■金鍾泌の「5・16」と同じ手口
全斗煥らの国保委(国家保衛非常対策委員会)は、朴正煕らが「5・16クーデター」で設けた「国家再建最高会議」のコピーにすぎない――在韓米軍のウィッカム司令官はすでに1980年2月の時点で、そのことを見抜いていた。ウィッカムは80年2月16日、全斗煥との正式な面会を許した。
「12・12軍事反乱」から2カ月余を経て、初めて設定された面談だった。その間ずっと米CIA韓国支部長のブリュースターから全斗煥と会うよう勧められていたのだが、反乱に不快感を示してやろうと、わざと会うのを引き延ばしてきていた。
▽既視感
ウィッカムは、全斗煥と会うのに先立ち、1961年の「5・16」直後に金鍾泌が駐韓米軍司令官のカーター・マグルーダーと面談した際の対話録を読んでいた。参考資料として補佐官らが持って来たのだった。
目がくらむほどの、驚くべきデジャヴ(既視感)――。
記録を読めば読むほど、ウィッカムは、自分が知らない時代のことなのに、まるでタイムマシンに乗ってその時代に飛び、自らがマグルーダーとなってそこにいるかのような錯覚に陥った(『ウィッカム回顧録』)。記録は以下のようなものだった。
――金鍾泌は、米第8軍司令官の承認なしに韓国の兵力(3600人)を移動させて指揮統制系統を乱したことについて、マグルーダーに丁重に謝った。金鍾泌はまた、クーデターを主導した者たちには、「政治的な目的」など、まったくないことを強調した。クーデター軍は、より有能な将官たちが昇進する機会を阻んでいる、古くて腐敗した軍の参謀陣を追い出し、さらには、国民に何の恩恵も与えられない無能で腐敗した政府の「浄化」を断行するのだ、と弁明した。
「直ちに原隊に復帰します」
金鍾泌はマグルーダーに、軍部は限定された目的さえ達成すれば、即刻、軍に戻ると確約した。「わたしを信じてください」と金鍾泌は言った。
この記録を読んでいたウィッカムは「マグルーダーの記録を日付さえ20年後に変えれば、そのまま、わたしと全斗煥の対話録になる」と思った(同回顧録)。
▽「10・26」直後から研究
かつての詐欺の手口に、米国はまたしても、みすみすやられてしまうのか。かといって、ほかに何かやりようがあるとでもいうのか。ウィッカムはあきれ果ててしまうばかりだった。
全斗煥はそれほどまでに徹底して「5・16」のことを頭に入れてウィッカムに向き合っていた。
保安司令部捜査第1局長の白東林は「許和平、許三守、李鶴捧は、79年の10・26の捜査の時から5・16や海外のクーデターに関する資料を持ち歩いてクーデターのことを研究していた」と証言している(1995年の検察調書)。79年当時、保安司令部の課長だった韓鏞源も「保安司令部は、10・26の直後から合同捜査本部の仕事(戒厳の業務)に没頭する一方で、5・16を研究して新軍部政権を樹立していった」と記録している(『韓鏞源回顧録』)。
▽丸ごと盗用
金鍾泌もまた、「全斗煥は10・26の直後から、保安司令部の中心的な参謀ら(許和平、許三守、李鶴捧)にたいして5・16を研究するよう指示していたということを、あとになって知った」と証言録のなかで語っている(『金鍾泌証言録』)。
米国大使や米軍司令官への言いつくろい、原隊に復帰するという約束、国保委のような革命機関づくり……。このほかにも、20年近く前の手口をそのまま真似たものが多かった。
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「5・16クーデター」(1961年) |
「10・26」後(1979年) |
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李丁載や林和秀ら暴力団の掃討 |
三清教育隊 |
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旧政治家活動規制法 |
政治風土刷新法 |
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中央情報部と共和党を事前に組織 |
国保委新設と、秘密裏の新党結成 |
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腐敗した幹部公職者らの財産没収 |
金鍾泌、李厚洛らの財産没収 |
すべてが、許和平、許三守、李鶴捧(3人は、いずれも「ハナ会」のメンバー)に権正達(非「ハナ会」)を加えた4人組が「5・16」の手口を丸ごと真似たものだった。かれらは金鍾泌先輩の「知的財産権」までも無視し、そっくりそのまま丸写しで盗用したのだった。
許和平は第5共和国の企画者として4人組をリードし、政権奪取を狙うやり方やスピードの管理を受け持った。許三守は世論の見極めや連絡役を担った。李鶴捧は、金載圭や金大中の捜査を指揮し、「(朴正煕大統領暗殺という)不幸な過去の出来事を(自分たちの新しい政権をつくる)幸運な現代史として解釈する楽天性と大胆性」(韓鏞源の表現)を見せた。権正達は新党(民正党)づくりを担当した(『韓鏞源回顧録』)。
▽米国の苦悩
その頃の米国の呻(うめ)きが、記録に残っている。
光州の流血を踏み台に、国民が後ろ指を指すなかで権力奪取へ血眼になって突き進む全斗煥だったが、そんなかれを排除することも、それに代わる他の選択肢もないのが米国の悩みだった。1980年5月28日、駐韓大使のグライスティーンがワシントンに送った報告書――。
「全斗煥を除去することの危険性は、今さら強調するまでもない。われわれが拙速で動く場合、全斗煥は対抗のために軍を固く団結させ、国民の反米感情を煽って米国の国内政治問題にしてしまうこともあり得る。もちろん、われわれは、かれが韓国国内で(流血クーデターを起こしたことによって)最も評判の悪い人物であるという点は分かっている。しかし、かれが本当に韓国国内の各種利益団体の利害と相反する立場にいるのかどうかは、まだよく分からない。加えて、われわれが留意しなければならないのは、われわれが支持するに値するだけの、真に理想的な指導者がいないということだ」(グライスティーン大使)
▽「カラスに代わるシラサギもいない」
グライスティーンがこの報告書を書く1カ月前の4月にワシントンに送った、次のような報告通りに事態は進んでいった。
「われわれ(米国)が排除しようしているカラス(全斗煥)に代わりうるシラサギ(代わりの指導者)は見当たらない」
かれは、全斗煥をひどく嫌うカーター政権が、何らかの逆クーデターを企て、それが失敗に終わることになりはしないか、と怖れた。そんななかで結局、「いっそのこと全斗煥の軍事反乱を認めてしまおう」と現状維持論を唱えるブリュースターCIA韓国支部長と気脈が通じるようになり、ウィッカム司令官もそこに飲み込まれていったのだった。このあと、第5共和国(全斗煥政権)の期間を通して続いた学生たちによる反米闘争や米文化センター放火事件といった悲劇は、そのような判断の結果だったのであり、自業自得というわけだった。
▽新党結成へ秘密会議
80年7月3日、国保委で開かれた新党結成に向けた保安司令部の秘密会議――。
常任委員長の全斗煥は、権正達、李相淵、李鍾賛、李相宰(メディア担当)を前に座らせ、厳かな口調で切り出した。
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| 新党民正党の結成を受け持った権正達(右)と李鍾賛=1980年12月 |
「これからは権正達(情報)処長を中心に、新たな歴史をつくっていく仕事をしっかりとやってもらいたい」
それだけだった。それ以上の具体的な指示はなく、李鍾賛はなにか釈然としない思いで部屋を出ようとしていると、権正達が「保安司令部に行こう」と声をかけてきた。その保安司令部の廊下で、李鍾賛は中央情報部秘書室長の許文道と鉢合わせた。
許文道は李鍾賛にこう言った。
「先輩、今朝、新党結成のタスクフォース・チームの一員として、部長[当時の中央情報部長(正式には代理)は盧泰愚だった]に(拝命の)挨拶をしましたよね?」
そう言われて初めて、李鍾賛は、先ほどの集まりが新党結成のための会合だった、と悟ったのだった。許文道は、言葉を続けた。
「新党結成の作業に、南山の尹碩淳(1937~2021年、第11代国会議員)も入れてみてはいかがでしょうか」
▽結党本格化
当時、中央情報部副局長だった尹碩淳は、許文道、許三守と釜山高校の同期生だった。それを聞いて、すでに綿密に練られたシナリオ通りに事が進んでいるのだな、と李鍾賛は思った。そのようにして尹碩淳も合流した。
崔圭夏大統領を青瓦台から引きずり下ろしたのは8月16日、全斗煥が大統領になったのは8月27日だった。それから考えると、新党結成はその1カ月半前からすでに本格化していたというわけである。
訳:波佐場 清

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