■「聖堂はデモ隊の聖域なのか」
1982年3月18日、全斗煥政権に衝撃を与えた釜山の米文化センター放火事件が起きる。白昼の午後3時、若い男女3人が文化センターの建物の中に入って引火物質をまき、火を放った。
「米国が問題なのだ。絶えず、反米闘争を展開しよう」
現場に散らばっていたビラの見出しである。火は1時間ほどで消えたが、大学生1人が死亡、3人が重軽傷を負った。在韓米大使館が憂慮していた通り、全斗煥にたいする反発と憎悪の火の粉は、その「庇護勢力」である米国(文化センター)へ飛び火した。
▽政府VSカトリック
3月30日、高神大生の李美淑が捕まり、同大学の文富軾、金恩淑が公開手配された。文と金は江原道で、咸世雄神父に付き添われて自首した。そして放火事件を背後で操っていた、「5・18光州抗争」で指名手配中の金鉉奨という人物が原州(江原道)のカトリック聖堂で検挙された。これによって事件は、政府とカトリックの衝突という様相を帯びていった。
80年5月末に光州を抜け出た金鉉奨は、原州の崔基植神父のもとを訪ねて行き、そこで2年ほど潜んでいて釜山の大学生たちと接触したのだった。
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| 検察に呼ばれ、記者たちの質問に答える崔基植神父(右下〇印)=1982年4月1日 |
鉄拳統治下にあったそのころ、カトリック教会は手配者が身を隠すにあたっての聖地だった。
▽手配者と記者
80年の「ソウルの春」の後、逃亡した高麗大生の朴啓東(のちに国会議員)も大邱のカトリック系障害者収容施設「希望院」に潜んでいた。東亜日報記者の金忠植は81年5月、マザー・テレサが訪韓した際に訪れた「希望院」へ同行取材し、そこで、かねて知り合いの間柄だった朴啓東と鉢合わせをした。
朴啓東は、外来客の目を避けるようにうつむいたまま、ほうきで庭を掃いていた。金記者はそれに気づき、2人は便所の中で息を殺しながら近況を話し合った。別れ際、朴は名刺を1枚ほしいといい、金記者はそれを渡して握手を交わし合った。その際、朴啓東は、時どきソウルへも行き来していると言っていたのだが、その後、何の連絡もなかった
そんなとき、意外にも電話は治安本部の情報課長(朱炳徳総警[警視正クラス])からかかって来た。真相はこうだった――。
朴啓東は、日本に密航しようと全羅南道・高興の海岸に船を準備していたところを安企部に見つかった。朴自身は逮捕直前に逃げたが、密航船に残された荷物の風呂敷包みの中から記者たちの名刺が出てきた。金忠植記者は、安企部の指揮を受ける治安本部で一部始終を説明しなければならなかった(朴啓東は、のちに逮捕された)。[金忠植氏は本書の著者。朴啓東とは高麗大学の同窓で、金は1年後輩だった。当時、学生運動の拠点となった高麗大の政治外交学科で学んでいた朴は、有名な活動家だった。一方の金は哲学科の文学青年で、互いに顔見知りだった。マザー・テレサの取材で偶然知った朴の施設潜伏は特ダネだったが、金記者は記事にせず、朴を守ったのだった]
▽隠蔽された光州の放火事件
実際のところ、1980年代の反米運動の序幕は、光州で切って落とされていた。
釜山の米文化センター放火事件の1年余り前、光州の米文化センターが放火されていたのだが、ひた隠しにされていた。その事件というのはこうだ。
1980年12月9日午後9時半ごろのことだった。カトリック農民会の林鍾洙らが闇に紛れて、瓦ぶき平屋の光州米文化センターの屋根に上がった。瓦を剥がして油を注ぎ、そこに火の付いた紙を投げ込んだのである。林らは、風のように姿を消した。
「5・18光州抗争の精神はまだ生きているのだ、ということを示してやりたかった。しかし、何をやるにも、まったく能力不足ということがあり、少人数でやれることを探さなければならなかった。結論として得たのは、5・18の黒幕である米国を糾弾しよう、ということだった。簡単にできて、人目を引く――そんな対象として、警備が手薄な米文化センターを狙うアイデアが採用された」(林鍾洙)
全斗煥政権はこれをなかったものとして隠し、そのまま時が流れ過ぎていた。
▽反米闘争
民主化を求める反体制の活動家たちは、本丸である第5共和国の鉄拳統治の壁が強固な「鉄の要塞」に変わると、窮余の策としてその外郭(米国)を攻め始めたのである。しかし当局もメディアも、まさかこれが「5・18」への憤りからくる「背信者・米国」を狙った放火事件だとは確信を持てずにいた。「漏電による火災」と報道された。さらに言えば、放火した林鍾洙が警察に引き立てられて現場検証に立ち会った際も、文化センターの職員たちでさえ、そこで何がおこなわれているのか、よく分からないでいた。それほど無関心だった。そうこうしているうちに林鍾洙が密かにまた、別の農民大会を開こうと企てていることが分かり、捕まった。そこで初めて、根っこに反米の闘争があることが分かったのである。
▽「聖堂は治外法権地域ではない」
そんな光州の放火とは違い、釜山の文化センター事件のほうは死傷者が出ていた。
1982年4月5日、カトリック原州教区の崔基植神父が逮捕された。
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| 逮捕された崔基植神父=82年4月 |
80年5月に指名手配され、2年近く身を潜めながら放火事件を背後で操った金鉉奨を匿った犯人蔵匿・隠避の容疑だった。カトリックは「たとえ犯罪の容疑者であっても、聖堂に救いを求めて来たのなら、教会法に従って助けてやるべきだ。それが司祭の義務だ」と対抗した。
「天主教(カトリック)正義実現司祭団」が声明を出し、各教区からも崔神父の拘束に抗議する声明が相次いだ。全斗煥政権とカトリックの全面戦争の様相となったのである。
全大統領は激怒した。
「聖堂は決して、治外法権地域でも、聖域でもない」
82年4月14日、青瓦台では全斗煥大統領主宰の非常対策会議が開かれた。秘書室長の李範錫、政務首席秘書官の許和平、司正首席秘書官の許三守、民情首席秘書官の李鶴捧、そして秘書官の朴哲彦が出席した、その席で全大統領はそう断言したのである。大統領のそんな指針に従い、安企部、文化公報部(宗教担当)とも話し合って青瓦台が総合対策を立てることになった(朴哲彦の証言)。
▽キリスト教界が声明
翌4月15日、韓国教会社会宣教協議会[社会運動に取り組むキリスト教(主にプロテスタント進歩派)関係の諸団体が結集した連合体。1976年結成。あとで出てくる都市産業宣教会(都産)は、その傘下にあって現場で労働運動を担った]に所属する牧師ら42人が声明を出した。そこでは「放火事件は反米感情の具体的な現れだ。米政府は駐韓大使と駐韓米軍司令官を本国に召還せよ」と求めていた。光州抗争をめぐる軍の弾圧についての米国の容認、駐韓米軍司令官ジョン・ウィッカムと駐韓米大使リチャード・ウォーカーによる韓国人蔑視発言、韓米間の不平等な関係――といったことが放火事件の背景にある、と指摘していた。
「韓国人は野ネズミのようなもので、だれが指導者になっても従うだろう。体質的に民主主義は合わない」(ウィッカム司令官)
「韓国民は民主主義を享受する資格がない。分別のない子どもたちが危険なナショナリズムごっこをしている」(ウォーカー大使)
このような屈辱的な言辞にたいする韓国社会の反発は強かった。
野党や3金(金大中、金泳三、金鍾泌)は政権によって捕縛され、死んだように静まり返っていても、キリスト教界は「教会法」と「良心法」を盾に政権に立ち向かっていった。1988年のオリンピック、86年のアジア競技大会という巨大な国策の課題を前に、ローマ教皇庁や国際世論に真っ向から立ち向かうのは賢明であろうはずがない。
このキリスト教界挙げての声明の背後には池学淳司教、朴炯圭牧師(共に韓国教会社会宣教協議会顧問)、金勝勲神父(同協議会会長)らがいた。
▽「政治的な宗教者は、革命家だ」
82年4月18日、全斗煥大統領はまた、対策会議を開いた。
この日は、安企部長の兪学聖、同次長の玄鴻柱、治安本部長の安応模、文化公報部次長の許文道らも会議に出た。全大統領は「左傾化した宗教勢力の跋扈は食い止めなければならない」と、こう説いた。
「(韓国教会社会宣教協議会傘下の)都市産業宣教会(都産)に関しては、ワシが保安司令官だった1979年8月、朴正煕大統領の指示を受けてその実態をつかみ、報告を上げたことがある。そのころ、検察のほうでも大統領の指示で都産について調べたが、理論武装がうまくいかず、正体を突き止めることができなかった。それで、朴大統領は情報部長の金載圭を厳しく叱責したのだ。しかしこんどこそ、都産の正体を解明できる、いいチャンスだ。問題の宗教者たちは政治的な宗教者であり、革命家たちなのだ。解放神学をうんぬんし、教会法を口にするなど、とんでもないことだ。国法で処断すべきだ」(朴哲彦の証言)
[当時の韓国では高度経済成長下、労働者、とくに若い女性たちが長時間労働、低賃金など過酷な環境に置かれていた。都産の若い牧師や活動家たちは工場地帯に入り込み、夜間学校を開いて労働法を教えるなどの活動をおこなった。1979年8月、女子工員たちが立ち上がって悲惨な結果(1人死去)を招いたソウルの「YH貿易事件」もそんな中で起きた。この事件は同年10月の金載圭による朴正煕暗殺事件につながったともいわれる。都産は、政権からは「共産主義の温床」とみられていた]
▽光州抗争焚き付けを警戒
全斗煥大統領の剣幕に出席者はみな、硬い表情で会議室を出た。
しかし、初めのうちこそ強硬な態度をとったものの、時間が経つにつれ、宗教者たちは全員、釈放するほかなかった。放火事件の根っこにあった光州抗争の問題に、再び火を焚きつけることになるからであった(『金大中自伝』)。
訳:波佐場 清


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