2023年12月8日金曜日

日本と「ゆかり」の王/百済歴史散策③

2日目、私たちはまず、公州市街地から北西へ約1キロ、錦江のすぐ南側の丘陵地にある宋山里古墳群に向かった。日本の植民地期、1930年代に日本人によって発見された「熊津百済」期の古墳群で、現在、7基が「王陵」として整備されている。 

■武寧王陵

目玉は何と言っても、武寧王(在位501523)と王妃を合葬した武寧王陵である。19717月、それまでに発掘された古墳の排水施設工事をしていて偶然見つかった。 

盗掘など、荒らされた形跡はなく、木棺や副葬品が完全なかたちで残っていた。出土した墓誌石から、被葬者は武寧王とその王妃とわかった。三国時代の古墳は数多く見つかっているが、被葬者の身元が特定できたのはこれが唯一という。 

「公州武寧王陵と王陵園」と書かれた料金所のゲートをくぐると、ゆるやかな丸みを帯びた古墳群があった。芝生できれいに整備されている。そのうちの一つ、直径20メートルほどだろうか……、それが武寧王陵だった。

武寧王陵あたりの古墳群

 入り口は固く閉ざされていた。保存上、19977月、国の文化財庁が「永久非公開」を決めた、という説明が表示されていた。近くに実物を再現したレプリカがつくられ、そこで内部を疑似体験できるようにしてあった。

丘陵の上の方ではいまも発掘調査が進められている。

 ■天皇の「韓国とのゆかり」発言

武寧王といえば、思い出されることがある。先代天皇(明仁上皇)が20011218日、68歳の誕生日を前にした記者会見で、平安京遷都で知られる桓武天皇とのからみで、この武寧王のことに言及したのである。次のような内容だった。  

私自身としては、桓武天皇の生母が百済の武寧王の子孫であると、続日本紀に記されていることに、韓国とのゆかりを感じています。武寧王は日本との関係が深く、この時以来、日本に五経博士が代々招へいされるようになりました。また、武寧王の子、聖明王は、日本に仏教を伝えたことで知られております。(宮内庁HP) 

日韓共同開催となった2002年のワールドカップ・サッカー大会を翌年に控えての発言だった。桓武天皇の生母とは高野新笠(たかののにいがさ)のことである。 

上皇はここで、日韓の古代の良好な交流について述べたあと、両国関係はそのような交流ばかりではなかったことも指摘し、「両国の人々が、それぞれの国が歩んできた道を、個々の出来事において正確に知ることに努め、個人個人として、互いの立場を理解していくことが大切」と話した。そして、ワールドカップを機に両国民の間に理解と信頼感が深まることを願う、と述べたのだった。 

この「韓国とのゆかり」発言は波紋を呼んだ。韓国の主要新聞はこれを1面で大きく報じた。その時、私はたまたま出張でソウルにいたのだが、宿泊していたホテルのフロント係に感想を求めると、「驚いた。天皇の祖先がわが国の人だったんですね」と戸惑いの表情だったのを印象深く覚えている。 

■高野新笠

上皇は、特別なことを言ったわけではない。高校の教科書は次のように書いている。 

光仁天皇は、行財政の簡素化や公民の負担軽減などの政治再建政策につとめた。やがて781(天応元)年に亡くなる直前、天皇と渡来系氏族の血を引く高野新笠のあいだに生まれた桓武天皇が即位した。 (『詳説 日本史B』山川出版) 

京都女子大名誉教授の瀧浪貞子さんは今年8月に出した近著で、すこし詳しく書いている。 

  新笠は和乙継(やまとのおとつぐ)を父、土師真妹(はじのまいも)を母として生まれた。『新撰姓氏録』[筆者注:古代氏族の出自を記した平安初期の書]によれば、父方の和氏は「百済国の都慕(つも)王の十八世孫、武寧王自(よ)り出(い)づ」と記し、『続日本紀』(延暦八年<七八九>十二月二十八日条)にも、「后(新笠)の先は百済の武寧王の子純陀(じゅんだ)太子より出づ」と記されているように、百済国王を始祖とする渡来氏族だという。都慕王(「とぼおう」とも)は扶余(ふよ)を開国したと伝える伝説上の人物であり(武寧王の子、純陀太子は継体(けいたい)七年<五一三>八月に亡くなったことが伝えられている)、一族は武烈(ぶれつ)天皇の時に「帰化(きか)」したとされている(『日本書紀』)。  (瀧浪貞子『桓武天皇――決断する君主』岩波新書) 

高野新笠については作家の司馬遼太郎も次のように書いていた。 

   百済から渡来した者の子で、実家はなお百済の遺習をもっていたらしい。父は奈良の小吏であった。田地もさほど多くはなかったらしいが、いずれにしても桓武の意識のなかにはつねに諸蕃[『新撰姓氏録』で渡来人の子孫とした氏]のことがあった。かれが中国風の祭天の儀式をおこなったのも河内の交野(かたの)の百済村においてであろう。そのやりかたも百済村に遺っていたものに準拠したと思われるし、さらにかれは百済王家をひきたて、その後宮にその系統の女性を何人も入れたりした。(司馬遼太郎『空海の風景(上)』中公文庫) 

司馬がここで、新笠の実家になおもあったとする「百済の遺習」とは、どういうものだったのだろうか。 

■出土4600

さて、現地の宋山里古墳群。武寧王陵のレプリカの内部に入ってみる。


王と王妃が眠っていた玄室は、南北方向に長さ420メートル、東西の272メートル、アーチ形天井の高さは293メートル。壁面はぎっしり積まれた、塼(せん)とよばれる煉瓦で覆われている。中国南朝の梁(502557)の強い影響がうかがえるという。 

ここから、のちに国宝に指定される17点を含む約4600点の遺物が出土した。それらは近くの国立公州博物館で展示されている。私たちはそこへ向かった。(つづく)

                                波佐場 清

参考資料(百済歴史散策①~③)

小島毅『父が子に語る 近現代史』(ちくま文庫)

文部省『尋常科用 小学国史上巻』(昭和15年2月27日発行)

姜在彦『新版朝鮮の歴史と文化』(明石書店)

姜在彦『歴史物語 朝鮮半島』(朝日選書)

文科省検定教科書『詳説日本史B』(山川出版)

瀧浪貞子『桓武天皇――決断する君主』(岩波新書)

司馬遼太郎『空海の風景(上)』(中公文庫) 


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