国立公州博物館は武寧王陵のある宋山里古墳群のすぐ近くにあった。武寧王陵の出土品を中心に大田・忠清南道地域の文化財2万点を展示しているという。折から「1500年前の百済武寧王の葬儀」という特別展を開催中だった。
国立公州博物館 |
523年に武寧王が亡くなって今年でちょうど1500年。特別展は武寧王の葬儀を復元し、百済王室の葬儀文化にスポットをあてた企画という。展示品を見る前に、そもそも武寧王とはどういう王だったのか。
■5人の王
百済はすでに見たように、475年に文周王が漢江下流域をすてて公州(旧名熊津)に来てから聖王が538年に扶余(旧名泗沘)に移るまでの60余年間、ここを都にした。その間、5人の王が統治した。
第22代文周王(在位475~477)▽第23代三斤王(477~479)▽第24代東城王(479~501)▽第25代武寧王(501~523)▽第26代聖王(523~538/以後扶余に遷都し554年まで在位)――である。
これらの王は百済の再興をめざし、深刻だった支配層内部の混乱も収まって国政は安定に向かった。高句麗の圧力はその後も続いたが、武寧王は高句麗に攻め込む一方、伽耶地域への拡大もはかり、領域内の支配体制を確立した。中国南朝の梁や倭との外交活動にも手腕を発揮し、倭には五経博士をはじめ諸博士を派遣して倭の文化振興に貢献した。 (李成市「古代国家の形成と発展」吉田光男編『韓国朝鮮の歴史と社会』放送大学教育振興会)
この武寧王の後を継いだのが、その息子で、この地で5人目の王となった聖王だった。博物館の売店で買った図録は特別展の趣旨について次のように書いてあった。
523年に武寧王が崩御した後、525年に墓に安置されるまで、息子の聖王は心を尽くして三年の喪に服した。本展では、武寧王の葬儀を執り行って王位を継承し、より強い百済を目指した聖王を心に刻んでもらおうと、武寧王と聖王の2人を主人公にしている。
■聖明王
聖王とは、日本に仏教を伝えたことで知られる、あの聖明王のことである。
高校の教科書はこう書いている。
百済の聖明王(聖王、明王とも)が欽明天皇の時に仏像・経論などを伝えたとされるが、その年代については538年(『上宮聖徳法王帝説』『元興寺縁起』)とする説と552年(『日本書紀』)とする説があり、前者の説が有力である。……(『詳説日本史B』山川出版)
すでに見たように聖王が、百済が60余年間王城にしていた公州を逃れて扶余へ遷都したのは538年だった。つまり、まさにその同じ年に、この聖王が日本に仏教が伝えていた、ということになるわけである。
■百済と倭国の関係
ここで、古代の百済と倭国の関係についてみておきたい。遠山美都男『白村江 古代東アジア大戦の謎』(講談社現代新書)を参考にかいつまめば次のようである。
本格的な外交が成立したのは4世紀だった。397年、百済は倭国とよしみを結び、その証しとして太子の腆支(とき/直支)を人質として送った。この時期まで百済は高句麗の隷属下にあったが、4世紀中ごろから独立をめざすようになり、そのために倭国の軍事力を必要とした。
百済からすれば、倭国との軍事同盟はしょせん高句麗との戦争を前提にしたもので、高句麗の脅威が薄らげば、その必要もなくなる。倭国はそのことが知りながら百済に対し軍事的な支配権をもっていると主張したがった。
6世紀以降も軍事同盟は維持された。百済は主として中国の南朝から入手した当時最高の文化や技術を、軍事援助の見返りとして倭国に贈与した。仏教のほか、儒教や易学・暦学・医学などの博士が定期的に百済から倭国に派遣されたのも、軍事援助への報酬という意味合いがあった。
いずれにしろ、武寧王による五経博士の派遣や聖王による仏教公伝は、日本の飛鳥文化の幕開けへとつながっていったのである。
■日本の木材で作った棺
公州博物館では、特別展を中心に見て回った。そのコーナーには武寧王陵出土品を中心に126件が展示されていた。埋葬者が武寧王と特定できた墓誌石、遺体を納めた木棺、王が身に着けていた装飾品、玄室と外部をつなぐ羨道で見つかった、墓を守る想像上の動物という石造の鎮墓獣などだ。
墓誌石。武寧王の名前と死亡年月日、葬儀に関することなどが刻まれ、裏面には干支図が描かれている。
公州博物館HP |
鎮墓獣。高さ30センチ、長さ47・3センチ、重さ48・2キロ。頭に角があり、本体には翼が付いている。墓を守り死者の魂を神仙世界に導くとされていた。博物館前の広場にはこの鎮墓獣を模した大きな石像が据えられている。
金製かんざし。王の頭付近で見つかった。長さ18・4センチ、幅6・8センチ。髪に挿す部分は鳥の尾を形象化している。
公州博物館HP |
公州博物館HP |
木の枕と足座。 表面に漆を塗った後、金板を付けて六角柄を作り、その各隅と内側を金の花柄で飾ってある。枕の木材はイチイ。高さ20センチ。
興味深かったのは木棺だ。軒を付けて家の形につくってあり、長さ248・8センチ。日本固有の材、コウヤマキ(高野槙)を用いている。実際、この王は、桓武天皇の生母高野新笠との「ゆかり」に限らず、日本との関係は深かったようだ。
武寧王が眠っていた木棺 |
『日本書紀』には、この王は日本で生まれた、と書かれている。(つづく) 波佐場 清
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