2023年7月27日木曜日

朝鮮戦争休戦70年――『林東源自叙伝』を読んで①/41年ぶりの妹

 少年は日本の植民地下、朝鮮半島の付け根、中国との国境を流れる鴨緑江沿いの山村に生まれた。国民学校(小学校)6年生の夏、日本の敗戦で解放されると同時に国は南北に分断された。北朝鮮に組み込まれた地域で高級中学校(高校)に通っていた19506月、朝鮮戦争が勃発。混乱のなか少年は家族らと別れ、独り避難民にまじって南の韓国に逃げて来た。 

身寄りのない少年は在韓米軍に下働きとして雇われ、苦学の末、陸軍士官学校に入って軍人になり、戦争とも平和ともつかぬ休戦の最前線などで北朝鮮軍と向き合った。やがて国際冷戦終結の波が朝鮮半島に及ぶなかで南北和解に身を投じることになる。いったん明るい展望が開けたかのようにも見えたが、いままた、断絶が深まり、平和は見通せない。 

韓国の元統一相、林東源(イムドンウォン)さん(90)のことである。金大中政権(19982003年)下、大統領の右腕として対北「太陽政策」を推進したことで知られる林さんは昨年10月、自ら歩んできた道を振り返る『林東源自叙伝』(原題『다시,평화 임동원자서전』)を出版した。https://www.youtube.com/watch?v=WWhrABGvC1w 

7月27日は朝鮮戦争休戦協定締結70年。朝鮮半島の人々にとってこの戦争、そして休戦体制とは何だったのか。平和体制をどうつくり上げて行ったらいいのか――。そんなことを考えながらこの書を読んだ。印象に残った一部を抄訳で紹介する。(立命館大学コリア研究センター上席研究員 波佐場 清) 

199010月、平壌

林東源さんが17歳で「越南」した後、再び北の地を踏んだのは41年後の199010月のことだった。国際冷戦の終結に伴い、南北間で高位級(首相)会談が開かれることが決まり、盧泰愚政権下の韓国で外交安保研究院長になっていた林さんはその南側代表団の一人になっていた。9月に第1回会談がソウルで開かれたのに続き、第2回会談が101718日の両日、平壌で開かれた。 

2日間の会談が終わった日の午後、南側代表団一行は錦繍山議事堂に金日成主席を表敬訪問。その夜、北側が設定した夕食会の行事に臨んだ。宿所に戻ると、午前零時が近かった。予期しない出来事が待っていた。 

<午前1時ごろ、ドアをたたく音がした。北と南の責任連絡官がいっしょに部屋に入ってきて「林先生、きょうだいたちと会ってみましょう。妹の林東淵と弟の林東振をここに連れてきました」と言うのだった。私は、わが方の代表は北にいる家族と会わないことになっている、と断ると「ほかの方々も会うのです。林先生だけそうおっしゃらずに、会ってみなさい」と言ってドアを開き、廊下の方に向かって手招きをした> 

南側連絡官の安企部職員も(南側代表団のメンバーで、北に家族関係者がいる)姜英勲首相と洪性澈統一院長官も家族との面談を始めたといい、会うようにと勧めた、という。 

14歳の女学生と、おばあさん

<ずいぶんと年取って見えるおばあさんと若い青年が私の前に立っていた。どう見ても2人が私のきょうだいなのか、見分けがつかなかった。妹の東淵は私より3歳年下で、弟の東振と最後に会ったのはまだ2歳の赤ん坊のときだった。東淵は私の記憶のなかでは14歳のかわいい女学生の顔だけが残っていた。あまりにも苦労が多かったせいなのかどうか、おばあさんの顔からはまったくその面影を見いだせなかった。東淵の方も41年ぶりに会う兄がほんとうにそうなのかどうか、面食らったようすだった> 

林東源さんは2人を座らせ、気持ちを落ち着かせてから確認にかかった。

<父母、姉妹の名前を聞き、わが家の建物の構造、庭のライラックの木や花々のことなど、思い出すままに聞いた。すべてを正確に答えた。妹に間違いないようだった。そんな時、急に47年前だろうか、東淵が小学校に入学した日の朝のことが思い出された> 

<その日の朝のことを覚えているかと聞くと、「兄さん、今もしっかりと覚えています。お父さんが私の誕生日を日本語で教えてくださり、復唱してみろ、と言うので私が「ジュウイチガツ トオカ(1110日)」というべきところを「ジュウイチガツ トッケビ」[「トッケビ」は朝鮮半島に伝わる「お化け」の意]と言ったものだから、兄さんは笑い転げて、からかったでしょう」と言うのだった> 

<私は妹を抱きしめ、ワーッと泣いた。あふれ出る涙が止まらなかった。妹も声を上げて泣いた。しばらく泣き合ったあと東淵は、母は朝鮮戦争の時に39歳の若さで亡くなり、父は医師として動員され、江界[北朝鮮慈江道の道都]の病院で激務のなか30年前に亡くなったと聞かせてくれた。子どもたちのために苦労ばかりで、親孝行一つしてもらえずに亡くなるとは……。全精魂と愛を尽くして育てた息子である私の生死も分からないまま、どれほど辛い日々を送って亡くなったことか。私は父母に孝行を尽くさなかった罪人なのだ> 

<私たちは涙の海から抜け出せなかった。わが民族の悲劇、分断と同族同士で殺し合った悲劇、そして離散家族の悲しみを私たち兄妹ですべて背負い込んでいるような気持になった> 

2週間前に問い合わせ

妹の東淵は江原道元山近くの田舎の病院に薬剤師として勤務し、弟の東振は同じ地方のセメント工場で10トントラックの運転手として働いていると言った。ほかの姉妹らもみな、元気で暮らしていると聞かせてくれた。妹と弟は、私が生きているなんてとても信じられなかったという。 

2週間ほど前に(当局から)「林東源という人を知っているか?」との問い合わせがあったが、その時も亡くなった人のことをいまごろどうして聞くのだろうか、と思ったという。そして1週間前、平壌に出頭しろとの指示を受けた。平壌に来てみると、南北会談のビデオを見せて兄さんに間違いないか、と確認を求められた。父にそっくりで生年月日も合っているし、宣川高級中学校に行っていたというものだから、兄に間違いないようだ、と答えたものの、信じられなかったという> 

■声高に政治宣伝

林東源さんは、南に来て韓国軍に入隊し、陸軍士官学校を卒業、陸軍将校として勤務し、将官として予備役編入後、外国で大使として勤務し、いまは外務省傘下の研究院長をしていることなど、その間の概略を話し、家族のことも話してやった。そして、どれほど苦労したのか、北での暮らしについて知ろうとした。 

<その時、賢明な妹は黙ったまま、文字を書く紙がほしいというものだから、1枚渡すと、「兄さん、私たち北のことについて良いように言ってください。言葉に注意してください」と書いて渡すのだった。私はすぐに、これは録音テープを持たされているのかもしれないと考えた。妹と弟のためにもここは用心深く話すことにした> 

<この時から政治宣伝が始まった。声高に「私たちは偉大な首領金日成主席のあたたかい懐のなかで、なにうらやむこともなく幸せに暮らしています」といい、平等な社会だとか、幸福に満ちあふれる社会だとかを、のべつまくなしに次々と並べ立てた。「早く統一しないといけない」「統一できないのは帝国主義者たちが南朝鮮を強制占領しているからだ」「ソウルに帰ったら、反米闘争を展開しろ」「国連に一つの議席で入ることに兄さんは先頭に立って反対しているそうだが、そんなことをしないで支持しろ」といった言葉が続いた> 

<私はただ黙って聞いてばかりいた。弟の東振が熱を上げるのを見ていると本ものの「アカ」[社会主義者、共産主義者や共産党のことを指す隠語]であるかのように思えた。2人は平壌に呼ばれて徹底した教育を受けたのだろう。こんなに惜しまれる時間をそんなことを言って無駄にするとは……。しかしそれも詮(せん)無いことだった。どうせ、言えということをすべて言ってしまわないといけないのだから>

■小型ラジオ、スカーフ、調味料…

林東源さんはカメラの自動シャッターを使って記念写真を撮った。そして、ソウルから持ってきた土産物の包みを出した。 

<実際のところ、北の代表と案内人にあげろと安企部が用意してくれたものだった。しかし妹はどうしても受け取ろうとしなかった。それで私は、これらは北の人たちにあげようと思って持ってきたもので、たいしたものではないのだと率直に言い、一つひとつ包みを解いて見せてやった> 

<小型ラジオ、ウォークマン、カセットテープ、シルクのスカーフ、ネクタイ、手袋、ティーシャツ、パンティ、アンダーシャツ、調味料、味付け海苔などだった。米貨千ドルも出した。このお金もやはり、安企部が準備してくれたものだった。説得のすえ、受け取ることになったものの、当局に納めると言うものだから、思った通りにしろ、と言ってあげた。どうせ、当局の許可なしには持てないのだろうから> 

いつの間にか午前2時半過ぎになっていた。別れる時が来たようだった。 

■「私たちは大丈夫です」

<妹は心配と愁いに満ちた表情だった。「兄さん、私たちは大丈夫だから安心してください。きのうの夜、テレビのニュースで敬愛する金日成主席におかれて兄さんたちと会ってくださり、南朝鮮の代表たちといっしょに記念写真を撮られる場面が出ていました。明日の労働新聞に金日成主席がいっしょに撮られた写真が大きく出ることでしょう。その写真を切り抜き、額縁に入れて掛けておいてずっと見ています。わが家の栄光です。もう大丈夫です」。このように自らを慰めるようにいう、その言葉が私を限りなく悲しませた> 

<いまとなっては、越南者、それもいわゆる「傀儡政府」の高官の家族に分類されることになったのだから、生き残った家族を苦しみに陥れるのだ、という罪責感が私を襲った。流れ出る涙を止めようがなかった> 

2時間ほどの再会を終え、外に出るとマイクロバスが待っていた。 

<「早く統一していっしょに暮らそう」「また、会える日までおたがい体に気をつけよう」。そう言って、再会の約束もできないあいさつを交わして別れた。部屋に戻るともう、3時になっていた。ベッドに横になったが、眠れなかった。亡くなった父母のことを思い、涙で夜を明かした> 

<翌朝、配られた民主朝鮮と労働新聞の1面に20×30センチの大きな写真が載っていた。金日成主席と姜英勲首相の間の後列に私が写っていた。この写真を切り抜いて額縁に入れて見る妹たちのことを考えながら宿所の百花園を発った> 

■姜英勲首相の辞任

会談を終えてソウルに帰るとすぐに、韓国代表団が北にいる家族と会ったことが、マスコミの厳しい非難にさらされた。1022日、東亜日報が「姜首相、平壌で妹に会う」との見出しの特ダネ記事を1面トップで報じると、各紙が競ってこれを追い、会談代表の道徳性を問題にした。 

姜英勲首相は「離散家族問題の解決もできないのに1人だけ北の家族と会ったことについて1千万離散家族に対し丁重に謝罪」するとし、「残務整理が終わったところで発表しようと考えていて遅れ、物議をかもしたのは遺憾である」と表明。結局、このことが姜首相の辞任に結びついていったのだった。

   

朝鮮半島のほぼ全域に戦火が及び、戦線が大きく動いた朝鮮戦争では多くの家族が散り散りになり、南北の離散家族は1千万人にのぼったともいわれる。20006月に初めて開かれた南北首脳(金大中-金正日)会談では南北離散家族の再会事業をおこなうことで合意。以来、188月までに計21回行われたが、192月の米朝首脳会談決裂後、朝鮮半島情勢が冷え込んだ影響ですでに5年近くおこなわれていない。 

関係者の高齢化が進んでおり、韓国の聯合ニュースによると、韓国側の離散家族再会申請者は235月末現在、計133680人を数えるが、うち70%近い92千余人がすでに亡くなった。再会事業が中断された後、この5年近くの間だけでも約16千人が死亡したとみられる、という。                    (つづく)

 

0 件のコメント:

コメントを投稿