2026年9月20日日曜日

金忠植『5共 南山の部長たち』/韓国民主化40年(59)

  第8章 「2許」沈み、張世東・盧信永が浮上

 518光州」1周年

 光州抗争1周年のころ、「国風81」なるフェスティバルがソウルの汝矣島を埋め尽くした。

「国風81」で繰り出した伝統の「チャジョンノリ(차전놀이)」
19815月、汝矣島広場
 新軍部の許文道が先頭に立ち、御用メディアや広報手段、さらには文化・芸術界の関係者を総動員してつくり上げたこの出し物には1千万人もが詰めかけた。

 当時、民正党の事務総長(幹事長)だった権正達の回顧――。

 「あの時、許文道は『国風』なるものをつくって政権の宣伝に熱を上げ、KBS(韓国放送公社)、MBC(文化放送)という2大放送局の社長(李元洪、李振羲)の忠誠競争に火をつけた。両放送局の競争が過熱するなか、イベントは一定の成果を収めたものの、一方で(予算の無駄遣いだという)悪評も買った」(20131118日付『日曜ソウル』紙インタビュー)

 ▽「国風81

 「国風」は、1981528日から5日間、汝矣島広場で開かれた。韓国新聞協会が主催し、KBSが主管した大がかりな芸術祭であり、全斗煥政権による官製のイベントだった。

 光州抗争1周年が近づくにつれて反政府的な追慕集会やデモの機運が高まるのに先手を打っておく必要があった。国民の目を他に逸らさせるには、それなりのイベントが必要だった。許文道が日本滞在中に見た「まつり」にヒントを得たのだった。

 1970年代後半から大学街ではマダン劇や仮面劇、プンムル(農楽)が流行し、そこで打ち鳴らされるケンガリ(小鉦)やチン(銅鑼)といった楽器は、たいがいの場合、反政府の「抵抗の道具」とみなされていた。80年代初頭になると、それらは、全斗煥の軍事独裁に抗う民族主義や社会主義的な知的風潮ともあいまって、「民族民衆の芸術」を掲げた「反権力運動の文化」として定着していく。

 ▽詩人の金芝河らを懐柔

 許文道は、そんな風潮を象徴する人物だった金芝河[「五賊」などの作品で知られる抵抗詩人]や金敏基[抵抗歌「朝露」の作者]、林珍澤[「マダン劇の父」といわれるパンソリ歌手]らを全員「国風81」に参加させて威勢を示そうとした。林珍澤を青瓦台に直接呼んで懐柔したりもした。また、原州(江原道)に住んでいた金芝河に会うために1980年の暮れごろから、酒瓶を手にわざわざ、そこにまで足を運んだりもした。

 そのころ、許文道は筆者らと夕食を共にし、一杯入った席で、こんなことを言ったりもしていた。

 「原州に行って金芝河と会い、ソウルに帰って来る途中、高速道路沿い一帯に大雪が降っていたことがあった。限りなく降り積もる雪で白一色に覆われた世界――。ああ、あの雪原の中で横になっていたい、と思ったもんだよ」

 許文道は独り、自己陶酔に陥り、じっと目をつむりながら、そう言った。そんなかれのことをロマンチストだという者もいた。

 ▽「5共のラッパ吹き」

 許文道と共に第5共和国の「ラッパ吹き」を自任していたのが、それぞれKBSMBCの社長になった李元洪と李振羲だった。

 権正達の回顧――

 「(MBC社長となった)李振羲は、釜山の高校(東莱高校)を出ていて(同郷の)許三守と親しく、1980年初め、ソウル新聞の主筆として第5共和国の正当性についてコラムを書いたりしていた。それを読んだ新軍部の内部で、かれをMBC・京郷新聞グループの社長にしようということが話し合われた。そこで、わたしの事務所にかれを呼んで会った後、全斗煥・保安司令官に会わせてやったんだ。李振羲は小柄で、顔色も浅黒く、最初の印象はこれといって良いものではなかった。それで、果たして困難な仕事をやり遂げられるのだろうか、と心配もした。しかし、よく見るに、自己主張がはっきりしていて所信を持っているようだったし、声もよく通り、仕事をしっかりとやってくれそうに思えた。それで、全司令官に『ポストさえ与えれば、ちゃんとやってのけるだけの人物』と紹介し、直接会ってみるよう進言した。全司令官は李振羲と会った後、『いい』と言い、MBC・京郷新聞の社長に任命した」

 ▽「新時代の新指導者」

 807月、李振羲は、更迭された李桓儀社長の後を継いだ。

 翌8月になって全斗煥が大統領に就任することがはっきりしてくると、李振羲はメディアの社長として、やる気に燃え、いきなり保安司令部に全斗煥司令官を訪ねていって直接インタビューしたいと申し出た。

新しい時代、新しい波、新しい歴史――これが李振羲のキャッチフレーズだった。

「全斗煥司令官が出勤するのを待ち構えていたので、保安司令部に入って行きながらインタビューに応じるというかたちになった。その時はまだ、全司令官にとって新聞や放送は初めてということもあり、ちょっと野暮ったく、横に問答集のようなものを用意するなど、ぎこちなく見えた。しかし、それが京郷新聞の1面全面とMBCで大々的に報道され、『新しい時代における新しい指導者の登場』を国民に宣伝するうえで効果が大きかったと記憶している。これには、裏で許文道秘書室長が関わっていたと聞いている」(権正達の回顧)

▽忠誠競争

KBS社長となった)李元洪の場合も、忠誠心においては似たりよったりだった。

韓国日報記者の出身で、1974年から駐日広報館長兼文化院長として東京に赴任していた。帰国後、朴正煕大統領の暗殺をへて崔圭夏大統領のときに青瓦台で民情首席秘書官として勤務した。それ以来、保安司令部の権正達処長との縁ができ、とくに国保委(国家保衛非常対策委員会)を立ち上げるさいには、大統領令発布の手続きに関する問題で、法律秘書官の金有厚も交え、3人でしょっちゅう会っていた。権正達の証言――

「李元洪がKBSの社長になったのは、わたしが冗談半分でかれに『青瓦台にいるよりも野戦軍の司令官(KBS社長)を一度やってみるのはどうか』と持ちかけたのがきっかけだった。かれは、目を輝かせ、乗り気なようだったので、翌日、全斗煥司令官との面談の場を設けてやったんだ。李元洪も、KBS社長(19807月、崔世卿の後任として就任した)になると、意欲的に仕事に取り組んだ。必然の成り行きとして、MBCの李振羲社長との間で激しい忠誠競争となり、2人の間は悪くなっていった」

▽「テン・チョン・ニュース」

権正達の証言は続く。

「李元洪社長は放送局の生ぬるい空気に緊張感を吹き込む一方で、大統領の広報を強化していった。夜9時のニュースは必ず全斗煥に関するもので飾り、『テン・チョン(땡전)ニュース』という言葉も生まれた[全斗煥大統領の動向が必ずトップニュースで扱われ、「テン(チン)」という9時の時報とともに、「全(チョン)斗煥大統領は」というアナウンサーの発声でニュースが始まったことから、こう皮肉られた]

李振羲と李元洪は、ともに文化公報部長官を務め、許文道も同次官を歴任した。この3人は、正当性も人気もまったくない第5共和国のトップランナーにしゃしゃり出た挙句に結局のところ、浴びるほどの罵声を受ける、という憐れな「ラッパ吹き」たちだったのである。

                       訳:波佐場 清

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