2026年7月23日木曜日

金忠植『5共 南山の部長たち』/韓国民主化40年(42)

  三清教育隊

 198084日、「三清教育」なるものが始まった。

 新軍部は516軍事クーデター時の「暴力団掃討・国土建設団」をモデルに、「三清教育隊純化教育」を強行した。

 ▽見せしめ

 朴正煕の軍部は、1950年代に跋扈した政治ゴロの李丁載や林和秀らを死刑に処したほか、兵役忌避者や組織暴力団員らを集めて国土建設団をつくり、気合を入れ直させた。その国土建設団は済州島の漢拏山を貫通する「516道路」を建設した。クーデター軍が広く国民の心をつかみ、恐怖の雰囲気を醸し出すことも狙って、暴力団員らにたいして軍隊の物理的な力による見せしめをおこなったのである。

 全斗煥と「ヤング・カーネル(実力派大佐)」らが操る戒厳司令部は84日、「社会悪の一掃および戒厳布告令」を発表し、ゴロツキどもや社会秩序を乱す不届き者を一掃するという名目のもと、かれらをやみくもに逮捕していった。

三清教育隊では「丸太棒体操」など、過酷な「訓練」が強制された

 「社会悪の一掃」という名目だったが、捕らえて拘禁する基準自体が、曖昧だった。

 現行犯および再犯の恐れがある者▼不健全な生活を営む者▼ならず者や組織暴力団組長ら、改悛の情がなく住民の非難を受けている者▼泥棒・強盗▼反政府・無政府主義者、または不穏なアジテーター▼社会秩序を害する犯罪者――などと、列挙されていた。

 ▽詩人・朴労解

 こうなると、町内会長や班長と日ごろ、折り合いが悪かったというだけで、通報さえあれば、たいした確認もなく連行された。それで、ときには頼母子講の元締めや高利貸し、さらには、当局に睨まれた記者や詩人までもが捕らえられていった。詩人・朴労解[1957年生まれ。反政府活動で無期懲役刑を受け、金大中政権下で特赦された。16歳の時から過酷な肉体労働をしながら書きためた詩集『労働の夜明け』は、全斗煥政権下で発禁処分となったが、地下ルートでコピーされ、大ベストセラーとなった]の一文――

 

  金さんは、未払い賃金を要求して抗議の座り込みをしている最中に、

  社長の奴の胸ぐらをひっ掴んだ、と告発されて捕まってきた。

  15歳の宋君は、土方の仕事に出た

  母親を迎えに行く途中、不良に仕立て上げられて連れて来られた。

  ドル建ての闇の借金がたまって捕まってきた奴。

  市場の露店の場所取りをめぐり、言い争いをしていて捕まってきた奴。

  酒を一杯ひっかけ、大声をだしていて捕まってきた奴。

  ダンスのパートナーが高官夫人だったから、といって捕まってきた奴。

                ――朴勞解『三清教育隊』から抜粋

 ▽過酷な訓練

捕まえられていった人たちは、「純化教育」、「勤労奉仕」、「軍法会議」にそれぞれ振り分けられた。

19811月までに計6755人が逮捕され、保安司令部、中央情報部、憲兵隊、検察、警察、地域浄化委員で構成する審査委員会にかけて、ABCD4等級に振り分けられた。A級の3252人は軍法会議に回された。BC級の39786人は4週間の教育のあと6カ月間服役し、さらに2週間の教育を受けて訓放(釈放)となった。D級の17717人は警察署から訓放された。

三清教育隊は、刑務所と変わるところがなかった。

 「純化教育」は、有刺鉄線が張り巡らされた刑務所のような収容所に閉じ込め、憲兵が監視する運動場で過酷な肉体的訓練をさせて苦痛を与えるやり方だった。

 

吹雪のなか、練兵場を匍匐し、

  元山爆撃 ウサギ跳び PTPhysical Training)体操 先着順

[元山爆撃は、両手を使わず、頭を地面につけて臀部を高く上げさせる罰。朝鮮戦争時の米軍機による北朝鮮の元山への激しい爆撃に由来し、爆撃機が急降下する様子を模しているとされた。PT体操は、過酷な腹筋運動など軍隊式の集団シゴキ。先着順は、集団で競走ダッシュをさせ、一定の順位に入るまでそれを繰り返させる体罰]

  遅れれば、さらに走らされ、倒れれば踏みつけられ、

  もがけば、角材で殴られ、血まみれになり、

  内務班(寝舎)に入れば、

  漢江鉄橋 手榴弾 尖った鉄兜 

[漢江鉄橋は、寝舎の寝棚間に収容者自身の体で「橋」を架けさせ、その状態を維持させる体罰。下には手榴弾や尖った鉄兜が置いてあり、落ちればそれに触れたり、突き突き刺さったりする]

  軍靴で、脛(すね)を生皮がむけるほど蹴られて転げ回り、

  熱くなったペチカの壁に立たされて拳と足蹴りを食らい、

カニの泡をふいて、沈没していく。

  ああ、ここは強制収容所なのか、生き地獄なのか。

                   ――朴勞解『三清教育隊』から抜粋

 ▽武術刑務官

刑務所内でも「不良受刑者」の烙印を押されれば、「純化教育」を受けなければならなかった。当時、ソウルの永登浦刑務所で刑務官をしていた黄龍煕が書いた『棘の檻の証言』(メントプレス刊行)の一節――

 「三清教育隊が猛威を振るっていた1980年下半期、全国の刑務所に法務部から一つの指示が下された。それを受け、末端の拘置所や刑務所では「純化教育教官団」が組織された。そこに、若くて逞(たくま)しい武術(格闘技)刑務官を選抜して組み込み、軍部隊に送り込んで2週間の特別軍事訓練を受けさせた。純化教育の教官として駆り出され、軍隊の飯を食って帰ってきた刑務官たちは、厳しい訓練でしごかれ、どの顔もげっそりとやつれ果てていた」

 ▽死傷者3千余人

 そんな武術刑務官たちが「純化教育」に乗り出したのだ。黄龍煕は、こう書いている。

――「動作、止めっ。左右にセーレツ(整列)。もう一回、丸太棒体操だ。丸太体操、始めっ!」。教官の命令に従って丸太の棒が頭の上でうごめきながら舞を舞う。すこし離れた場所では、砂のカマスを背負ってアヒル歩き[しゃがんだ姿勢で後ろ手を組ませ、尻を振るようにして歩かせるシゴキ。日本の「ウサギ跳び」に近い]をする群れがいる。アヒル歩きで運動場を1周させ、あとは砂のカマスを肩に担いで地面を這う匍匐訓練だ。そうした低い姿勢で運動場を何周かすると、肘や膝がすりむけて血が出、落後者が続出する。動きがのろかったり、カマスを地面に落としたりすると、棍棒や軍靴の足蹴りが飛んできた。「こいつ、死にたいのか。さっさとやれ、と言うんだよ」。

 第5共和国が終わったあとの1988年の国会国政監査資料によると、三清教育隊では、現場における死者54人、後遺症による死者397人、精神障害などの負傷者2678人を数えた。

 ▽全斗煥の報復

 このような生き地獄の「純化教育」訓練場に、元保安司令官の姜昌成中将(2006年没、中央情報部次長補や国会議員も歴任)も送り込まれ、死ぬ思いをさせられた。

 全斗煥の姑息な報復だった。

 姜昌成は70年代初めの保安司令官時代、尹必鏞事件について調べろ、との朴正煕の特命を遂行するなかで、尹必鏞の庇護下にあった全斗煥、権翊鉉、孫永吉[3人とも陸士11期の同期]らの軍閥「ハナ会」を抉(えぐ)り出そうとした。さらには80年春、全斗煥に呼び出された際には、「軍部が政治に乗り出してはいけない」と忠告していた。

 そんな、全斗煥にとっては「不届き」な姜昌成を、三清教育隊に放り込んで虐待したのである。

 ▽二重の処罰

 姜昌成は、全斗煥流の「懲らしめ」によって悲惨な目に遭った。

 1980年夏、外国為替管理法違反容疑で捕まって懲役3年の刑を受け、永登浦刑務所に2年ほど入っている間に、服役者の「特別純化教育」に4回も引っ張り出され、苦労させられたのである。監獄暮らしの苦しみのなかにあって、さらに「丸太棒体操」の訓練に4回も駆り出されたのは二重の処罰だった。黄龍煕刑務官は、こう記録している。

全斗煥の「懲らしめ」で苦しんだ姜昌成(左)は民主化後、国会議員となって全斗煥政権の不正などを追及した。
全斗煥らの「
1212クーデター」に最後まで抵抗した張泰玩・元首都警備司令官(右)と打ち合わせもしていた

 「姜昌成将軍は54歳という若くない年齢なのに軍人特有の気骨で、あの過酷な訓練を耐え抜いたのだ。さすがに、後になってから『年には勝てない』と吐露し、ひどく辛そうにしていた。当時の刑務所内での生活ぶりについて言えば、昼は園芸作業をして働き、夜は独房(07坪)だった。部屋の整理整頓は、軍の内務班(寝舎)並みだった。毛布やタオル、下着などをきちんと折りたたんで整理し、壁は白い画用紙できれいに壁紙をし、そこに週刊誌から切り抜いた朴正煕大統領の写真を貼りつけて朝夕、礼拝するように挨拶を捧げていた。刑務官が朴正煕暗殺事件の話を持ち出すと、とても嫌がり、『閣下・朴正煕』にたいする忠誠の心を露わにした。刑務官らは彼のことを『朴正煕教信者』と呼んでいた」

姜昌成はその時期のことについて、筆者にたいしても「過酷な試練で体重が10キロも減った」と語っていた。

 ▽「モンテ・クリスト伯」

 姜昌成は、「巌窟王」(アレクサンドル・デュマの小説『モンテ・クリスト伯』の主人公)のように、死の淵から生還した。

 そして1988年、金泳三の統一民主党から公認を受けて国会議員になり、国会の壇上から改めて「517クーデター」と全斗煥政権の不正を追及、断罪する主役となった。

 そんなある日、ハナ会の一員だった申宰基議員(陸士13期)と国会駐車場で鉢合わせをし、危うく取っ組み合いのけんかになるところだった、と記者たちに話したこともある。ハナ会への敵愾心に燃える姜昌成議員に向かって、申宰基議員が悪態をついたというのである。姜議員はすかさず激しく言い返し、取っ組み合いになろうとした。すんでのところで、周りが止めたので思いとどまったという。

 5共の三清教育隊は、歴史の審判を免れることができなかった。

 20181228日、大法院は「三清教育隊設置の根拠となった戒厳布告令(第13号)は、憲法および法律上の要件を満たしておらず、国民の基本権侵害に当たり、無効」として、違憲の最終判決を下したのである。

                        訳:波佐場 清

 

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