■避難民暮らし
北朝鮮から「越南」して着いた韓国慶尚北道慶山郡の収容施設で新しい生活が始まった。
永川には米軍部隊が駐屯していた。米軍は缶詰食品や菓子のようなものを分けてくれ、部隊の鉄条網の周りは子供たちでごった返していた。チョコレートやガムを配られるたびに争いとなった。
51年10月初め、米軍部隊といっしょに釜山に移動した。臨時の首都だった。部隊は釜山駅近くの小学校に陣取り、そこでも米軍といっしょに起居することになった。それまでの戦場近くに比べると、別世界のようだった。米軍といっしょに教会にも通い始めた。
釜山の米軍部隊で食品倉庫管理係をいていたころ |
<休戦を話し合っているというが、うまくいくのだろうか? 休戦になると、故郷に戻られなくなるのではないか? 来年19歳になると軍隊に行かなければならないのではないか? 軍隊に入ったら将校になりたいが、果たしてなれるだろうか?>
■陸軍士官学校受験
大学入試を目標に勉強を始めた。昼間は食品倉庫で働き、時間さえあれば、勉強した。ラッキーにも、時間はたっぷりあった。
<英語は中学、高校の教科書6冊すべてを学んだ。夜間の英語講習所にも通った。北で習ったのとは大きく異なる国語、歴史、社会生活といった科目を重点的に自習した。数学や自然科学は北で習ったものの方がレベルが高いと感じた>
ニューヨーク出身の料理兵やボストン出身の上等兵らが私の英語の発音を直してくれ、励ましてくれた。
<お金がなくても大学教育を受けることができ、将校に任官されるとは、これこそ私にピッタリではないか、とひらめいた。どうせ軍に服務しなければならないのだ。試験を受けてみようと決めた>
陸士受験のことはだれにも言わず、準備に全力を尽くした。試験は第1次として各地区で学科試験があり、それに合格すると何カ月か後に第2次として大邱で身体検査や面接などの試験を受けることになっていた。
釜山で学科試験を受けたが、合格できなかったように思えた。
<受験者たちはみな、黒い学生服を着た現役生だった。試験を終えた後でささやく声に聞き耳を立てると、問題は全般に易しかったという。滅入るほかなかった。英語と数学はうまくいったようだったし、自然科学も大丈夫と思ったが、国語と社会生活は振るわなかったと思った>
いったん、諦めていたが、合格だった。「神の特別な恩寵に感謝する」という以外に言葉はかった。
■「韓国のウエストポイント」合格
翌53年3月、大邱の陸軍補充隊に集合して陸軍病院で身体検査と体力検定を受けた。それに合格したあと陸軍本部で、主に人物判定と英語を重視した面接試験を受けた。
<試験官が分厚い英語の原書を広げ、「声を出して読み、どういう意味か言ってみろ」という。私は一つの文章を声を出して読み、英国の産業革命について書かれたものだと答えると、試験官は「ワンダフル」とほめてくれた>
すべての試験を終えると、総合判定官は「合格」と判定し、祝ってくれた。あとで分かったことだが、この入試では250人の定数に対して4100人が学科試験を受け、16倍の競争率だった。
<私が陸士の試験に合格したことが知られると大きな話題となった。米軍では「オネスト ボーイが韓国のウエストポイント[米国の陸軍士官学校]に合格した」と、まるで自分のことのように喜び、先を争ってお祝いに来てくれた。部隊長も私を呼んで祝ってくれ、部隊の慶事だと喜んだ。韓国人従業員らも会う人ごとに祝ってくれ、誇らしげだった>
■「Good luck, Cadet Lim, Sir!」
2年間にわたってなじんだ米軍部隊を離れるのだと思うと万感が交差した。
<米軍の人たちへの感謝の気持ちでいっぱいだった。彼らの愛と助けがなかったら、どうして陸士に合格できただろうか。…もし米軍部隊にいなかったなら、私はすでに軍隊に入隊してどこかの高地で戦死していたかもしれない。世間の荒波にもまれ、暗礁に乗り上げていたかもしれない。この間の私の人生は神が恵んでくださった奇跡であり、祝福だというほかに言いようがなかった>
陸士に入学するため釜山・東莱の陸軍補充隊に集まった日、米軍が憲兵のパトロール・ジープでそこまで送ってくれた。
<料理兵のスタンリー上等兵が自ら同行を買って出た。彼は車から降りると本を差し出し、「これは米国で買った『This is America, My Country』という米国の歴史の本だ。米国について勉強するうえで役に立つと思う」と陸士入学記念のプレゼントをしてくれた。そして「Good luck, Cadet Lim, Sir!(林士官生徒殿 幸運を祈ります!)」と挙手敬礼で別れのあいさつをして去っていった。私は視界から消えるまで手を振り、感謝の涙を流した>
■韓国陸士第13期
1953年6月、林東源さんは当時、鎮海(慶尚南道)にあった陸軍士官学校に入学した。20歳が目前だった。韓国で4年制の陸軍士官学校が発足したのは52年1月で、林東源はその新制3期、通算では13期にあたった。
戦争は平沢―原州―三陟を結ぶラインから反撃に出た国連軍がソウルを奪還し、38度線一帯で戦線は膠着状態にあった。休戦を前に38度線沿いの地域で熾烈な高地争奪戦が続いていた。 波佐場 清
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