初め、金容淳書記を米国へ特使として派遣し、『北と南はもうけんかをしないことで合意した』と伝え、『米軍が引き続き残り、南と北が戦争しないように役割を果たしてほしい』と頼みました。……『東北アジアの力学関係から考えて朝鮮半島で平和を維持しようとするなら米軍がいるのがいい』と言ってやりました。金大中大統領は『統一した後も米軍はいなければならない』と言われたそうだが、私の考えも同じです」

この時の首脳会談の10日前、林東源氏は水面下の事前準備のため大統領特使として北朝鮮を訪問し、中国国境近くの新義州の別荘で初めて金正日委員長と会談。そこでも在韓米軍のことなど対米関係についての金正日委員長の考えを聞き出していた。

 ■「朝鮮半島の平和維持軍に…」

新しい『自叙伝』は次のように書いている。

 金正日委員長は米国との関係についても率直な考えを聞かせてくれた。

  「朝鮮半島の問題は外国勢力に頼らず、わが民族同士で力を合わせ、自主的に解決していかな ければならないという自主の原則が重要です。もちろん、歴史的な経験の上からも、朝鮮半島が置かれた地政学的な位置から見ても、米国といい関係を保つことが非常に重要です。金大中大統領は東北アジアの平和と安定のために統一後も米軍は引き続き駐屯すべきだと主張されているが、実際のところ、私も米軍の駐屯自体、別に悪いわけではないと思っています」

予想外の発言に私は耳を疑った。金委員長は続けた。

  「ただ、在韓米軍は共和国[北朝鮮]に対して敵対的な軍隊ではなく、朝鮮半島の平和維持軍に地位と役割が変更されなければならないということです。……われわれは過去の敵対関係を清算し、米国との関係を正常化することを重要な目標にしています。米国との関係が正常化すれば、米国が憂慮するすべての安保問題を解消できます」

■「中国人はうそつきだ」

今回、ポンペオ氏が回顧録の中で金正恩総書記の発言について触れたのはトランプ前政権下の20183月、中方情報局(CIA)長官として平壌を極秘訪問したときのことについてだ。

共同電などによると、ポンペオ氏が金正恩氏との会談で「中国共産党は一貫して米国に対し、米軍が韓国から撤収すればあなたが喜ぶと言ってきた」と水を向けると、金正恩氏は笑いながら「中国人はうそつきだ」と応じ、「中国共産党から自分を守るために在韓米軍は必要だ」と述べたという。

さらに、金正恩氏は「中国は朝鮮半島をチベット、新疆ウイグル両自治区のように扱うため、米軍撤収が必要なのだ」とも語ったという。

■米朝急接近と決裂

米中覇権競争下、次期米大統領選で共和党からの出馬を目指しているとも伝えられるポンペオ氏の今の時点での発信は、たぶんに政治性を帯びた部分も含まれていそうだ。しかし、金正恩氏の「在韓米軍容認」発言自体は、先代金正日政権時代のことから判断して、その時点における率直な考えだったとみるのが自然だろう。

米朝はポンペオ氏のこの時の極秘訪朝のあと急接近。1カ月半後の186月、シンガポールでトランプ大統領と金正恩総書記による史上初の米朝首脳会談が開かれ、米朝関係改善などをうたった共同声明を発表した。続いて翌192月、両氏による2度目の首脳会談がベトナムのハノイで行われたが、決裂。両国関係は再び冷え込んでいったのだった。

              (立命館大学コリア研究センター上席研究員 波佐場 清)


2022年9月2日金曜日

『これだけは知っておきたい 日本と韓国・朝鮮の歴史』に増補改訂版/中塚明先生

近代日朝関係史の研究で知られる中塚明・奈良女子大名誉教授のロングセラー『これだけは知っておきたい 日本と韓国・朝鮮の歴史』(高文研)が全面的に書き直され8月、増補改訂版として新たに出版された。

ほんとうはよく知らないのに、偏った意見だけは言う。いや、無知だから偏見を生むのだ。隣国のことを知らないというのは、実は日本のこともよく分からないということだ――。長年の研究で得た老歴史家の信念がそこには込められている。 

(波佐場 清=立命館大学コリア研究センター上席研究員)


2002
年に出た旧版は12刷を重ねた。新版には、この間、中塚先生の主導で重ねられた日韓市民による「東学農民軍の歴史を訪ねる旅」で得た新たな知見や、近年の日韓をめぐる動きなどが書き加えられた。中塚先生は9月、93歳の誕生日を迎える。新版の一部をかいつまむと、以下のような内容が含まれている。

■国家主権踏みにじって開戦

日本は明治維新で近代国家への道を歩みはじめ、40年ほどで世界の強国の仲間入りをした。背後にあったのは、「征韓論」という名の朝鮮侵略論。それは日清・日露戦争―韓国併合という形で現実となった。併合に結びついた2つの戦争はいずれも、朝鮮・韓国(大韓帝国)の国家主権を踏みにじるところから始まった。

  日清戦争

日清戦争で日本が最初に武力行使したのはソウルの朝鮮王宮占拠だった。一般に日清開戦の口火と言われる1894725日の「豊島沖海戦」の2日前のことだった。朝鮮をめぐって日清がにらみ合うなか、日本軍は国王を人質に朝鮮サイドから清国軍駆逐のお墨付きを取り付けて開戦を正当化していった。

  日露戦争

日露戦争は一般に190428日、日本海軍による仁川沖のロシア艦隊攻撃で始まったとされる。しかしその2日前の26日、日本軍は韓国・鎮海湾奥の馬山浦の電話局を占拠してロシア側の通信遮断をはかるとともに、鎮海湾を日本の連合艦隊の根拠地として確保した。事実上の戦端だった。

 竹島を知らなかった日本の軍部・マスコミ

日露戦争の日本海海戦で日本の連合艦隊は1905527日、ロシアのバルチック艦隊を対馬海峡で迎撃。逃れた一部ロシア艦船も翌28日、竹島近海で捕捉し、壊滅させた。日本の連合艦隊司令官東郷平八郎は大本営に勝利の電報を送った。

電報は翌日、大本営に届き、官報、新聞にそのまま掲載された。そこでは竹島のことを「リャンコルド岩」としていたが、8日後の65日、官報に「竹島」だったとする訂正記事が載った。

日本政府が「竹島」を日本領に編入したのは日本海海戦4カ月前の1905128日だった。ロシア艦隊を迎え撃つ軍事的必要と結びついていた。いま日本政府が「日本固有の領土」とする竹島だが、日本の連合艦隊関係者も、大本営も、そして新聞社もその新しい名を知らなかったのである。

■「明治栄光」論

「明治は栄光の時代だった」とする見方が日本には根強い。日清・日露戦争の時期は政治家も軍人もしっかりとしていたが、満州事変(1931年)以降、舵取りを誤り、日本の敗戦を招いたとするものだ。歴史作家の司馬遼太郎などは盛んにそのようなことを言っていた。その「栄光」の陰で踏み台にされ、国を滅ぼされた朝鮮のことは頭になかった。

司馬だけではない。日本敗戦後、「戦争犯罪人」を裁いた東京裁判の判決(194811月)を傍聴した作家大佛次郎は「悲しいかな、日本国民は今日まで、これだけ裏面まで行き届いた『日本近代史』の要約を読んだことがなかった」などと「日本近代史に対する深刻な反省」を書いた。

しかし大佛がここで想念した「日本近代史」には日清戦争も日露戦争も入っていなかった。当時、日本の最高の知性であった大佛にして、そうだったのである。

■影落とした古代日朝関係史

どうしてこういうことになったのか。そこには、とくに明治期に台頭した日朝関係をめぐる日本の古代史観も濃い影を落としていた。

  ▽「神功皇后」

明治になって日本政府発行の紙幣に人物の肖像が印刷されるようになり、その第一号として登場したのが「神功皇后」だった。神のお告げで朝鮮を攻めて新羅を降伏させ、百済、高句麗を服従させた「三韓征伐」の立役者として古事記、日本書紀にでてくる伝説上の人物だ。日本にとって朝鮮は「征伐」の対象であるかのように仕向けられた。

 ▽「任那日本府」

 古代、「大和王権」は4世紀半ばから6世紀半ばまでの200年間、朝鮮半島南部に広大な領地を有して任那に「日本府」(出先の役所)を置き、百済・新羅も従属させていた――日本では長い間、そんな見方が支配的だった。天皇の権威は古くから強いものだったとするために8世紀に書かれた日本書紀に基づいた見方だった。

 日本書紀は、朝鮮の諸国を日本の朝貢国としてえがくが、中国の史書『宋書』が5世紀、宋の皇帝に朝貢したと書く「倭の五王」については何一つ触れていない。

 日本人の朝鮮についての意識を考えるとき、古代史も「いま」と切り離すことはできない。

■東学農民戦争

明治以降の日本の侵略に対し、朝鮮はただおとなしくしていたわけではもちろん、ない。日清戦争期には大きな抗日運動が起きた。「東学」をよりどころとした農民たちのたたかいだった。東学農民戦争である。日本では長らく「東学党の乱」といわれてきた。

18942月、全羅道・古阜での農民反乱が口火を切った。不正官吏の厳しい取り立てに対する蜂起だったが、東学のリーダー、全琫準らの指導でまたたく間に広がった。抑えられなくなった朝鮮政府は清国軍に出兵を要請、日本もすかさず出兵した。

日・清の干渉に危機意識をもった農民軍は政府軍と和睦し、朝鮮政府も日・清両軍の撤退を主張。しかし日本は引かずに清国を挑発、日清戦争に突入していった。そんななかで東学農民らは抗日の旗を公然と掲げ、再決起した。これに対し日本軍は農民軍を朝鮮半島南西端の珍島に追い詰め、皆殺しにした。

■東学の復権

東学は、朝鮮王朝末期の政治的、社会的混乱のなか、社会の変革をめざして朝鮮内で形成された思想だった。日本では「キリスト教(西学)に反対する民族宗教」と説明されることが多いが、朝鮮内部の社会的な矛盾のなかで生まれた「朝鮮の学問、思想」と見るべきだ。

東学農民戦争は、日本の教科書でいま、「甲午農民戦争、東学の乱」(山川出版『詳説日本史』)などと表記している。しかし「東学の乱」では、農民はまだ「乱民」のイメージだ。

東学農民は韓国でも長らく「乱民」に貶められ、遺族や子孫らは息をひそめてきた。しかし1980年代に民主化運動をたたかった人たちは韓国の自主・民主の根源として東学に行きつき、民主化後、2004年には農民軍の名誉を回復する特別法も制定された。

そんな韓国市民の自主・民主のたたかいは、その後も「ローソク革命」など非暴力の市民運動にひきつがれてきているのである――

     

以上、内容のほんの一部をかいつまんだが、随所にハッと気づかされる興味深いエピソードが散りばめられている。全体にかみ砕いた、分かりやすい文章でつづられており、歴史の現場を踏まえた話には説得力がある。若い人、とくに高校生や大学生にぜひ読んでもらいたい一書である。


2022年8月9日火曜日

「コリアン民族主義」と「愛国」自民の癒着

旧統一教会の考え方は、朝鮮半島を非常に重んじるコリアン民族主義だ。創設者の故・文鮮明氏は、日本が経済的に栄えたのは、韓国に財物をささげるためだと教えている。そうした国家観の組織と、愛国主義を唱える自民党の政治家が、なぜ付き合ってきたのか強く疑問に思う――。

霊感商法対策弁護士連絡会を立ち上げ、旧統一教会(世界平和統一家庭連合)の被害救済に取り組んできた山口広さんは、こんな疑問を提起している。(87日付京都新聞)

 

内田樹さんの「答え」

思想家の内田樹さんも『週刊金曜日』(812日号)で同じような問いかけを発し、自ら一つの「答え」を導き出している。

――愛国調の口吻で「日本スゴイ」と言い立てる人々が韓国人宗教家を「メシア」に想定し、韓国を男性、日本を女性に見立て、「男にひたすら尽くすのが女の道」というような異様なナラティブを掲げる組織とどうして癒着できるのか。

たぶん、「保守派」の方々は統一教会がどういう組織で、何をめざしているのかについて一通りのことは知っていたのだろうが、「そんなのはどうでもいいことだ」と思って無視していたのだろう。政治家にすれば、イベントに顔を出したり、祝電を送ったりすると、たっぷりと「見返り」がある。

統一教会は政治家たちの無知と無関心を梃子に自民党内部にケルンを築き、日本政府の政策決定に深い影響を与えてきた。政治家たちは統一教会を「便利な機械」だと思い、統一教会は政治家たちを「便利なエージェント」だと思っていた。

その通りなのだと思う。そのうえで、この問題をさらに掘り進めると、日本と朝鮮半島の間に堆積してきた歴史の鉱床に突き当たる。

歴史の影

内田さんが指摘するように、この教団は日本を「エバ国家」、韓国を「アダム国家」とし、妻が夫に仕えるように日本が韓国に尽くすのは当たり前といったふうに説いている。なぜ、そうなのかといえば、過去、日本が朝鮮半島を支配した歴史からいって、贖罪上、当然だとするのである。

教祖自身の歴史体験がそこに投影されているのかもしれない。文鮮明氏は、日本の植民地下の1920年、いま北朝鮮地域になっている平安北道定州郡で生まれ、41年日本に留学。日本では独立運動にも関与したといい、「警察に捕まって、取り調べを受けたり、殴られたり、留置所に拘禁されたりしたことも、数えきれないほどありました」と書いている。(『平和を愛する世界人として 文鮮明自叙伝』創芸社)

「日本は兄貴分」

そんな教団と日本の「愛国」自民保守派はどうして手を取り合えるのか。ナゾを解くカギは彼らの歴史観にある。85日付朝日新聞は、自民党の保守派有力衆院議員の発言を伝えていた。「日本は韓国の兄貴分」持論展開――という見出しが付いている。

衛藤征士郎・元衆院副議長である。同氏は(8月)4日の党会合で日韓関係について次のようなことを述べたという。

「韓国はある意味では兄弟国。はっきり言って、日本は兄貴分だ」「韓国ともしっかり連携し、協調し、韓国をしっかり見守り、指導するんだという大きな度量をもって日韓関係を構築するべきだ」

衛藤氏はさらに記者団の取材に対し、「発言の真意」について次のように述べたという。

「我が国はかつて韓国を植民地にした時がある。そこを考えた時に、韓国は日本に対してある意味、兄貴分みたいなものがある」「日本国民は日米関係を対等だと思っているか。僕は思っていない。同じように日韓関係は対等だと韓国が思っていると、僕は思っていない」「日本は常に指導的な立場に立ってしかるべきだ」

■「日鮮同祖論

驚くべき発言だが、この間の慰安婦や徴用工の問題をめぐる彼らの言動に照らすと、自民保守派といわれる人たちの歴史観とその対韓認識は大方のところ、そのようなものなのだろうと思う。そしてそれは、日本の韓国併合を正当化していったかつての「日鮮同祖論」と重なっているようにもみえる。 

この「同祖論」は、とくに明治以降、日本史研究家の重野安繹、星野恒や言語学者金沢庄三郎らによって唱えられた。簡単に言えば、日本人と朝鮮人の祖先は同じで、兄弟、あるいは一つの家族のようなものだ、ただし、日本人は常に家長や兄として指導する立場にある、とする主張だった。(鄭在哲著・佐野通夫訳『日帝時代の韓国教育史』=皓星社=など)

ともあれ、「愛国」自民保守派がなぜ……との問いに対する答えは、衛藤氏の発言の中に見出せると私は思う。 

「あだ花」

衛藤氏が言うように、「日韓は兄弟国で、日本が兄貴分として韓国をしっかり見守り、指導する立場に立ってしかるべき」という上から目線に立つと、自ずと「大きな度量」や余裕も生まれてくるというものだろう。

「韓国自身、日本と対等の関係にあるとは思っていない」と信じていれば、相手の少々の我がままだって大目に見てやれるし、いざというときは、いつでも言うことをきかせることができるという「自信」も生じる――そんな勝手な思い込みが元統一教会の問題をここまで肥大化、深刻化させてしまったのではないか。

同じことは、慰安婦や徴用工の問題についても言えるだろう。衛藤氏のような視点に立てば、日本はもう妥協する必要はない。日本が「指導」すれば、いずれ韓国側から歩み寄ってくる、と信じ込める。そんな心情が問題をいまのようにこじらせてしまったのではないのだろうか。

「日韓癒着」はかつて韓国の軍事政権と日本の保守勢力の間にもあった。元統一教会の問題は戦後のそんな流れのなかで生れ、肥え太ってきた歪な「あだ花」であるかのようにも見えてくる。

■歴史を肝に銘じて…

いま、韓国について改めて思うことがある。韓国の歴史にあってあの日本の植民地支配とは何だったのかということだ。この際、韓国の側に身を置いて考えてみるのも無意味なことではないだろう。

大陸から陸続きの朝鮮半島は過去、度重なる外からの侵攻をうけてきた。古くは、日本の教科書にも出てくる前漢・武帝による楽浪郡設置という名の一部地域の植民地支配。三国時代、百済、高句麗、新羅と隋、唐との葛藤もよく知られている。

高麗時代には首都が契丹族の遼に攻められて灰燼に帰し、モンゴルの侵攻では全土が蹂躙された。女真・満州族の清にも大変な屈辱を強いられた。 

以上のようなことはすぐに思い浮かぶが、見逃してならないのは、このような受難が繰り返されながらも、いつの時代も、この国、この民族の王朝がその命脈を保っていたということだ。つまり、根こそぎ完全な異民族支配ということはなかったのである。

唯一の例外が日本による、あの植民地支配だった。日本は朝鮮王朝を廃絶させ、国そのものを完全に奪い取り、「日本人への同化」の名のもとにこの民族の抹殺をはかろうとした。かつての日本はそういうことをやってしまったのである。

こんなことは朝鮮史を少し勉強すれば分かることだが、それがこの民族にとってどれほどの屈辱であったことか。これは「民族の記憶」として恐らく、この先100年、200……いや、永遠に引き継がれていくだろう。

こうした「過去」は、時の権力によって「不可逆的な解決」がなされたとしても「屈辱の記憶」は消え去らない。そうした記憶は、場合によっては、時の経過とともに却って純化されていくこともあるかもしれない。

日本はこのことを肝に銘じてこの隣国と向き合うべきだろう。そうした時、初めて相手も心を開くのではないか。                        (波佐場 清)


2021年10月11日月曜日

[翻訳]韓国与党「共に民主党」李在明氏の大統領候補受諾演説

韓国の文在寅政権を支える進歩系与党「共に民主党」は1010日、来年3月におこなわれる次期大統領選挙の党公認候補として李在明・京畿道知事(56)を選んだ。李知事は候補受諾演説で「民生重視」の姿勢を示し、「改革」への強い意思を表明した。以下に、演説の主要部分を訳出した。見出しは訳者が付けた。    (波佐場 清)

中学、高校へも行けず

「大韓民は民主共和国である」「大韓民の主国民に在り、あらゆる権力は国民から出てくる」

そうです。大韓民国憲法第1条で明記されたように、国の主人は国民なのです。あらゆる国家権力は国民のために使われなければなりません。政治は、国民がより良く暮らせるために存在すべきなのです。 

本日、私たちは「変化」を選択しました。

私は中学、高校もまともに行けませんでした。年齢が幼かったので自分の名前で工場に就職することができず、他人の名前で工場に通いました。プレスに圧されて腕が曲がり、強い薬品で嗅覚を半分以上失った障がい少年労働者でした。政治的なバックも、組織も、学閥も、地縁もありません。国会議員の経歴一つない、辺境のアウトサイダーです。そんな私、李在明に与党の大統領候補という重大な任務を任せていただきました。 

「改革」は国民の命令

「国民の暮らしとかけ離れた旧態依然の政治をやめろ」「既得権の宴会、汝矣島(ヨイド)政治[日本の「永田町政治」に相当=訳者注]を改革しろ」「経済を活性化せよ、民生を優先せよ、国民の暮らしを変えろ」。どれもが切羽詰まった国民の命令です。

本日、私たちは「改革」を、新しさを選択しました。

過去30年余の間、検察、警察、国家情報院、腐敗政治勢力、あらゆる既得権に立ち向かってたたかい、常に勝ち続けてきた私、李在明に民生改革、社会改革、国家改革の完遂という任務を与えてくださいました。 

「不公正と不平等、不正腐敗を清算し、公正と正義を取り戻せ」「不労所得をなくし、働く者が尊重され、まともに暮らせる国をつくれ」。これが明確、峻厳な国民の命令です。そんな命令を厳粛に実行します。国民が求める「変化と改革」を必ず完遂します。

HP 李在明の開かれたキャンプ 「共に民主党」の大統領候補に決まった李在明氏

私一人ではできないことです。しかし、ここに心強い同志たちがいます。最後まで善意の競争をしてくださった尊敬する李洛淵候補、改革の旗印を高く掲げてくださった秋美愛候補、民主党をさらに若くしてくれた尊敬する朴用鎮候補に心より感謝申し上げます。 

大転換の時代へ、大胆な挑戦

いま、韓国は内外で大きな挑戦に直面しています。

大きな転換の時代です。エネルギー転換、デジタル転換、パンデミック、国家間の無限競争、そして耐え難い不平等と格差、構造的な景気沈滞、すべてがこれまで経験しなかった危機です。 

内にあっては、不公正と不平等、不均衡と低成長の悪循環によって競争と葛藤が激化し、社会の連帯が弱まっています。経済は先進国なのに多くの国民が夢と意欲を失い、絶望の奈落にはまり込んでいます。外にあっては、ますます激しくなる国家間の無限競争が私たちに選択できない選択を強いています。 

しかし危機にあっても、やろうという者は方法を探し、避けようという者は口実を探します。私、李在明は方法を探します。いままでがそうであったようにピンチをチャンスとして生かします。選択を強要されるのではなく、選択を求めることができるようにしていきます。偉大な国民とともに、偉大な挑戦に大胆に臨んでいきます。 

日本を追い越し、先進国に追いつき

1.大転換の危機を大跳躍のチャンスとして生かします。気候危機、技術革命、世界的な感染病に最もうまく対応してきた韓国です。だから日本を追い越し、先進国に追いつき、遂には世界をリードする、そんな韓国をつくります。 

2.国家主導の強力な経済復興政策によって経済成長を右肩下がりから右肩上がりに変えます。左派の政策で大恐慌に打ち勝った(米国大統領の)ルーズベルトにならいます。経済や民生に、赤い色がどんな関係があるというのですか。有用で効率的なら、進歩・保守、右派・左派、朴正煕の政策、金大中の政策、そこにどんな差があるというのですか。国民の財布を満たし、国民の暮らしを改善できさえすれば、選り好みをせず、果敢に採択して果敢に実行します。 

3.積弊を一掃し、公正、正義の国をつくります。積弊は大きなものだけではありません。国民の暮らしを締め付け、公正を害するすべてが積弊です。政治、行政、司法、メディア、財閥、権力機関だけではなく、不動産、採用、教育、徴税、経済、社会、文化など、国民の暮らしにかかわるすべての分野で不公正と不合理をきれいに清算します。 

誰もルールに背いて利益を得ることができず、ルールを守ることで損をみることのない国、すべての分野、すべての地域で特別な犠牲には特別な補償が得られる国をつくります。だれかの損失になることが明らかな不労所得を完全に根絶します。 

福祉、文化、平和人権、科学技術

4.国民の基本権が保障される普遍福祉国家を完成させます。韓国はいまや経済の面では先進国です。国家全体で富の総量を大きくすることに加えて国民の基本的な暮らしを保障しなければなりません。世界で最初に基本所得を支給する国、基本住宅、基本金融で基本的な生活を守る国をつくります。国民がより安全で、みんながより平等で、より自由な国をつくります。 

5.世界がうらやむ文化強国をつくります。韓流の熱風が世界を席巻しています。韓国の映画、音楽、ゲーム、ドラマに世界が熱狂しています。金九先生の長年の夢だった「ただひたすら持ちたい高い文化の力」をとどろかせています。「支援はするが、干渉はしない」という金大中大統領の哲学で世界がうらやむ「文化強国コリア」をつくります。 

6.世界をリードする平和人権国家をつくります。韓国は周辺強国の影響を受ける半島国家でした。葛藤と対決で苦しむ分断国家でした。いまや経済強国、軍事強国を超えて気候危機への対応をリードし、世界の平和と人権を守る先導国家へと進んでいかなければなりません。 

7.科学技術の国、未来教育の国をつくります。大転換の時代にふさわしい未来の人材教育が必要です。速い社会経済の発展スピードに相応する生涯教育に国が責任を負わなければなりません。基礎科学技術はもちろん、先端科学技術に積極投資します。技術革命の時代を率いる技術強国へと発展させます。 

世界をリードする韓国へ

恐れが障壁となってはなりません。よその国でやらないということが、韓国がしないという理由にはなりません。

私は偉大な韓国国民を、私たちの危機克服DNAを信じます。第二次世界大戦後、最貧国から世界10位の経済大国にした韓国国民です。IMF危機を最も早く克服し、日本の輸出報復に短期間のうちに完全に勝利した国民です。1980年の光州民主化運動、87年の民主化抗争、1700万人のろうそく革命で世界の民主主義の歴史を書き換えた国民です。ソーシャルディスタンス、自発的な防疫、分別リサイクルまで、社会のために不便を甘受し喜んで参加する偉大な国民です。 

このような国民のいる韓国にどんなことであれ、できないことがありましょうか? これまでの世界になかった韓国、世界をリードする韓国、どうしてそんな国をつくれないというのでしょうか。 

問題はリーダーです。明確な哲学とビジョン、堅固な勇気と決断力がなければなりません。既得権の抵抗を突破する強力な推進力がなければなりません。国民を信じ、国民と共に、国民のためにいばらの茂みをかき分けて新しい道を切り拓いていく強い意志がなければなりません。 

私、李在明はやります。偉大な国民、偉大な党員同志とともに偉大な旅を始めます。 

「頼れる大統領」に

「国民の暮らしを守る頼れる大統領」になります。強者の過度な欲望を抑え、弱者の暮らしを守ります。国民の仕事を守り、所得と福祉を守ります。女性の安全、青年の機会、高齢者の幸福な老後を守ります。どんなことであれ、暮らしを守ること以上に優先される問題はありません。戦争に陥って民生をおろそかにすることは決してありません。「ひたすら国民、ひたすら民生」という信念を守ります。 

「国を守る頼れる大統領」になります。周辺強国の覇権競争から韓国を守ります。韓国の自尊と国益を守ります。戦争、災難、疾病、テロなど安保面の危機から韓国社会を守ります。「国民の心を最もよく察し、国民の暮らしに役立つ大統領」になります。「政治が変われば暮らしも変わる」と体感できる変化をもたらします。 

「敵と味方を分けない統合大統領」になります。大統領になるまでは一部を代表するが、大統領になった瞬間、全員を代表します。清算のないでたらめなつじつま合わせではなく、公正な秩序の上に、陣営や地域、敵味方を分けず、公平に機会を享受できる大統合の国をつくります。 

「既得権」と対決

大統領選挙まで残り150日です。

こんどの大統領選は腐敗既得権との最後の戦いです。未来と過去の対決、民生改革勢力と旧態依然の既得権カルテルとの対決です。暗い過去に回帰するのか、希望の新しい国に向けて出発するのかを決めなければなりません。 

私は実績で実力が検証された「準備のできた大統領」だと自負しています。城南市の成功した民生政策は京畿道の政策となり、京畿道の成功した民生政策は全国へと広がりました。 

政治家の公約は国民との契約以上のものです。私は守れる約束だけをし、約束したことは必ず守ってきました。公約実行率平均95%という数字がそれを証明しています。私の有能さは実績で証明されています。取り柄のない私を国民が認めてくれたのもひたすら、なすべきことをうまくやったからだと信じています。 

一つ付け加えて申し上げます。土建勢力と癒着した政治勢力の腐敗と不正を必ず根絶します。一瞬なりとも先に延ばすことはありません。当選即強力な「不動産大改革」で不動産不労所得共和国という汚名をなくします。 

「開発利益完全国民還元制」の導入はもちろん、城南市と京畿道で行った「建設原価・分譲原価の公開」を積極的に即時拡大します。 

こんどの「華川大裕ゲート」ように事業の過程で金品提供など不法行為が摘発されれば、事後であっても開発利益を全額回収して不動産不労所得が少数の既得権者の手に入らないよう、完全に根絶します。 

4番目の民主政府」実現へ

金九先生の一念、金大中大統領の信念、盧武鉉大統領の熱情、文在寅大統領の心で政治に臨みます。敢えて国民を指導するのではなく従います。もっと有能な民主政府で、もっと公正な社会、もっと成長する国をつくって報います。 

私、李在明は来年39日、必ず勝利します。そしてその2カ月後に大統領就任式場で尊敬する文在寅大統領と固く手を取り合います。 

(亡くなった)金大中、盧武鉉の二方の大統領に「あなたの遺産である4番目の民主政府がスタートしました」と誇らしく報告します。

2021年9月21日火曜日

日韓の深淵―盧泰愚さんの時代⑧/大統領として天皇と向き合って…

盧泰愚さんの少年時代に戻りたい。1945年春、国民学校を卒業した盧少年は中学校へ進んだ。『回顧録』は次のように書いている。 

▽凶作と貧困

国民学校6学年の同級生105人のうち中学に進学したのは私を含め4人だけだった。みな貧しかった。光復(解放)の前年、故郷は厳しい凶作に見舞われた。何カ月も雨が降らなかった。水利施設がなくて田植えができず、人々はアワを植えた。アワのごはんすらまともに食べられず、少しばかりのアワに、乾かした豆の葉っぱが入った水っぽい粥がせいぜいだった。

村の人たちが土気色にむくんだ顔で生き延びるためにマツの皮なりと剥いで食べようともがいていた光景が今もありありと目に浮かぶ。

私は中学に行けるような家庭環境ではなかったが、満州で稼いできた叔父が学費を出してくれたおかげで進学できた。 

この地方随一の名門、慶北中学を受験して失敗。大邱工業学校に進んだ、その夏、解放を迎えた。その日のことを次のように書いている。

815

1945815日、飛行場近くで防空壕を掘っていると、突然「家に帰れ」という。「どうして?」と思いつつ喜んで帰った。夕方、日本の降伏を知った。正午に天皇の肉声で「無条件で降伏する」との放送があったのだという。日本人の先生は「米軍が日本本土に上陸したとしても竹槍で退ける」と豪語していたのではなかったか。

街では愛国歌が歌われ、太極旗が翻った。独立運動の志士、李承晩博士や金九先生が帰国されるといううわさが聞こえてきた。胸を張って暮らせる国になるように思えた。 

工業学校に3年間通ったあと慶北中学校に編入。6学年に進級した1950625日、朝鮮戦争が起き、勉強どころではなくなった。学徒兵として志願するか、召集を待つか……。結局、憲兵学校から陸軍士官学校(陸士)へと進み、軍人になったのだった。 

激動の中、大統領就任

それから30年の歳月をへて1980年代初め、盧泰愚さんは政治家に転身した。同郷、陸士同期の全斗煥政権下だった。80年代後半、内外情勢は大きく動いた。グローバルな冷戦体制が崩壊に向かい、韓国内では87年、怒涛の民主化運動が政権を追い詰めた。 

与党の大統領候補になった盧泰愚さんは急遽、大統領選を間接選挙から直選制に改める改憲を「民主化宣言」で約束し局面を打開、野党・民主化勢力の分裂にも助けられてその年暮れの大統領選を勝ち抜いた。 

882月、大統領就任。南北和解を掲げて果敢な北方外交を推進し、国内ではソウル五輪後に韓国民の海外旅行全面解禁に踏み切った。民主化は急進展し、封じ込められてきた歴史清算要求も一気に噴出し始めた。そんな時期、盧泰愚大統領は9052426日、日本を訪問した。 

「おことば」問題浮上

訪日にあたり、天皇(現上皇)の「おことば」問題が大きく浮上した。韓国側が、過去の植民地支配に絡み、天皇が大統領を迎えて開く宮中晩餐会で、加害者の立場からはっきりと謝罪することを要求、日本側に強い反発が起きた。 

今年3月、韓国外務省は31年前の外交文書を公開、当時のいきさつが明らかになった。盧大統領の訪日に際し韓国側は、84年の全斗煥大統領訪日時に昭和天皇が表明した内容を上回る「より具体的で強いおわび」を求める方針を決めていたのだった。 

全大統領の訪日時、昭和天皇は「両国間に不幸な過去が存したことは誠に遺憾」と述べたが、韓国側には「謝罪の主体などがはっきりしない」との不満が強かった。韓国側は、新たな「おことば」の内容によっては盧大統領の日本滞在中に天皇の訪韓を招請することも決めていた。 

盧大統領の訪韓を前に、外交交渉はぎりぎりまで続いた。514日、盧大統領はソウル駐在の日本メディア特派員との会見で「天皇は加害者の立場ではっきりと謝罪しなければならない」と言明。翌15日、韓国政府は「天皇の謝罪表明を大統領訪日まで要求し続ける」と発表した。 

■1歳違い

1990524日、盧泰愚大統領は予定通り、国賓として日本を公式訪問した。赤坂迎賓館での歓迎行事のあと、大統領夫妻は皇居で天皇皇后と会見。双方は、大統領が天皇より1歳年上であることや、お互いの趣味であるテニス談議に花を咲かせた、と報道された。

青瓦台HP 天皇皇后と会見する盧泰愚大統領夫妻 1990年5月24日
1歳違い――193312月生まれの天皇と、32年12月生まれの大統領。振り返ってみると、少年時代、大統領が植民地下、片道6キロの山道を通った国民学校で「私共は心を合わせて天皇陛下に忠義を尽くします」と唱えさせられていた時、天皇は皇太子として学習院初等科で「帝王学」を学んでいたのだった。 

天皇との会見で、盧泰愚大統領の脳裏をめぐったものは何だっただろうか。 

「痛惜の念」

夕方、海部俊樹首相との第1回首脳会談のあと、宮中晩餐会。天皇はここで、次のような内容を含む「おことば」を述べた。

「朝鮮半島と我が国との長く豊かな交流の歴史を振り返るとき、昭和天皇が『今世紀の一時期において、両国の間に不幸な過去が存したことは誠に遺憾であり、再び繰り返されてはならない』と述べられたことを思い起こします。我が国によってもたらされたこの不幸な時期に、貴国の人々が味わわれた苦しみを思い、私は痛惜の念を禁じえません」 

盧泰愚大統領は次のように答えた。

「歴史は、真実が消されたり忘れ去られたりしてはなりません。しかし、いつまでも過去にしばられているわけにはいきません。正しい歴史認識に基づいて間違った過去を洗い流し、友好協力の新しい時代を開かなければなりません」

盧大統領は、口頭で天皇の韓国訪問を招請した。 

「真実に基づいた理解を」

525日、盧大統領は衆議院本会議場で演説をおこなった。日本の国会での演説は、韓国大統領としては初めてのことだった。ここでは、本稿のはじめの部分で紹介したように「母親から直接覚えた自分の国の言葉を使ったからといって先生に鞭打たれた」などと少年時代をしんみりと振り返りながら、次のようにも語りかけた。

青瓦台HP 国会で演説する盧泰愚大統領 1990年5月25日

 

 「過去の暗かった時代、私たちの民族が味わった、それ以上の大きな苦痛や試練、そのとてつもない悲劇についていま、ここで語る必要はありません。私たちは国を守ることができなかった自らを反省するのみで、過ぎ去ったことを反芻して誰かのせいにしたり恨んだりしようとは思いません。私が申し上げたいのは真実に基づいた両国民のしんからの理解であり、それを土台に明るい未来を開いていこうということです」

 「過ぎ去ったことは神であっても変えることはできません。歴史とは、今日の私たちが過去をどのように見、どう理解するかという問題です。いま、私たちのやりようによっては過去のくびきを断ち、その残滓を片付けることができるのだと思います。私たちみんなの勇気と努力が必要なだけなのです」

 韓国大統領記録館HPhttp://www.pa.go.kr/research/contents/speech/index.jsp 

盧大統領は526日、帰国。韓国民への報告で「日本がどんなに謝罪しても、それが不十分なものであり、暗い時代を忘れられないだろうが、日本側が過ちを率直に認め反省、謝罪した以上、我々はそれを広い心で寛大に受け入れ、善隣友好の新時代をつくっていかねばならない」と説いた。 

日韓閉塞

盧泰愚大統領のこの訪日から、もう30年余がたった。日韓関係は盧泰愚さんが思い描いたようには進んで来なかった。訪日翌年の91年、慰安婦問題が浮上。「天皇訪韓」はどこかに消え、過去清算問題は元徴用工などにも広がって、両国関係はいま、閉塞状態に陥っている。 

盧泰愚さんはソウルで長い闘病生活の末に今年10月26日、永眠した。日韓関係のその後の展開といまの状況は、盧泰愚さんの目にどう映り、その思いはいかようなものであったろうか。(おわり)

立命館大学コリア研究センター上席研究員 波佐場 清

*参考文献

趙世暎(姜喜代訳)『日韓外交史 対立と協力の50年』平凡社新書、2015