2026年7月29日水曜日

金忠植『5共 南山の部長たち』/韓国民主化40年(44)

  弟は北のスパイ…

 世の中をかき回す天下の許和平にも隠しておきたい過去があった。

 保安司令部の大尉の時代(1968年)に、危うく軍服を脱がされそうになっていたのである。

 スパイの弟、許和南(2017年に死去)のせいだった。

 ▽日本に密航、平壌から南派

 貧困にあえいでいた時代、弟は19672月、日本に密航した。同年8月、北朝鮮の平壌に潜入し、完全隔離の特殊教育を受けた。そして同年11月、韓国の慶尚北道迎日郡長沙面[現在の浦項市]に南派されたが逮捕され、無期懲役囚(国家保安法違反)となった。

 弟の和南は、兄の和平が青瓦台とこの世を思いのままにしていた1982年末まで大邱刑務所に無期囚として収監されていたが、全斗煥大統領の配慮で釈放された。仮釈放で保護観察者となり、5年ほどして8711月、その保護観察も解かれた。その後は浦項製鉄(1992年入社、のちに浦項コイル常務)や三星(サムスン)グループなどの大企業でサラリーマンをしていたが、2017年に病死した。兄の和平は弟の早世について「拷問の後遺症」と記録している。

 ▽許和平を救った金載圭

 弟の事件は、許和平にとって人生最大の危機だった。

 許和平は、悪名高い西氷庫の拷問室で対共捜査官から調べを受けた。普通の場合、このような「身元特異者」は、軍隊では生き残ることはできない。それも、他ならぬ保安司令部に所属する人間ではないか。

 しかし、この時の保安司令官が、まさに金載圭[のちに中央情報部長、朴正煕大統領を暗殺]その人だった。快く、救ってくれた。

 金載圭を説得したのは、ハナ会先輩の全斗煥や盧泰愚をはじめ陸士11期の権翊鉉、金復東らだった。同郷の先輩たちが「優秀な許和平は思想的になんの問題もなく、まじめに服務している」とかばってやったのだった。

 そんな特別扱いに保安司令部の第506部隊[ソウル地区でのスパイ摘発(対共捜査)や軍内部の不純分子の監視・治安維持を担当]の捜査官らは「スパイを匿(かくま)っていた者を助けてやる保安司令部など、これからどうやってスパイを捕まえるというのか。大変なことになった」と嘆いたという(元保安司令部将校・金忠立の証言)

 新聞の1面トップにも値するこのスキャンダルは、全斗煥政権が終わるまで闇に伏されていた。1993年になって許和南に関する刑事記録そのものが完全に隠滅されていた事実が明らかになり、検察が捜査に乗り出すことにもなったのだった。

 ▽金載圭を逮捕した許和平

 金載圭が助けてやった許和平は、保安司令部の将校として破竹の勢いで昇進していく。

 そんな許和平大佐が、全斗煥保安司令官のもとで秘書室長をしていた時に起きたのが1979年の「1026事件」[金載圭による朴正煕大統領暗殺]だった。事件当日の深夜、許和平はかつて自分を救ってくれた金載圭を逮捕することになる。金載圭を捕まえ、西氷庫へ連行する実行チーム(対共捜査官の申東基ら)を指揮した人物こそ、まさに許和平だったのである。

 ▽5共の設計者

 許和平は1980年春、金載圭の死刑判決から執行に至る全過程を合同捜査本部長(保安司令官)としてリードした全斗煥の右腕となり、そのまま第5共和国の設計者となっていく。歴史の凄まじいばかりのアイロニーである。

 そんな許和平だったが、スパイだった弟のせいで、5共の公安検事たちから疑いの目を向けられていた。

 80年下半期の憲法改定にあたって許和平が「連座制の禁止」を強く主張したため、「思想が疑わしい」との非難を浴びたのである。連座制は「親族の罪に絡んで刑事責任を負わされる制度」で、スパイ罪にあっては、その家族や親戚らが大きな不利益を被ることを意味していた。

 それまでの憲法には連座制に関する何らの規定もなかった。

 それで公安勢力は、連座制を禁ずる憲法の条文にアレルギー反応を示した。彼らは「スパイの弟(許和南)のせいで苦労した許和平のことだから、やっぱり」と囁(ささや)き合った。

 しかし、青瓦台の実力者である許和平は、そのまま押し切った。論理は、堂々たるものだった。

 「王朝時代に3族とか9族とかを滅ぼし処罰した、そんな反文明的な連座制を廃止してこそ先進国になれる。連座制は野蛮な悪法だ。そんな連座制をなくすには、法律をつくるだけではだめだ。それだと、政権が代わるとまた、復活させられる恐れがある。この際、憲法でしっかりとクギを刺しておく必要がある」

 ▽連座制廃止

 公安部門からは、こうした危険な(?)やり口に、白い目が向けられた。

 そうでなくても、彼らの間には、許和平のような者がどうして青瓦台に勤務できるのか、という雰囲気があった、と朴哲彦は記録している。

 それでも、国会の憲法改正特別委員会ぐらいは、許和平の手中にあり、思いのままだった。許は、自らの意志を貫いた。

 「すべての国民は、自己の行為ではない、親族の行為によって不利益な処遇を受けることはない」(第5共和国憲法第133項)

それまで、スパイや思想犯の家族、または親族であることが身元照会で分かると、キャリア官僚に任命されなかったり、海外旅行に行こうにも出国が制限されたりしていた。そうした慣行にブレーキがかかったのである。警句が一つ――。

正義は、常に弱者から生まれる。それが歴史というものだ。強者からは同情や寛容、配慮は生まれても、正義は生まれてこない。

許和平は、スパイの弟のせいで西氷庫に連行され、すんでのところで奈落の底に突き落とされそうになった。そんな凄絶、悲惨な弱者としての経験のなかから、連座制の撤廃という正義が憲法において実現したのであろうか――。

▽民正党の結党と官制野党

 明けて翌1981115日には、権正達と李鍾賛が半年間にわたり息をひそめるようにして水面下で構築してきた民主正義党(民正党)が、新党結党という形でその顔を現す。戒厳令解除の発表に続く措置だった。この民正党結党の発表のあと、「第2中隊」「第3中隊」と呼ばれた官制野党の民韓党、国民党、民社党、民権党が次つぎと頭をもたげてきたのである。

1981115日、新党民正党の結党大会が開かれた

  115日 民主正義党結党(総裁 全斗煥)

   17日 民主韓国党結党(総裁 柳致松)

   20日 民主社会党結党(党首 高貞勲)

   23日 韓国国民党結党(総裁 金鍾哲)

 

これらは、まるで軍隊で中隊別の点呼にでも応じるかのように、一糸乱れぬかたちで旗掲げをしていった。

見せかけではあったが、政治の季節が甦っていた。

▽訪米、レーガンとの会談へ

1981年1月21日(現地時間120日)、ロナルド・レーガンが米国の第40代大統領に就任し、翌122日未明、米韓両国は全斗煥の訪米を正式に発表する。全斗煥がレーガン大統領と会談する写真を撮り、米国の公認を得ようというのである。

                      訳:波佐場 清

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