2023年12月16日土曜日

王が生まれた日本の島/百済歴史散策⑤

武寧王が日本で生まれたとする『日本書紀』の記述について、東京外国語大学教授などをつとめた岡田英弘さん(19312017)は次のような説明をしていた。 

  倭王興[筆者注:5世紀の「倭の五王」の一人]の宮廷に、百済の蓋鹵王[在位455475]は、弟の昆支を送って人質とした。『日本書紀』の「雄略天皇紀」に引用された『百済新撰』によると、これは四六一年のことであった。そして「雄略天皇紀」の本文の言うところによると、蓋鹵王は昆支を派遣するに当たって、妊娠して臨月の自分の妻と結婚させ、子どもが生まれたら途中からでもすぐ国に送り返すことを約束させたが、はたして筑紫の各羅(かから)島で生まれたので、島君(せまきし)と命名して百済に送った。これが後の武寧王である、という。 (岡田英弘『倭国 東アジア世界の中で』中公新書)

武寧王陵から出た墓誌石には「王は62歳になる52357日に亡くなり、525812日に葬儀をおこなった」という内容が刻まれていた。岡田さんはこれに関連して当時の朝鮮半島をめぐる情勢について次のようにも指摘していた。  

(亡くなった日から)逆算すると、誕生は四六二年で、『百済新撰』は一年まちがえているが、いずれにせよ、百済王が倭王興のもとに人質を送ったというのは事実であることが証明される。つまり、百済・倭国の反高句麗同盟の強化である。(同) 

■佐賀県・加唐島

「筑紫の各羅島」――。これは現在の佐賀県唐津市鎮西町の離島、加唐島(かからしま)に比定される。九州北部、玄界灘に突き出た東松浦半島の最北端から北に4キロのところにあり、面積284キロの小さな島である。人口は現在100人ほどという。

加唐島  佐賀県さがじかんHP

 
帝国書院『地歴高等地図』


島の洞窟 佐賀県HP

ここに武寧王が生まれたとされる洞窟がある。
島では毎年、王の「生誕祭」を催し、韓国・公州市民との交流もしているという。地元で世話役をしている鎮西公民館長の山下定則さん(67)に電話をすると、いきさつなどを話してくれた。 

公州市とは元もと、陶磁器を通した交流があった。秀吉の朝鮮侵略時に日本に連れて来られ、この地方の特産、伊万里焼の元祖となった李参平は公州が故郷。それが縁でソウル五輪があった1988年に交流が始まったのだが、武寧王と島の関係についても知られるようになり、20026月、第1回生誕祭を開いた。 

以来、毎年開いてきており、22回目の今年は、コロナ禍明けで4年ぶりに公州市や釜山市から来た40人を含め、日韓の顕彰団体の200人ほどが島に集った。福岡の韓国総領事館も島に記念碑を立てたりしている。一方で、唐津市民も公州で毎年秋に開かれる「百済文化祭」に参加しており、今年も山下さんら25人が韓国に行ってきたという。 

■「日本との関係??」

さて、韓国の公州博物館。私たちが訪れたのは金曜日の午前だったが、小学生のグループが目についた。校外学習の遠足で来た子たちだった。ソウル近郊の水原市から来たという小学5年生の子らに武寧王と日本との関係について聞いてみると、みな「知らな~い」と口をそろえた。

博物館の「子ども体験室」

 

引率の30歳代と思える女性の教師は「武寧王が日本で生まれた? 初めて聞く話です。よく調べてから子どもたちにも教えてやります。日本と関係が深いというなら、ますます日本と仲良くしないといけませんね」と笑顔をみせた。 

事務所の窓口にいた係員に聞いてみると、「詳しいことは高校で習います。日本との関係については、真実はどうであったのか。事実をありのままに伝えるのが私たちの役目です」という答えが返ってきた。 

この日の博物館はかなりのにぎわいだった。館側によると、入館者はこのところ13千人ほど。ここ10年でみると、年間入館者は5070万人。日本からも年間23千人ほど来ていたが、ここ23年はコロナで激減、いま、ようやく回復し始めてきたという。

 ■七支刀

七支刀のキーホルダー

博物館の売店には七支刀(しちしとう)のキーホルダーが売られていた。

七支刀――奈良県天理市の石上(いそのかみ)神宮に伝わる国宝のあの鉄剣のことである。全長74・9センチ。刀身の表と裏に金象嵌(きんぞうがん)の銘文(61文字)がある。錆びついていて一部判読しにくい文字もあるが、4世紀後半、つまり武寧王の時代より1世紀余前に「百済の王世子」が「倭王」に贈った――と読めるようだ。 

で、それは百済側が倭を目上の国とみて奉げたものなのか、それとも目下の国とみて下賜したのか。日本では前者の解釈が一般的だが、韓国側には後者とする主張があり、両国専門家の間で論争もおこなわれてきた。 

前回も紹介した遠山美都男さんの著書は次のように書いている。 

  百済とすれば、高句麗からの独立戦争を勝ち抜くためには倭国の軍事援助がどうしても必要であり、百済と倭国のいわば軍事同盟の証しとして、霊妙なパワーがこもっているとされたこの刀を贈ることにしたのである。 (遠山美都男『白村江 古代東アジア大戦の謎』講談社現代新書) 

朝鮮半島で同種のものは見つかっていないとはいえ、鉄剣の本元が百済であったことだけは間違いない。小学生の2人の孫のへのみやげにとキーホルダーを2個買い求めた。11万ウォン(約1100円)だった。(つづく)        波佐場 清                   

2023年12月12日火曜日

仏教公伝の聖明王が喪主/百済歴史散策④

 国立公州博物館は武寧王陵のある宋山里古墳群のすぐ近くにあった。武寧王陵の出土品を中心に大田・忠清南道地域の文化財2万点を展示しているという。折から「1500年前の百済武寧王の葬儀」という特別展を開催中だった。

国立公州博物館

 523年に武寧王が亡くなって今年でちょうど1500年。特別展は武寧王の葬儀を復元し、百済王室の葬儀文化にスポットをあてた企画という。展示品を見る前に、そもそも武寧王とはどういう王だったのか。 

5人の王

百済はすでに見たように、475年に文周王が漢江下流域をすてて公州(旧名熊津)に来てから聖王が538年に扶余(旧名泗沘)に移るまでの60余年間、ここを都にした。その間、5人の王が統治した。 

22代文周王(在位475477)▽第23代三斤王(477479)▽第24代東城王(479501)▽第25代武寧王(501523)▽第26代聖王(523538/以後扶余に遷都し554年まで在位)――である。 

これらの王は百済の再興をめざし、深刻だった支配層内部の混乱も収まって国政は安定に向かった。高句麗の圧力はその後も続いたが、武寧王は高句麗に攻め込む一方、伽耶地域への拡大もはかり、領域内の支配体制を確立した。中国南朝の梁や倭との外交活動にも手腕を発揮し、倭には五経博士をはじめ諸博士を派遣して倭の文化振興に貢献した。 (李成市「古代国家の形成と発展」吉田光男編『韓国朝鮮の歴史と社会』放送大学教育振興会) 

この武寧王の後を継いだのが、その息子で、この地で5人目の王となった聖王だった。博物館の売店で買った図録は特別展の趣旨について次のように書いてあった。 

  523年に武寧王が崩御した後、525年に墓に安置されるまで、息子の聖王は心を尽くして三年の喪に服した。本展では、武寧王の葬儀を執り行って王位を継承し、より強い百済を目指した聖王を心に刻んでもらおうと、武寧王と聖王の2人を主人公にしている。 

■聖明王

聖王とは、日本に仏教を伝えたことで知られる、あの聖明王のことである。 

高校の教科書はこう書いている。

百済の聖明王(聖王、明王とも)が欽明天皇の時に仏像・経論などを伝えたとされるが、その年代については538年(『上宮聖徳法王帝説』『元興寺縁起』)とする説と552年(『日本書紀』)とする説があり、前者の説が有力である。……(『詳説日本史B』山川出版) 

すでに見たように聖王が、百済が60余年間王城にしていた公州を逃れて扶余へ遷都したのは538年だった。つまり、まさにその同じ年に、この聖王が日本に仏教が伝えていた、ということになるわけである。 

■百済と倭国の関係

ここで、古代の百済と倭国の関係についてみておきたい。遠山美都男『白村江 古代東アジア大戦の謎』(講談社現代新書)を参考にかいつまめば次のようである。 

  本格的な外交が成立したのは4世紀だった。397年、百済は倭国とよしみを結び、その証しとして太子の腆支(とき/直支)を人質として送った。この時期まで百済は高句麗の隷属下にあったが、4世紀中ごろから独立をめざすようになり、そのために倭国の軍事力を必要とした。 

  百済からすれば、倭国との軍事同盟はしょせん高句麗との戦争を前提にしたもので、高句麗の脅威が薄らげば、その必要もなくなる。倭国はそのことが知りながら百済に対し軍事的な支配権をもっていると主張したがった。 

6世紀以降も軍事同盟は維持された。百済は主として中国の南朝から入手した当時最高の文化や技術を、軍事援助の見返りとして倭国に贈与した。仏教のほか、儒教や易学・暦学・医学などの博士が定期的に百済から倭国に派遣されたのも、軍事援助への報酬という意味合いがあった。 

いずれにしろ、武寧王による五経博士の派遣や聖王による仏教公伝は、日本の飛鳥文化の幕開けへとつながっていったのである。 

■日本の木材で作った棺

公州博物館では、特別展を中心に見て回った。そのコーナーには武寧王陵出土品を中心に126件が展示されていた。埋葬者が武寧王と特定できた墓誌石、遺体を納めた木棺、王が身に着けていた装飾品、玄室と外部をつなぐ羨道で見つかった、墓を守る想像上の動物という石造の鎮墓獣などだ。 

墓誌石。武寧王の名前と死亡年月日、葬儀に関することなどが刻まれ、裏面には干支図が描かれている。

公州博物館HP

 

鎮墓獣。高さ30センチ、長さ473センチ、重さ482キロ。頭に角があり、本体には翼が付いている。墓を守り死者の魂を神仙世界に導くとされていた。博物館前の広場にはこの鎮墓獣を模した大きな石像が据えられている。

金製かんざし。王の頭付近で見つかった。長さ184センチ、幅68センチ。髪に挿す部分は鳥の尾を形象化している。

公州博物館HP

 

公州博物館HP

木の枕と足座。 表面に漆を塗った後、金板を付けて六角柄を作り、その各隅と内側を金の花柄で飾ってある。枕の木材はイチイ。高さ20センチ。 

興味深かったのは木棺だ。軒を付けて家の形につくってあり、長さ248・8センチ。日本固有の材、コウヤマキ(高野槙)を用いている。実際、この王は、桓武天皇の生母高野新笠との「ゆかり」に限らず、日本との関係は深かったようだ。

武寧王が眠っていた木棺

『日本書紀』には、この王は日本で生まれた、と書かれている。(つづく)                  波佐場 清               

2023年12月8日金曜日

日本と「ゆかり」の王/百済歴史散策③

2日目、私たちはまず、公州市街地から北西へ約1キロ、錦江のすぐ南側の丘陵地にある宋山里古墳群に向かった。日本の植民地期、1930年代に日本人によって発見された「熊津百済」期の古墳群で、現在、7基が「王陵」として整備されている。 

■武寧王陵

目玉は何と言っても、武寧王(在位501523)と王妃を合葬した武寧王陵である。19717月、それまでに発掘された古墳の排水施設工事をしていて偶然見つかった。 

盗掘など、荒らされた形跡はなく、木棺や副葬品が完全なかたちで残っていた。出土した墓誌石から、被葬者は武寧王とその王妃とわかった。三国時代の古墳は数多く見つかっているが、被葬者の身元が特定できたのはこれが唯一という。 

「公州武寧王陵と王陵園」と書かれた料金所のゲートをくぐると、ゆるやかな丸みを帯びた古墳群があった。芝生できれいに整備されている。そのうちの一つ、直径20メートルほどだろうか……、それが武寧王陵だった。

武寧王陵あたりの古墳群

 入り口は固く閉ざされていた。保存上、19977月、国の文化財庁が「永久非公開」を決めた、という説明が表示されていた。近くに実物を再現したレプリカがつくられ、そこで内部を疑似体験できるようにしてあった。

丘陵の上の方ではいまも発掘調査が進められている。

 ■天皇の「韓国とのゆかり」発言

武寧王といえば、思い出されることがある。先代天皇(明仁上皇)が20011218日、68歳の誕生日を前にした記者会見で、平安京遷都で知られる桓武天皇とのからみで、この武寧王のことに言及したのである。次のような内容だった。  

私自身としては、桓武天皇の生母が百済の武寧王の子孫であると、続日本紀に記されていることに、韓国とのゆかりを感じています。武寧王は日本との関係が深く、この時以来、日本に五経博士が代々招へいされるようになりました。また、武寧王の子、聖明王は、日本に仏教を伝えたことで知られております。(宮内庁HP) 

日韓共同開催となった2002年のワールドカップ・サッカー大会を翌年に控えての発言だった。桓武天皇の生母とは高野新笠(たかののにいがさ)のことである。 

上皇はここで、日韓の古代の良好な交流について述べたあと、両国関係はそのような交流ばかりではなかったことも指摘し、「両国の人々が、それぞれの国が歩んできた道を、個々の出来事において正確に知ることに努め、個人個人として、互いの立場を理解していくことが大切」と話した。そして、ワールドカップを機に両国民の間に理解と信頼感が深まることを願う、と述べたのだった。 

この「韓国とのゆかり」発言は波紋を呼んだ。韓国の主要新聞はこれを1面で大きく報じた。その時、私はたまたま出張でソウルにいたのだが、宿泊していたホテルのフロント係に感想を求めると、「驚いた。天皇の祖先がわが国の人だったんですね」と戸惑いの表情だったのを印象深く覚えている。 

■高野新笠

上皇は、特別なことを言ったわけではない。高校の教科書は次のように書いている。 

光仁天皇は、行財政の簡素化や公民の負担軽減などの政治再建政策につとめた。やがて781(天応元)年に亡くなる直前、天皇と渡来系氏族の血を引く高野新笠のあいだに生まれた桓武天皇が即位した。 (『詳説 日本史B』山川出版) 

京都女子大名誉教授の瀧浪貞子さんは今年8月に出した近著で、すこし詳しく書いている。 

  新笠は和乙継(やまとのおとつぐ)を父、土師真妹(はじのまいも)を母として生まれた。『新撰姓氏録』[筆者注:古代氏族の出自を記した平安初期の書]によれば、父方の和氏は「百済国の都慕(つも)王の十八世孫、武寧王自(よ)り出(い)づ」と記し、『続日本紀』(延暦八年<七八九>十二月二十八日条)にも、「后(新笠)の先は百済の武寧王の子純陀(じゅんだ)太子より出づ」と記されているように、百済国王を始祖とする渡来氏族だという。都慕王(「とぼおう」とも)は扶余(ふよ)を開国したと伝える伝説上の人物であり(武寧王の子、純陀太子は継体(けいたい)七年<五一三>八月に亡くなったことが伝えられている)、一族は武烈(ぶれつ)天皇の時に「帰化(きか)」したとされている(『日本書紀』)。  (瀧浪貞子『桓武天皇――決断する君主』岩波新書) 

高野新笠については作家の司馬遼太郎も次のように書いていた。 

   百済から渡来した者の子で、実家はなお百済の遺習をもっていたらしい。父は奈良の小吏であった。田地もさほど多くはなかったらしいが、いずれにしても桓武の意識のなかにはつねに諸蕃[『新撰姓氏録』で渡来人の子孫とした氏]のことがあった。かれが中国風の祭天の儀式をおこなったのも河内の交野(かたの)の百済村においてであろう。そのやりかたも百済村に遺っていたものに準拠したと思われるし、さらにかれは百済王家をひきたて、その後宮にその系統の女性を何人も入れたりした。(司馬遼太郎『空海の風景(上)』中公文庫) 

司馬がここで、新笠の実家になおもあったとする「百済の遺習」とは、どういうものだったのだろうか。 

■出土4600

さて、現地の宋山里古墳群。武寧王陵のレプリカの内部に入ってみる。


王と王妃が眠っていた玄室は、南北方向に長さ420メートル、東西の272メートル、アーチ形天井の高さは293メートル。壁面はぎっしり積まれた、塼(せん)とよばれる煉瓦で覆われている。中国南朝の梁(502557)の強い影響がうかがえるという。 

ここから、のちに国宝に指定される17点を含む約4600点の遺物が出土した。それらは近くの国立公州博物館で展示されている。私たちはそこへ向かった。(つづく)

                                波佐場 清

参考資料(百済歴史散策①~③)

小島毅『父が子に語る 近現代史』(ちくま文庫)

文部省『尋常科用 小学国史上巻』(昭和15年2月27日発行)

姜在彦『新版朝鮮の歴史と文化』(明石書店)

姜在彦『歴史物語 朝鮮半島』(朝日選書)

文科省検定教科書『詳説日本史B』(山川出版)

瀧浪貞子『桓武天皇――決断する君主』(岩波新書)

司馬遼太郎『空海の風景(上)』(中公文庫) 


2023年12月4日月曜日

漢江下流域から公州へ/百済歴史散策②

ツアーは「白村江の戦い 百済歴史散策 扶余・公州・益山・瑞山 4日間」というものだった。大阪の南海国際旅行社が企画した。扶余(プヨ)、公州(コンジュ)、瑞山(ソサン)はいずれも忠清南道、益山(イクサン)はすぐ南に隣接する全羅北道にある。 

白村江の戦い――。手っ取り早く、たとえば手元の辞書を引いてみる。 

  663年、白村江で、日本・百済連合軍と唐・新羅連合軍との間に行われた海戦。日本は、660年に滅亡した百済の王子豊璋を救援するため軍を進めたが、唐の水軍に敗れ、百済は完全に滅んだ。(広辞苑) 

で、その白村江(はくそんこう)とは? 

  朝鮮南西部を流れる錦江河口の古名。今の群山付近。はくすきのえ。白江。(同) 

■清州から公州へ

112日(木)11時、エアロKAero-K)機で関空を発ち、軍と共用の清州(チョンジュ)空港(忠清北道)から韓国に入った。飛行時間1時間半余。ツアー参加者23人、男女ほぼ半々、夫婦連れも何組かいた。多くが私たち同様、現役を退いたとみられる人たちだったが、比較的若い人もまじっていた。 

清州空港を出ると大型バスでまず、公州に向かった。標高200300メートルほどの山々の間をぬう高速道路を1時間。色づき始めた木々や、刈り取りを終えた田に並べられた稲わらのロールが秋の陽ざしに映えていた。 

公州ではまず、公山城に案内された。手渡された日本語のパンフレットには「百済の息遣いが感じられる世界遺産都市・公州」「公山城は、熊津百済の時期を代表する古代城郭である」などとある。


 熊津百済? 韓国、朝鮮半島にはそれなりに関心があり、新聞記者としてソウルに駐在したこともある。しかし、目先のニュースに追い立てられ、歴史、とくに古代史についてはほとんど勉強してこなかった。このあたりを訪ねた記憶はあるが、基礎知識に乏しく、ただ風景として眺めているだけだった。 

今回、関連した本を何冊か買い、書棚でほこりをかぶっていた何冊かを読み返した。学生時代の試験前の一夜漬けにも似た、にわか勉強である。 

■「三国時代」

そもそも百済とはどんな国だったのか――。新羅、高句麗とあわせて語られる朝鮮半島の「三国時代」とはどういう時代だったのか。 

大阪で何かとお教えをいただいた歴史家姜在彦先生(1926 2017)の『新版 朝鮮の歴史と文化』(明石書店)と『歴史物語 朝鮮半島』(朝日選書)に沿って私なりにかみ砕くと、次のようである。 

  高句麗は始祖伝説によると、朱蒙(チュモン)が紀元前37年、いま中朝国境になっている鴨緑江の右岸(中国側)地域を拠点に国を開いた。313年に楽浪郡を占領するなど中国勢力を朝鮮半島から追放。4世紀末~5世紀、「好太王碑」(中国吉林省に現存)で知られる広開土王(在位392413)と、平壌に都を移した次の長寿王(413491)の代に大きく勢力を伸ばし、南方の百済と新羅を圧迫した。 

 百済は、馬韓諸部族を伯済族が統合して建国した。始祖の温祚王は高句麗の朱蒙の次男とされ、前18年に即位。漢江下流域、今のソウル江南地域の漢城に都を定めた。371年、百済の近肖古王(346375)は平壌城を攻め、高句麗の故国原王を戦死させた。百年後の475年、こんどは高句麗の長寿王が百済を攻め、百済の蓋鹵王を殺害。後継の文周王は百済発祥の地である漢江流域を放棄し、錦江中流の熊津(ウンジン/いまの公州)に都を移した。

6世紀の朝鮮半島 『詳説日本史B』(山川出版) 

 新羅は半島南東部の辰韓諸部族を斯盧族が統合して国を開き、慶州(金城)に都を置いた。始祖は朴赫居世(パクヒョッコセ)なる人物で、前57年に即位したとされる。長く土着的な色彩を帯びていたが、6世紀初め、法興王(514540)が仏教を公認するなどして中央集権的な国づくりを進めた。 

そんな6世紀、3国に大きな動きがみられた。百済の聖王(在位523554)は高句麗の圧迫もあって538年、熊津から泗(サビ/いまの扶余)へ遷都。新羅の真興王(540576)と結び、551年に旧王都の漢城をいったん高句麗から奪回した。 

ところが新羅は、その漢城を百済から奪い取った。半島南東端に位置した新羅にとっても中国大陸に海路がつながる漢江河口への進出は宿願だった。新羅の裏切りに激怒した聖王は554年新羅軍を攻めたが、返り討ちに遭って殺された。以来、百済はそれまで敵であった高句麗と手を結んで新羅と敵対していった。 

6世紀前半ごろまでの動きは、ざっと以上のようである。漢江流域を確保して三国競争の主導権をとった新羅は、このあと北方に勢力を拡大、南方の洛東江河口付近にあって日本(倭軍)も進出していた加耶諸国(任那)も併合していった。新羅はその後さらに唐と結んで百済、高句麗を滅ぼし、7世紀後半、半島の統一を成し遂げたのだった。

王宮跡

さて、私たちが訪れた公山城。案内パンフの「熊津百済」とは、いま見た通り、公州に都を置いた475年から538年まで60余年間の百済をいうのである。日本ではヤマト政権が関東や九州中部にまで支配体制を広げていった時代だった。 

そのころの日本の海外との関係についていえば、「倭の五王」最後の王、武王(雄略天皇)が中国南朝の宋(420479)に朝貢したのが478年。北九州で筑紫の豪族が新羅と結んでヤマト政権に抗った「磐井(いわい)の反乱」は527年のことだった。 

公州城の城郭は錦江に接した標高百メートルほどの山の稜線を中心に渓谷を包み込むかたちで築かれていた。総延長2・6キロ余。百済時代は土城だったが、朝鮮王朝時代に石城に改築され、土城が残るのは一部だけという。 

城内に入ってなだらかな坂道を登った。頂上付近が平地になっており、小さな池の跡が見えてきた。


のぞいてみると深さ10メートルほど。底に石が敷かれ、側壁もぎっしりと石が積まれている。ここらあたりに王宮があったとみられ、池は防火用などに使われたようだという。発掘作業はいまも続いている。 

帰路、城郭の上の狭い歩道を伝って下におりた。遠くに公州市街が見える。人口は年々減って現在11万。観光が主要産業で、国立公州大学は教員養成の名門として知られ、全国から学生を集めているという。

 この公州市と隣接の扶余郡、益山市の3地域に分布する遺跡地が「百済歴史遺跡地区」として2015年、ユネスコの世界遺産に登録された。私たちは公州市内に宿所を定め、この地域の遺跡を主に巡っていくことになる。 

次は、公山城のすぐ近くにある武寧王陵と、そこから出た遺物を主に展示する国立公州博物館だった。(つづく)

         波佐場 清

2023年11月30日木曜日

日韓はどうしてこうなのか/百済歴史散策①

この秋、11月初めに韓国へ行ってきた。大阪の旅行社が企画した「白村江(はくすきのえ)の戦い 百済歴史散策」というツアーに参加した。韓国中西部地域に広がる古代百済の遺跡を巡る34日の旅だった。

韓国観光公社HP 韓国・扶余付近の白村江(錦江)

 ■歴史問題の火種

日本と韓国はどうしてこうなのか――。このところずっと、そんなことを考えていた。たとえば、ここ数年最大の外交懸案といわれてきた徴用工問題。ことし3月いったん「政治決着」したことなっているが、一部の被害者は納得しておらず、韓国の司法レベルでもいぜん、火種がくすぶっている。

従軍慰安婦の問題もある。この1123日、ソウル高裁は日本政府に対して元慰安婦らに損害賠償を支払うよう命じる判決を下し、日韓間の歴史問題の深刻さを改めて浮き彫りにした。

日本政府の歴史に向き合う姿勢も問われている。

今年は1923年の関東大震災時の朝鮮人虐殺から100年の節目にあたった。松野博一官房長官はこれに関し、「政府として調査したかぎり、事実関係を把握できる記録が見当たらない」と繰り返した。日韓両政府が約束しあった「過去直視」とはほど遠いようにみえる。 

■相次ぐヘイトスピーチ

これらの問題の根源には日本によるかつての植民地支配があることはいうまでもない。と、ずっとそのように考えてきていた。しかし果たしてそれだけなのか。もっと深いところに根を張っているのではないか。 

たとえば、自民党の杉田水脈(みお)衆議院議員のブログ投稿の問題。2016年の国連会議に参加した在日コリアンの女性らについて「チマ・チョゴリやアイヌの民族衣装のコスプレおばさんまで登場」「存在だけでも日本国の恥晒(さら)し」などと書いたことに対して法務省は最近、人権侵犯にあたると認定した、という。 

杉田議員はその後、投稿内容を撤回したものの、最近また、在日コリアンの「在日特権」といったことを持ち出しているという。そのような人物が、どうして衆院議員、それも政権与党の重要ポストに就いていられるのか。 

これに限らず、韓国や北朝鮮の人びとや在日コリアンを理性を超えているとしか思えないように、あしざまに言うヘイトスピーチのたぐいはこの間、数えきれないほど繰り返されてきた。どうしてこうなのか。それらも歴史に根差したものなのか、どうか。 

■「三韓征伐」

こんなことを考えていて私の頭に浮かんできたのは、日本の朝鮮半島支配以前の、たとえば、明治維新前後の時期の「征韓論」だ。なぜ、あそこで「征韓」だったのか。東京大学の小島毅教授は次のように書いている。 

当時のこの隣国の正式な国名は「朝鮮」であり、「韓」ではありませんでした。それなのに、「征朝」ではなく「征韓」なのは、明治政府が神功皇后の三韓征伐を意識していたからでしょう。(小島毅『父が子に語る近現代史』ちくま文庫) 

神功皇后?三韓征伐? これは『古事記』や『日本書紀』に出てくる話である。皇国史観に基づいた戦前の、たとえば『尋常小学国史』は、次のようなことを書いていた。 

▽仲哀天皇の皇后、神功皇后は天皇と共に熊襲の平定で九州に行ったが、途中で天皇が亡くなった。そのころ、朝鮮には新羅・百済・高麗[筆者注:高句麗]の「三韓」があり、新羅の勢いがたいそう強かった。

▽皇后は新羅を従えれば熊襲は自ずと治まると考え、兵を率いて新羅を討った。紀元 860 年[皇紀。西暦では200年]のことだった。軍船を連ねて新羅に押し寄せた。

▽新羅王は大いに恐れ、「東の方角に神国があり、天皇という方がいると聞く。これは日本の神兵に違いない。どうして防ぎ得ようか」と直ちに降参した。やがて、百済と高麗も日本に従うようになった。

▽こうして朝鮮は天皇の徳になびき、熊襲も治まった。次の応神天皇の代に王仁という学者が百済から来て学問を伝えるなど、日本がますます開けるようになったのは神功皇后の手柄によるものであった。 

小島教授は次のようにも指摘する。 

(「三韓征伐」は)日本側が勝手に作りあげた虚構であって、なんら歴史的事実を反映するものではありません。しかし、卑弥呼をモデルとして造形されたこの皇后が、隣国をひれ伏させたとすることによって、実際に記紀が編纂された七世紀後半の国際情勢のなかで、ずっと昔から韓国(当時の王朝は新羅)より上位にあるのだ、という歴史を捏造したのでした。(同) 

■「白村江」への旅

この物語を生み出した当時の国際情勢とはどんなものであったのか。そこで日本側がつくりあげたという歴史観は戦前期に限らず、いま私たちが生きるこの時代にまで尾を引いているということはないのだろうか。 

そんなことを考えているとき、近くにいる友人が声をかけてくれた。「いっしょに白村江へ行ってみないか。いいツアーがある」。私は二つ返事でこの誘いに飛びついた。 

11月初旬、私たちは関西空港から韓国へと旅立った。(つづく)

           立命館大学コリア研究センター上席研究員  波佐場 清

2023年7月29日土曜日

朝鮮戦争休戦70年――『林東源自叙伝』を読んで③陸軍士官学校へ

 

■避難民暮らし

北朝鮮から「越南」して着いた韓国慶尚北道慶山郡の収容施設で新しい生活が始まった。

 <リンゴを貯蔵していた倉庫に数十人ずつ収容された。支給された軍用作業服に着替え、証明写真を撮った。厳しい冬の寒さのなか、日に3度の握りめしをもらって食べ、作業服を着たまま2枚の毛布をかぶり、カマスを敷いた地べたの上で寝る生活が続いた>

 そこが「国民防衛軍教育隊」と知ったのは何日か後だった。ある日、大隊行政兵に選ばれた。石炭ストーブのある部屋で働き、寝食できるようになった。楽園のように思えた。

 5月中旬、国民防衛軍は解散となった。司令官が将兵の食料を横領していたことが分かり、銃殺刑になったのだった。

 <どこで何をしていいやら、途方に暮れてしまった。大隊長は、戦況がよくないのでいっしょに永川(慶尚北道)へ行って様子をみようと言ってくれた。私はただ、ありがたいという思いでついて行った>

 永川では大隊長が借りた部屋にいっしょに住んだ。周囲にはほかにも避難民がいた。そんな人たちといっしょに町中に出かけて配給米を受け取ったり、山裾で薪を採ったり、近くの川で魚を捕ったりして日々を過ごした。

 ■米軍と共に

永川には米軍部隊が駐屯していた。米軍は缶詰食品や菓子のようなものを分けてくれ、部隊の鉄条網の周りは子供たちでごった返していた。チョコレートやガムを配られるたびに争いとなった。

 6月初めのある日、林東源少年が米軍部隊の前をぶらついていると、善良そうな米軍の下士官が近づいてきた。

 <「ハウ オールド アー ユー?」とかなんとかと話しかけてきた。年齢のことだと思い、「エイティーン(18)」と答えると、また、ひとしきり何かをしゃべり、自分について来いと手招きをした>

 ついて行くと部隊内の武器倉庫だった。自動小銃や軽機関銃が保管されていた。米兵はブラウン軍曹と名乗った。

 <布切れと油が手渡され、武器の手入れをする方法を教えてくれた。教えられた通りにやると、とても満足気だった。夕方、仕事を終えると「明日から毎日来て仕事をしよう」と言い、部隊の出入証明書とCレーション[米軍が開発した戦闘糧食]やチョコレートをどっさりとくれた>

 この日から米陸軍憲兵大隊B中隊武器係の非正規従業員として働くことになった。武器の分解と組み立てを習い、一生懸命に働いた。仕事は多く、収入もよかった。加えて、ブラウン軍曹のテントでいっしょに寝泊まりし、米軍の食堂で食事もしたので衣食住の問題はいっぺんに解決した。

 ■釜山で、新たな決意

5110月初め、米軍部隊といっしょに釜山に移動した。臨時の首都だった。部隊は釜山駅近くの小学校に陣取り、そこでも米軍といっしょに起居することになった。それまでの戦場近くに比べると、別世界のようだった。米軍といっしょに教会にも通い始めた。

 釜山では米軍食堂の食品倉庫管理担当として正式従業員に採用された。週1回、釜山港の埠頭で食料品を受け取り、毎食のメニューと人数に合わせて食材をそろえ、料理兵に提供するのが主な仕事だった。いつの間にか「オネスト ボーイ(正直な少年)」というあだ名がついていた。

釜山の米軍部隊で食品倉庫管理係をいていたころ

 釜山で「死の恐怖」から逃れた、と思うと新たな恐怖が襲ってきた。「不確実な未来」に対する恐怖だった。

<休戦を話し合っているというが、うまくいくのだろうか? 休戦になると、故郷に戻られなくなるのではないか? 来年19歳になると軍隊に行かなければならないのではないか? 軍隊に入ったら将校になりたいが、果たしてなれるだろうか?>

 <熱心に祈るなかで、すべては神に任せ、いまは実力を養うために最善の努力を尽くそうと心に決めた。大学に行くにしろ、軍の将校に進むにしろ、試験に通るには実力がなければならないと気付いたのだった> 

■陸軍士官学校受験

大学入試を目標に勉強を始めた。昼間は食品倉庫で働き、時間さえあれば、勉強した。ラッキーにも、時間はたっぷりあった。 

<英語は中学、高校の教科書6冊すべてを学んだ。夜間の英語講習所にも通った。北で習ったのとは大きく異なる国語、歴史、社会生活といった科目を重点的に自習した。数学や自然科学は北で習ったものの方がレベルが高いと感じた> 

ニューヨーク出身の料理兵やボストン出身の上等兵らが私の英語の発音を直してくれ、励ましてくれた。

 52年初冬のある日曜日、教会からの帰り道だった。「陸軍士官学校第3期士官生募集」というポスターが目に入った。募集要項をみると、4年間全額国費で軍事学と理工系大学課程を履修でき、卒業すれば理学士の学位を与え、陸軍少尉に任官する――というのだ。 

<お金がなくても大学教育を受けることができ、将校に任官されるとは、これこそ私にピッタリではないか、とひらめいた。どうせ軍に服務しなければならないのだ。試験を受けてみようと決めた> 

陸士受験のことはだれにも言わず、準備に全力を尽くした。試験は第1次として各地区で学科試験があり、それに合格すると何カ月か後に第2次として大邱で身体検査や面接などの試験を受けることになっていた。 

釜山で学科試験を受けたが、合格できなかったように思えた。

<受験者たちはみな、黒い学生服を着た現役生だった。試験を終えた後でささやく声に聞き耳を立てると、問題は全般に易しかったという。滅入るほかなかった。英語と数学はうまくいったようだったし、自然科学も大丈夫と思ったが、国語と社会生活は振るわなかったと思った> 

いったん、諦めていたが、合格だった。「神の特別な恩寵に感謝する」という以外に言葉はかった。 

■「韓国のウエストポイント」合格

533月、大邱の陸軍補充隊に集合して陸軍病院で身体検査と体力検定を受けた。それに合格したあと陸軍本部で、主に人物判定と英語を重視した面接試験を受けた。 

<試験官が分厚い英語の原書を広げ、「声を出して読み、どういう意味か言ってみろ」という。私は一つの文章を声を出して読み、英国の産業革命について書かれたものだと答えると、試験官は「ワンダフル」とほめてくれた> 

すべての試験を終えると、総合判定官は「合格」と判定し、祝ってくれた。あとで分かったことだが、この入試では250人の定数に対して4100人が学科試験を受け、16倍の競争率だった。 

<私が陸士の試験に合格したことが知られると大きな話題となった。米軍では「オネスト ボーイが韓国のウエストポイント[米国の陸軍士官学校]に合格した」と、まるで自分のことのように喜び、先を争ってお祝いに来てくれた。部隊長も私を呼んで祝ってくれ、部隊の慶事だと喜んだ。韓国人従業員らも会う人ごとに祝ってくれ、誇らしげだった> 

■「Good luck, Cadet Lim, Sir!」

2年間にわたってなじんだ米軍部隊を離れるのだと思うと万感が交差した。

<米軍の人たちへの感謝の気持ちでいっぱいだった。彼らの愛と助けがなかったら、どうして陸士に合格できただろうか。…もし米軍部隊にいなかったなら、私はすでに軍隊に入隊してどこかの高地で戦死していたかもしれない。世間の荒波にもまれ、暗礁に乗り上げていたかもしれない。この間の私の人生は神が恵んでくださった奇跡であり、祝福だというほかに言いようがなかった> 

陸士に入学するため釜山・東莱の陸軍補充隊に集まった日、米軍が憲兵のパトロール・ジープでそこまで送ってくれた。 

<料理兵のスタンリー上等兵が自ら同行を買って出た。彼は車から降りると本を差し出し、「これは米国で買った『This is America, My Country』という米国の歴史の本だ。米国について勉強するうえで役に立つと思う」と陸士入学記念のプレゼントをしてくれた。そしてGood luck, Cadet Lim, Sir!(林士官生徒殿 幸運を祈ります!)」と挙手敬礼で別れのあいさつをして去っていった。私は視界から消えるまで手を振り、感謝の涙を流した> 

■韓国陸士第13

19536月、林東源さんは当時、鎮海(慶尚南道)にあった陸軍士官学校に入学した。20歳が目前だった。韓国で4年制の陸軍士官学校が発足したのは521月で、林東源はその新制3期、通算では13期にあたった。 

戦争は平沢―原州―三陟を結ぶラインから反撃に出た国連軍がソウルを奪還し、38度線一帯で戦線は膠着状態にあった。休戦を前に38度線沿いの地域で熾烈な高地争奪戦が続いていた。                        波佐場 清

 

2023年7月28日金曜日

朝鮮戦争休戦70年――『林東源自叙伝』を読んで②「皇民化」教育と、「唯物史観」と

■鴨緑江で水浴、スケート 
朝鮮半島に住む人々に「聖山」と崇められる白頭山(標高2744メートル)に源を発し、中朝の国境を画して西に流れ、黄海に注ぐ鴨緑江。その中流沿いの村、平安北道渭原[現在の北朝鮮慈江道渭原郡]が林東源さんの生まれ故郷だ。

Googleマップ 林東源さんの故郷・渭原
 薬局を営んでいた父はキリスト教会の長老として教会のために献身し、母も篤実なキリスト教徒だった。そんな両親のもと、1933年7月、2男6女の長男として生まれた。日本が朝鮮の植民地支配を固め、中国東北地方に「満州国」をつくって中国侵略を本格化させていった時期だった。

 <幼いころから「常に学べ、休まずに祈れ、すべてに感謝しろ」という父の教えを受けて育った。私が生涯を通して神を畏れ、肯定的、楽天的な人生観をもつうえで大きな影響を受けた>

 <子どものころ、夏には列を組んで鴨緑江を流れ下る木材の筏(いかだ)を眺めながら素っ裸で水浴をした。冬場には氷結した鴨緑江をスケートで満州側に渡って中国の焼き菓子を買い食いした。そんな日々が思い出される> 

■「皇民化」教育、そして「唯物史観」
 1940年、地元の小学校(翌年「国民学校」と名称変更)入学。日本は「紀元(皇紀)2600年」だといって大騒ぎし、朝鮮半島で創始改名が実施された年でもあった。学校では「皇民化」教育が本格化していた。 

<学校で日本語の使用が強制され、朝鮮語ではなく、日本語で学ばなければならなかった。日本人の校長が毎日、朝礼の時間に朝鮮人児童に日本の天皇がいる東方に向かって深々と頭を下げる東方遥拝をおこなわせ、天皇に忠誠を誓う「皇国臣民の誓詞」を声高に叫ばせた。神社参拝も強要した。私たちは日本の歌を歌い、日本の歴史と神話を習い、天皇に絶対服従する日本国民に改造される教育を受けて育った>

 45年8月、日本の敗戦で植民地からの解放を迎えたのは国民学校6年生のときだった。 

<解放の興奮のなか、私たちの地方でも自治機構である建国準備委員会と自衛隊がすばやく組織された。父は渭原郡建国準備委員会の副委員長兼保健部長に推戴された。叔父も自衛隊隊長になって日本の警察署を引き継ぎ、軍服に似た服装に腕章を巻いて治安の維持にあたった>

 <9月に入ると、私の町にもソ連の軍隊が進駐してきた。マイヨール(少佐)が指揮するタタール族出身のソ連軍人らが日本人を捜し出し、時計や万年筆などの貴重品を手当たり次第に奪うところを、私は何度か目撃した>

 もちろん、学校教育も大きく変わった。 

<解放になると、私たち小学生は1年間ほど集中的に私たちの言葉と文字を習った。小学校卒業が3月から7月に変更になり、私はその後46年9月、家から2キロほど離れた渭原中学校に入学した>

 <海外から帰ってきた知識人や短期の中等教員養成所を出た人たちが教師として赴任した。小学校5年生のとき、日本人の先生以上に日本の天皇への忠誠を強調していた金先生が、こんどは早々と共産党員になり、中学校の歴史の先生になって戻ってきた。彼は自分もよくわからない唯物史観に基づいた歴史を教え、無条件で覚えるよう強要した>

 <中学校で初めて学ぶ英語はとても楽しかった。しかし1学期が過ぎたころ、ソ連軍の下士官がロシア語の先生として入って来て、私たちは英語の代わりにロシア語を学ぶことになった。その下士官は朝鮮語を学び、通訳をしていた教師出身の軍人で、解放直後に駐屯した乱暴な軍人たちとは違う部類のロシア人だった。彼は「カチューシャ」をはじめ、いろいろなロシア民謡を教えてくれた> 

■宣川の高校へ編入 
中学1学年を終えると学制改変で3学年に進級した。小学校が5年制になり、1年ずつ学年が繰り上がったのだった。

 <その年の冬、私は「最初の試練」に直面した。民主青年同盟(民青)が私の信仰生活に文句をつけたのだ。私を民青会の相互批判の場に立たせ、「非科学的でアヘンのような宗教を捨て、科学的な民青の隊列に加わることを約束せよ」と責めたてた> 

<そんな時、父がいつも強調する言葉が思い浮かんだ。「神を畏れ、すべてに感謝し、何事にも忠実であれ」。神への背信はありえないことだが、だからといって民青から脱退処分を食らえば学校を退学させられる恐れがあり、それこそ進退窮まるという状況だった>

 父は、そんな長男を故郷から遠く離れた宣川(平安北道)の学校へ送る計画を進めた。そこは鴨緑江河口付近の新義州から京義線に沿って60キロほど南に位置する町だった。朝鮮のキリスト教発祥の地として知られ、この地方の教育と文化の中心地だった。植民地時代にも4つの大きな教会と中等学校があった。

 <冬休みを終えたあと、48年春の新学期から宣川高級中学校[高校に相当]の1年生に編入した。奇跡のようなことだった。複雑な手続きも踏まずに渭原から宣川に移ることができたばかりでなく、中3から高1に飛び級編入できたのだ。うまく勉強についていけるか、ということだけが問題だった> 

宣川高級中学校は1906年の開校以来、聖職者や医師、教育者など多くの人材が輩出した歴史と伝統を誇る名門の後身校だった。

 ■統制強化
 48年は国の分断が定着化した民族悲劇の年だった。4月、北での南北連席会議に南からも金九、金奎植氏らが参加/済州島民衆蜂起▽5月、南だけで国会議員選挙実施▽8月、大韓民国樹立宣布▽9月、朝鮮民主主義人民共和国樹立。

 <北では5月初めから太極旗の代わりに「人共(人民共和国)旗」が掲げられた。そこでは愛国歌に代えて「〽朝は輝け…」で始まる新しい国歌が歌われた> 

<その年秋のある日のことだった。朝の体操の時間に学校の寄宿舎に政治保衛部員が不意に押し入り、民青委員長ら民青幹部を逮捕していく事件が起きた。ソウルの組織と連携して反共活動をしたことが発覚したのだといわれた。噂によると、彼らは裁判も受けないまま阿吾地炭鉱(咸鏡北道)に引っ張っていかれたという。反共傾向のある学生指導者らが1人、2人と除かれていった>

<宣川に対する集中統制が強まった。咸鏡道訛(なまり)の者たちが党と行政機関を握り、統制を強め始めた。私たちの学校では外部から転入してきた、学生らしくない学生が民青幹部になり、監視と教養事業を強化し始めた>

 49年になると人民軍将校が高校に配属され、軍事訓練が始まった。

 <私たちの学校にも2人の人民軍少尉が来た。私たちのクラスは毎週水曜の午後、4時間ずつ訓練を受けた。木銃を持ち、分隊攻撃、小隊攻撃などといった攻撃訓練だった。中隊攻撃訓練をするときは全学年がいっしょになり、野山に出かけた。その行き帰りには玉の汗を流しながら「スターリン大元帥の歌」や「金日成将軍の歌」を歌い、駆け足で移動した> 

<民青の(労働新聞を読み合う)「読報会」や教養事業の時間には、太白山脈や小白山脈一帯の人民遊撃隊活動など「南朝鮮人民の祖国統一に向けた英雄的な武装闘争」が集中的に注入され、それに対する支援と祖国統一の決意が求められた>

 ■朝鮮戦争勃発 
49年の冬休みの帰郷が父母との最後の別れになるとは夢にも思わなかった。 

<休みが終わって家を発つ前夜、母はとっておきのカレーの缶を開け、鶏肉のカレーライスをつくってくれた。物資が貴重ななかでこのようなご馳走をいただくのはなかなか期待しがたいことだった。この夕食が全家族そろっての最後の晩餐となった。私はその後、カレーライスを食べる度に母のことが思い出され、涙を抑え切れなかった>

 50年6月、1カ月にわたる高校の卒業試験が一段落したところで朝鮮戦争が勃発した。

 <(戦争が勃発した)6月25日、日曜の朝、目を覚ましてみると、外から尋常でない拡声器放送の声が聞こえてきた。耳を疑い、急いで外に出てみると、同じ内容を繰り返していた。「本日明け方、南朝鮮軍が共和国に対する全面的な武力侵攻を行った。これに対して人民軍最高司令官は『撃退せよ』との命令を下した」>

 <寄宿舎のあちこちから戦争が起きたのではないかとのささやきが聞こえてきた。私は急いで食堂へ走った。戦争が起きたようだとの話でもちきりだった。「何日か前、毛布で窓を覆い、軍人や大砲を載せた列車が大挙、連続して南の方へ移動していた」「最近、人民軍配属将校が急に姿を消したことも関連があるようだ」「これはこれまでの38度線の衝突事件とは違う。大規模な戦争が起きたようだ」>

 <すぐに動員令が出された。人民軍に徴集される生徒が増え、ひそかに身を隠す者も増えていた。卒業式に出ようという気にもなれなかった。私は親友の家に身を寄せていた。しばらくしてから、混乱に乗じ、汽車で平壌の母の実家へ行った。そこで様子を見守ることにした>

 ■「越南」
 北朝鮮軍は奇襲南侵から4日でソウルを占領。さらに南進を続けたが、米国主導の国連軍の介入で8月初めに洛東江防衛線で攻勢は止まり、9月中旬、国連軍の仁川上陸作戦で敗退し始めた。韓国軍と国連軍は10月初め、38度線を突破して北進を始めた。10月20日、平壌を席捲。10月末、西部戦線で清川江ラインを、東部戦線では清津以南の咸鏡道地域の大部分を確保した。 

しかし、「38度線を越えるなら座視しない」と警告していた中国軍の介入で、国連軍の進撃は止まり、11月初めから撤収し始めた。中国軍の総攻勢で12月5日からは平壌からも退き始め、12月末にはソウルが再び脅かされ始めた。

 <平壌からの撤収が始まると、私は従兄といっしょに避難民にまじって南に向かった。貨物列車便で沙里院を通り、歩いたりしながら死線を越え、ソウルの鷺梁津に着いた。12月中旬のことだった。何日か後、再び南下する貨物列車に乗り込んだ。ある田舎の駅に着くと、警察が大勢の人たちを降ろさせた。私もそこで降りた。従兄の姿は見えなくなっていた> 

そこから歩いて着いたところが慶尚北道慶山郡慈仁面の果樹園にあった収容施設だった。
                         (つづく)  波佐場 清                            

2023年7月27日木曜日

朝鮮戦争休戦70年――『林東源自叙伝』を読んで①/41年ぶりの妹

 少年は日本の植民地下、朝鮮半島の付け根、中国との国境を流れる鴨緑江沿いの山村に生まれた。国民学校(小学校)6年生の夏、日本の敗戦で解放されると同時に国は南北に分断された。北朝鮮に組み込まれた地域で高級中学校(高校)に通っていた19506月、朝鮮戦争が勃発。混乱のなか少年は家族らと別れ、独り避難民にまじって南の韓国に逃げて来た。 

身寄りのない少年は在韓米軍に下働きとして雇われ、苦学の末、陸軍士官学校に入って軍人になり、戦争とも平和ともつかぬ休戦の最前線などで北朝鮮軍と向き合った。やがて国際冷戦終結の波が朝鮮半島に及ぶなかで南北和解に身を投じることになる。いったん明るい展望が開けたかのようにも見えたが、いままた、断絶が深まり、平和は見通せない。 

韓国の元統一相、林東源(イムドンウォン)さん(90)のことである。金大中政権(19982003年)下、大統領の右腕として対北「太陽政策」を推進したことで知られる林さんは昨年10月、自ら歩んできた道を振り返る『林東源自叙伝』(原題『다시,평화 임동원자서전』)を出版した。https://www.youtube.com/watch?v=WWhrABGvC1w 

7月27日は朝鮮戦争休戦協定締結70年。朝鮮半島の人々にとってこの戦争、そして休戦体制とは何だったのか。平和体制をどうつくり上げて行ったらいいのか――。そんなことを考えながらこの書を読んだ。印象に残った一部を抄訳で紹介する。(立命館大学コリア研究センター上席研究員 波佐場 清) 

199010月、平壌

林東源さんが17歳で「越南」した後、再び北の地を踏んだのは41年後の199010月のことだった。国際冷戦の終結に伴い、南北間で高位級(首相)会談が開かれることが決まり、盧泰愚政権下の韓国で外交安保研究院長になっていた林さんはその南側代表団の一人になっていた。9月に第1回会談がソウルで開かれたのに続き、第2回会談が101718日の両日、平壌で開かれた。 

2日間の会談が終わった日の午後、南側代表団一行は錦繍山議事堂に金日成主席を表敬訪問。その夜、北側が設定した夕食会の行事に臨んだ。宿所に戻ると、午前零時が近かった。予期しない出来事が待っていた。 

<午前1時ごろ、ドアをたたく音がした。北と南の責任連絡官がいっしょに部屋に入ってきて「林先生、きょうだいたちと会ってみましょう。妹の林東淵と弟の林東振をここに連れてきました」と言うのだった。私は、わが方の代表は北にいる家族と会わないことになっている、と断ると「ほかの方々も会うのです。林先生だけそうおっしゃらずに、会ってみなさい」と言ってドアを開き、廊下の方に向かって手招きをした> 

南側連絡官の安企部職員も(南側代表団のメンバーで、北に家族関係者がいる)姜英勲首相と洪性澈統一院長官も家族との面談を始めたといい、会うようにと勧めた、という。 

14歳の女学生と、おばあさん

<ずいぶんと年取って見えるおばあさんと若い青年が私の前に立っていた。どう見ても2人が私のきょうだいなのか、見分けがつかなかった。妹の東淵は私より3歳年下で、弟の東振と最後に会ったのはまだ2歳の赤ん坊のときだった。東淵は私の記憶のなかでは14歳のかわいい女学生の顔だけが残っていた。あまりにも苦労が多かったせいなのかどうか、おばあさんの顔からはまったくその面影を見いだせなかった。東淵の方も41年ぶりに会う兄がほんとうにそうなのかどうか、面食らったようすだった> 

林東源さんは2人を座らせ、気持ちを落ち着かせてから確認にかかった。

<父母、姉妹の名前を聞き、わが家の建物の構造、庭のライラックの木や花々のことなど、思い出すままに聞いた。すべてを正確に答えた。妹に間違いないようだった。そんな時、急に47年前だろうか、東淵が小学校に入学した日の朝のことが思い出された> 

<その日の朝のことを覚えているかと聞くと、「兄さん、今もしっかりと覚えています。お父さんが私の誕生日を日本語で教えてくださり、復唱してみろ、と言うので私が「ジュウイチガツ トオカ(1110日)」というべきところを「ジュウイチガツ トッケビ」[「トッケビ」は朝鮮半島に伝わる「お化け」の意]と言ったものだから、兄さんは笑い転げて、からかったでしょう」と言うのだった> 

<私は妹を抱きしめ、ワーッと泣いた。あふれ出る涙が止まらなかった。妹も声を上げて泣いた。しばらく泣き合ったあと東淵は、母は朝鮮戦争の時に39歳の若さで亡くなり、父は医師として動員され、江界[北朝鮮慈江道の道都]の病院で激務のなか30年前に亡くなったと聞かせてくれた。子どもたちのために苦労ばかりで、親孝行一つしてもらえずに亡くなるとは……。全精魂と愛を尽くして育てた息子である私の生死も分からないまま、どれほど辛い日々を送って亡くなったことか。私は父母に孝行を尽くさなかった罪人なのだ> 

<私たちは涙の海から抜け出せなかった。わが民族の悲劇、分断と同族同士で殺し合った悲劇、そして離散家族の悲しみを私たち兄妹ですべて背負い込んでいるような気持になった> 

2週間前に問い合わせ

妹の東淵は江原道元山近くの田舎の病院に薬剤師として勤務し、弟の東振は同じ地方のセメント工場で10トントラックの運転手として働いていると言った。ほかの姉妹らもみな、元気で暮らしていると聞かせてくれた。妹と弟は、私が生きているなんてとても信じられなかったという。 

2週間ほど前に(当局から)「林東源という人を知っているか?」との問い合わせがあったが、その時も亡くなった人のことをいまごろどうして聞くのだろうか、と思ったという。そして1週間前、平壌に出頭しろとの指示を受けた。平壌に来てみると、南北会談のビデオを見せて兄さんに間違いないか、と確認を求められた。父にそっくりで生年月日も合っているし、宣川高級中学校に行っていたというものだから、兄に間違いないようだ、と答えたものの、信じられなかったという> 

■声高に政治宣伝

林東源さんは、南に来て韓国軍に入隊し、陸軍士官学校を卒業、陸軍将校として勤務し、将官として予備役編入後、外国で大使として勤務し、いまは外務省傘下の研究院長をしていることなど、その間の概略を話し、家族のことも話してやった。そして、どれほど苦労したのか、北での暮らしについて知ろうとした。 

<その時、賢明な妹は黙ったまま、文字を書く紙がほしいというものだから、1枚渡すと、「兄さん、私たち北のことについて良いように言ってください。言葉に注意してください」と書いて渡すのだった。私はすぐに、これは録音テープを持たされているのかもしれないと考えた。妹と弟のためにもここは用心深く話すことにした> 

<この時から政治宣伝が始まった。声高に「私たちは偉大な首領金日成主席のあたたかい懐のなかで、なにうらやむこともなく幸せに暮らしています」といい、平等な社会だとか、幸福に満ちあふれる社会だとかを、のべつまくなしに次々と並べ立てた。「早く統一しないといけない」「統一できないのは帝国主義者たちが南朝鮮を強制占領しているからだ」「ソウルに帰ったら、反米闘争を展開しろ」「国連に一つの議席で入ることに兄さんは先頭に立って反対しているそうだが、そんなことをしないで支持しろ」といった言葉が続いた> 

<私はただ黙って聞いてばかりいた。弟の東振が熱を上げるのを見ていると本ものの「アカ」[社会主義者、共産主義者や共産党のことを指す隠語]であるかのように思えた。2人は平壌に呼ばれて徹底した教育を受けたのだろう。こんなに惜しまれる時間をそんなことを言って無駄にするとは……。しかしそれも詮(せん)無いことだった。どうせ、言えということをすべて言ってしまわないといけないのだから>

■小型ラジオ、スカーフ、調味料…

林東源さんはカメラの自動シャッターを使って記念写真を撮った。そして、ソウルから持ってきた土産物の包みを出した。 

<実際のところ、北の代表と案内人にあげろと安企部が用意してくれたものだった。しかし妹はどうしても受け取ろうとしなかった。それで私は、これらは北の人たちにあげようと思って持ってきたもので、たいしたものではないのだと率直に言い、一つひとつ包みを解いて見せてやった> 

<小型ラジオ、ウォークマン、カセットテープ、シルクのスカーフ、ネクタイ、手袋、ティーシャツ、パンティ、アンダーシャツ、調味料、味付け海苔などだった。米貨千ドルも出した。このお金もやはり、安企部が準備してくれたものだった。説得のすえ、受け取ることになったものの、当局に納めると言うものだから、思った通りにしろ、と言ってあげた。どうせ、当局の許可なしには持てないのだろうから> 

いつの間にか午前2時半過ぎになっていた。別れる時が来たようだった。 

■「私たちは大丈夫です」

<妹は心配と愁いに満ちた表情だった。「兄さん、私たちは大丈夫だから安心してください。きのうの夜、テレビのニュースで敬愛する金日成主席におかれて兄さんたちと会ってくださり、南朝鮮の代表たちといっしょに記念写真を撮られる場面が出ていました。明日の労働新聞に金日成主席がいっしょに撮られた写真が大きく出ることでしょう。その写真を切り抜き、額縁に入れて掛けておいてずっと見ています。わが家の栄光です。もう大丈夫です」。このように自らを慰めるようにいう、その言葉が私を限りなく悲しませた> 

<いまとなっては、越南者、それもいわゆる「傀儡政府」の高官の家族に分類されることになったのだから、生き残った家族を苦しみに陥れるのだ、という罪責感が私を襲った。流れ出る涙を止めようがなかった> 

2時間ほどの再会を終え、外に出るとマイクロバスが待っていた。 

<「早く統一していっしょに暮らそう」「また、会える日までおたがい体に気をつけよう」。そう言って、再会の約束もできないあいさつを交わして別れた。部屋に戻るともう、3時になっていた。ベッドに横になったが、眠れなかった。亡くなった父母のことを思い、涙で夜を明かした> 

<翌朝、配られた民主朝鮮と労働新聞の1面に20×30センチの大きな写真が載っていた。金日成主席と姜英勲首相の間の後列に私が写っていた。この写真を切り抜いて額縁に入れて見る妹たちのことを考えながら宿所の百花園を発った> 

■姜英勲首相の辞任

会談を終えてソウルに帰るとすぐに、韓国代表団が北にいる家族と会ったことが、マスコミの厳しい非難にさらされた。1022日、東亜日報が「姜首相、平壌で妹に会う」との見出しの特ダネ記事を1面トップで報じると、各紙が競ってこれを追い、会談代表の道徳性を問題にした。 

姜英勲首相は「離散家族問題の解決もできないのに1人だけ北の家族と会ったことについて1千万離散家族に対し丁重に謝罪」するとし、「残務整理が終わったところで発表しようと考えていて遅れ、物議をかもしたのは遺憾である」と表明。結局、このことが姜首相の辞任に結びついていったのだった。

   

朝鮮半島のほぼ全域に戦火が及び、戦線が大きく動いた朝鮮戦争では多くの家族が散り散りになり、南北の離散家族は1千万人にのぼったともいわれる。20006月に初めて開かれた南北首脳(金大中-金正日)会談では南北離散家族の再会事業をおこなうことで合意。以来、188月までに計21回行われたが、192月の米朝首脳会談決裂後、朝鮮半島情勢が冷え込んだ影響ですでに5年近くおこなわれていない。 

関係者の高齢化が進んでおり、韓国の聯合ニュースによると、韓国側の離散家族再会申請者は235月末現在、計133680人を数えるが、うち70%近い92千余人がすでに亡くなった。再会事業が中断された後、この5年近くの間だけでも約16千人が死亡したとみられる、という。                    (つづく)

 

2023年1月28日土曜日

北朝鮮の「在韓米軍容認論」

米国のポンペオ前国務長官が最近出版した回顧録で、20183月、北朝鮮の金正恩総書記から「在韓米軍は必要だ」と告げられたと明らかにした、と各メディアが伝えている。それによって中国から自らを守ることができるという趣旨の発言だったという(https://www.47news.jp/world/8860910.html)が、北朝鮮の「米軍容認論」自体は、先代の金正日総書記の時代からの一貫した方針だったようだ。

■『林東源回顧録』

北朝鮮が在韓米軍を容認していることが広く知られるようになったのは、北朝鮮に対して「太陽政策」をとった韓国の金大中大統領の側近、林東源氏の回顧録によるところが大きい。

金大中政権(19982003年)で大統領外交安保首席秘書官や統一相、国家情報院長などを務めた林東源氏は退任後の2008年に回顧録『ピースメーカー』(日本語版『南北首脳会談への道』岩波書店南北首脳会談への道―林東源回顧録 | 東源, 東源, 林, 清, 波佐場 |本 | 通販 | Amazon)を出版。その中で林氏は自ら同席した初の南北首脳会談(2000年6月、平壌)における金正日氏の在韓米軍容認発言を公にしている。

■『林東源自叙伝』

詳細は同書に譲るが、林氏は昨年10月にソウルで新たに出版した『林東源自叙伝』(原題『다시,평화 임동원자서전https://youtu.be/WWhrABGvC1wでも、その要点を次のように書き記している。

ソウルで出版された『林東源自叙伝』

金正日国防委員長(労働党総書記)は金大中大統領に秘密の事項について申し上げるといい、在韓米軍の問題について次のように話した。

1992年初め、金容淳書記を米国へ特使として派遣し、『北と南はもうけんかをしないことで合意した』と伝え、『米軍が引き続き残り、南と北が戦争しないように役割を果たしてほしい』と頼みました。……『東北アジアの力学関係から考えて朝鮮半島で平和を維持しようとするなら米軍がいるのがいい』と言ってやりました。金大中大統領は『統一した後も米軍はいなければならない』と言われたそうだが、私の考えも同じです」

この時の首脳会談の10日前、林東源氏は水面下の事前準備のため大統領特使として北朝鮮を訪問し、中国国境近くの新義州の別荘で初めて金正日委員長と会談。そこでも在韓米軍のことなど対米関係についての金正日委員長の考えを聞き出していた。

 ■「朝鮮半島の平和維持軍に…」

新しい『自叙伝』は次のように書いている。

 金正日委員長は米国との関係についても率直な考えを聞かせてくれた。

  「朝鮮半島の問題は外国勢力に頼らず、わが民族同士で力を合わせ、自主的に解決していかな ければならないという自主の原則が重要です。もちろん、歴史的な経験の上からも、朝鮮半島が置かれた地政学的な位置から見ても、米国といい関係を保つことが非常に重要です。金大中大統領は東北アジアの平和と安定のために統一後も米軍は引き続き駐屯すべきだと主張されているが、実際のところ、私も米軍の駐屯自体、別に悪いわけではないと思っています」

予想外の発言に私は耳を疑った。金委員長は続けた。

  「ただ、在韓米軍は共和国[北朝鮮]に対して敵対的な軍隊ではなく、朝鮮半島の平和維持軍に地位と役割が変更されなければならないということです。……われわれは過去の敵対関係を清算し、米国との関係を正常化することを重要な目標にしています。米国との関係が正常化すれば、米国が憂慮するすべての安保問題を解消できます」

■「中国人はうそつきだ」

今回、ポンペオ氏が回顧録の中で金正恩総書記の発言について触れたのはトランプ前政権下の20183月、中方情報局(CIA)長官として平壌を極秘訪問したときのことについてだ。

共同電などによると、ポンペオ氏が金正恩氏との会談で「中国共産党は一貫して米国に対し、米軍が韓国から撤収すればあなたが喜ぶと言ってきた」と水を向けると、金正恩氏は笑いながら「中国人はうそつきだ」と応じ、「中国共産党から自分を守るために在韓米軍は必要だ」と述べたという。

さらに、金正恩氏は「中国は朝鮮半島をチベット、新疆ウイグル両自治区のように扱うため、米軍撤収が必要なのだ」とも語ったという。

■米朝急接近と決裂

米中覇権競争下、次期米大統領選で共和党からの出馬を目指しているとも伝えられるポンペオ氏の今の時点での発信は、たぶんに政治性を帯びた部分も含まれていそうだ。しかし、金正恩氏の「在韓米軍容認」発言自体は、先代金正日政権時代のことから判断して、その時点における率直な考えだったとみるのが自然だろう。

米朝はポンペオ氏のこの時の極秘訪朝のあと急接近。1カ月半後の186月、シンガポールでトランプ大統領と金正恩総書記による史上初の米朝首脳会談が開かれ、米朝関係改善などをうたった共同声明を発表した。続いて翌192月、両氏による2度目の首脳会談がベトナムのハノイで行われたが、決裂。両国関係は再び冷え込んでいったのだった。

              (立命館大学コリア研究センター上席研究員 波佐場 清)