朝鮮半島に住む人々に「聖山」と崇められる白頭山(標高2744メートル)に源を発し、中朝の国境を画して西に流れ、黄海に注ぐ鴨緑江。その中流沿いの村、平安北道渭原[現在の北朝鮮慈江道渭原郡]が林東源さんの生まれ故郷だ。
薬局を営んでいた父はキリスト教会の長老として教会のために献身し、母も篤実なキリスト教徒だった。そんな両親のもと、1933年7月、2男6女の長男として生まれた。日本が朝鮮の植民地支配を固め、中国東北地方に「満州国」をつくって中国侵略を本格化させていった時期だった。
<幼いころから「常に学べ、休まずに祈れ、すべてに感謝しろ」という父の教えを受けて育った。私が生涯を通して神を畏れ、肯定的、楽天的な人生観をもつうえで大きな影響を受けた>
<子どものころ、夏には列を組んで鴨緑江を流れ下る木材の筏(いかだ)を眺めながら素っ裸で水浴をした。冬場には氷結した鴨緑江をスケートで満州側に渡って中国の焼き菓子を買い食いした。そんな日々が思い出される>
■「皇民化」教育、そして「唯物史観」
1940年、地元の小学校(翌年「国民学校」と名称変更)入学。日本は「紀元(皇紀)2600年」だといって大騒ぎし、朝鮮半島で創始改名が実施された年でもあった。学校では「皇民化」教育が本格化していた。
<学校で日本語の使用が強制され、朝鮮語ではなく、日本語で学ばなければならなかった。日本人の校長が毎日、朝礼の時間に朝鮮人児童に日本の天皇がいる東方に向かって深々と頭を下げる東方遥拝をおこなわせ、天皇に忠誠を誓う「皇国臣民の誓詞」を声高に叫ばせた。神社参拝も強要した。私たちは日本の歌を歌い、日本の歴史と神話を習い、天皇に絶対服従する日本国民に改造される教育を受けて育った>
45年8月、日本の敗戦で植民地からの解放を迎えたのは国民学校6年生のときだった。
<解放の興奮のなか、私たちの地方でも自治機構である建国準備委員会と自衛隊がすばやく組織された。父は渭原郡建国準備委員会の副委員長兼保健部長に推戴された。叔父も自衛隊隊長になって日本の警察署を引き継ぎ、軍服に似た服装に腕章を巻いて治安の維持にあたった>
<9月に入ると、私の町にもソ連の軍隊が進駐してきた。マイヨール(少佐)が指揮するタタール族出身のソ連軍人らが日本人を捜し出し、時計や万年筆などの貴重品を手当たり次第に奪うところを、私は何度か目撃した>
もちろん、学校教育も大きく変わった。
<解放になると、私たち小学生は1年間ほど集中的に私たちの言葉と文字を習った。小学校卒業が3月から7月に変更になり、私はその後46年9月、家から2キロほど離れた渭原中学校に入学した>
<海外から帰ってきた知識人や短期の中等教員養成所を出た人たちが教師として赴任した。小学校5年生のとき、日本人の先生以上に日本の天皇への忠誠を強調していた金先生が、こんどは早々と共産党員になり、中学校の歴史の先生になって戻ってきた。彼は自分もよくわからない唯物史観に基づいた歴史を教え、無条件で覚えるよう強要した>
<中学校で初めて学ぶ英語はとても楽しかった。しかし1学期が過ぎたころ、ソ連軍の下士官がロシア語の先生として入って来て、私たちは英語の代わりにロシア語を学ぶことになった。その下士官は朝鮮語を学び、通訳をしていた教師出身の軍人で、解放直後に駐屯した乱暴な軍人たちとは違う部類のロシア人だった。彼は「カチューシャ」をはじめ、いろいろなロシア民謡を教えてくれた>
■宣川の高校へ編入
中学1学年を終えると学制改変で3学年に進級した。小学校が5年制になり、1年ずつ学年が繰り上がったのだった。
<その年の冬、私は「最初の試練」に直面した。民主青年同盟(民青)が私の信仰生活に文句をつけたのだ。私を民青会の相互批判の場に立たせ、「非科学的でアヘンのような宗教を捨て、科学的な民青の隊列に加わることを約束せよ」と責めたてた>
<そんな時、父がいつも強調する言葉が思い浮かんだ。「神を畏れ、すべてに感謝し、何事にも忠実であれ」。神への背信はありえないことだが、だからといって民青から脱退処分を食らえば学校を退学させられる恐れがあり、それこそ進退窮まるという状況だった>
父は、そんな長男を故郷から遠く離れた宣川(平安北道)の学校へ送る計画を進めた。そこは鴨緑江河口付近の新義州から京義線に沿って60キロほど南に位置する町だった。朝鮮のキリスト教発祥の地として知られ、この地方の教育と文化の中心地だった。植民地時代にも4つの大きな教会と中等学校があった。
<冬休みを終えたあと、48年春の新学期から宣川高級中学校[高校に相当]の1年生に編入した。奇跡のようなことだった。複雑な手続きも踏まずに渭原から宣川に移ることができたばかりでなく、中3から高1に飛び級編入できたのだ。うまく勉強についていけるか、ということだけが問題だった>
宣川高級中学校は1906年の開校以来、聖職者や医師、教育者など多くの人材が輩出した歴史と伝統を誇る名門の後身校だった。
■統制強化
48年は国の分断が定着化した民族悲劇の年だった。4月、北での南北連席会議に南からも金九、金奎植氏らが参加/済州島民衆蜂起▽5月、南だけで国会議員選挙実施▽8月、大韓民国樹立宣布▽9月、朝鮮民主主義人民共和国樹立。
<北では5月初めから太極旗の代わりに「人共(人民共和国)旗」が掲げられた。そこでは愛国歌に代えて「〽朝は輝け…」で始まる新しい国歌が歌われた>
<その年秋のある日のことだった。朝の体操の時間に学校の寄宿舎に政治保衛部員が不意に押し入り、民青委員長ら民青幹部を逮捕していく事件が起きた。ソウルの組織と連携して反共活動をしたことが発覚したのだといわれた。噂によると、彼らは裁判も受けないまま阿吾地炭鉱(咸鏡北道)に引っ張っていかれたという。反共傾向のある学生指導者らが1人、2人と除かれていった>
<宣川に対する集中統制が強まった。咸鏡道訛(なまり)の者たちが党と行政機関を握り、統制を強め始めた。私たちの学校では外部から転入してきた、学生らしくない学生が民青幹部になり、監視と教養事業を強化し始めた>
49年になると人民軍将校が高校に配属され、軍事訓練が始まった。
<私たちの学校にも2人の人民軍少尉が来た。私たちのクラスは毎週水曜の午後、4時間ずつ訓練を受けた。木銃を持ち、分隊攻撃、小隊攻撃などといった攻撃訓練だった。中隊攻撃訓練をするときは全学年がいっしょになり、野山に出かけた。その行き帰りには玉の汗を流しながら「スターリン大元帥の歌」や「金日成将軍の歌」を歌い、駆け足で移動した>
<民青の(労働新聞を読み合う)「読報会」や教養事業の時間には、太白山脈や小白山脈一帯の人民遊撃隊活動など「南朝鮮人民の祖国統一に向けた英雄的な武装闘争」が集中的に注入され、それに対する支援と祖国統一の決意が求められた>
■朝鮮戦争勃発
49年の冬休みの帰郷が父母との最後の別れになるとは夢にも思わなかった。
<休みが終わって家を発つ前夜、母はとっておきのカレーの缶を開け、鶏肉のカレーライスをつくってくれた。物資が貴重ななかでこのようなご馳走をいただくのはなかなか期待しがたいことだった。この夕食が全家族そろっての最後の晩餐となった。私はその後、カレーライスを食べる度に母のことが思い出され、涙を抑え切れなかった>
50年6月、1カ月にわたる高校の卒業試験が一段落したところで朝鮮戦争が勃発した。
<(戦争が勃発した)6月25日、日曜の朝、目を覚ましてみると、外から尋常でない拡声器放送の声が聞こえてきた。耳を疑い、急いで外に出てみると、同じ内容を繰り返していた。「本日明け方、南朝鮮軍が共和国に対する全面的な武力侵攻を行った。これに対して人民軍最高司令官は『撃退せよ』との命令を下した」>
<寄宿舎のあちこちから戦争が起きたのではないかとのささやきが聞こえてきた。私は急いで食堂へ走った。戦争が起きたようだとの話でもちきりだった。「何日か前、毛布で窓を覆い、軍人や大砲を載せた列車が大挙、連続して南の方へ移動していた」「最近、人民軍配属将校が急に姿を消したことも関連があるようだ」「これはこれまでの38度線の衝突事件とは違う。大規模な戦争が起きたようだ」>
<すぐに動員令が出された。人民軍に徴集される生徒が増え、ひそかに身を隠す者も増えていた。卒業式に出ようという気にもなれなかった。私は親友の家に身を寄せていた。しばらくしてから、混乱に乗じ、汽車で平壌の母の実家へ行った。そこで様子を見守ることにした>
■「越南」
北朝鮮軍は奇襲南侵から4日でソウルを占領。さらに南進を続けたが、米国主導の国連軍の介入で8月初めに洛東江防衛線で攻勢は止まり、9月中旬、国連軍の仁川上陸作戦で敗退し始めた。韓国軍と国連軍は10月初め、38度線を突破して北進を始めた。10月20日、平壌を席捲。10月末、西部戦線で清川江ラインを、東部戦線では清津以南の咸鏡道地域の大部分を確保した。
しかし、「38度線を越えるなら座視しない」と警告していた中国軍の介入で、国連軍の進撃は止まり、11月初めから撤収し始めた。中国軍の総攻勢で12月5日からは平壌からも退き始め、12月末にはソウルが再び脅かされ始めた。
<平壌からの撤収が始まると、私は従兄といっしょに避難民にまじって南に向かった。貨物列車便で沙里院を通り、歩いたりしながら死線を越え、ソウルの鷺梁津に着いた。12月中旬のことだった。何日か後、再び南下する貨物列車に乗り込んだ。ある田舎の駅に着くと、警察が大勢の人たちを降ろさせた。私もそこで降りた。従兄の姿は見えなくなっていた>
そこから歩いて着いたところが慶尚北道慶山郡慈仁面の果樹園にあった収容施設だった。
(つづく) 波佐場 清
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