2026年11月4日水曜日

金忠植『5共 南山の部長たち』/韓国民主化40年(74)

  ■李姫鎬夫人の前でズボンの裾をまくり、足を掻く全斗煥

金大中夫人の李姫鎬には、全斗煥大統領の図太さとその口達者ぶりが印象的だった。

「死刑にしようとしていた内乱陰謀の『首魁』の妻にたいし、街の不動産屋のおじさんがそこらのおばさんに接するように、ごく普通に対応した。時どき、ズボンの裾をめくり上げて足を掻きながら気楽に話すユニークな人だった」(『李姫鎬自伝』)


▽獄中生活2年

この面談があったあと、1982年の「3・1節」の特別赦免で、金大中は無期懲役から懲役20年に減刑された。無期であれ、20年であれ、一生監獄で果てるということでは同じなので、李姫鎬は大きく失望した。

金大中の清州刑務所での監獄生活はほぼ2年に及んだ。

その間、読書で時間を過ごし、600冊近くを深く読み漁った。哲学、神学、歴史、政治、経済関係の本を手あたりしだいに読んだ。アルビン・トフラーの『第三の波』で新しい時代の潮流に目を開いたのも、その時のことだったと自伝に書いている(『金大中自伝』)。

刑務所で見る夢のなかに時計が出てくると釈放されるという俗説がある。

それで、金大中も時計が出てくる夢を見ることを切に願った。そんなある日、ついに時計の夢を見た。どの壁にも時計がいっぱいに掛けてある時計屋の夢だった。金大中は心中、これは大変な夢だと思い、釈放を待った。しかし、何の効果もなく、釈放の日は来なかった。自らを振り返り、みじめな境遇に苦笑いするばかりだった(同)。

 「本を読み、精神の倉庫に知識はたまっていったが、肉体的には非常に苦しかった。神経障害が生じ、左の耳に耳鳴りが始まった。持病の股関節の痛みがひどくなり、脚がしょっちゅう腫れて、つった。妻は何度も法務部に、外部で治療を受けられるよう許可してほしいと要請書を送ったが、受け入れてもらえなかった」(同)

 ▽「米国で治療を受けませんか」

 1982年12月初め、全斗煥は盧信永に指示した。

「全斗煥大統領は82年の『8・15光復節』の特別赦免のときも金大中の釈放を考えていたが、周り(新軍部)の反対で実現しなかった。そうしているうちに大統領は12月に入って、わたし(盧信永安企部長)を呼び、近日中に李姫鎬と会って話し合うよう命じた」(『盧信永回顧録』)

12月10日、安企部の幹部が獄中の金大中を訪ね、「体の具合もよろしくないのですから、米国へ行って治療を受けられませんか」と探りを入れた。

金大中は、光州抗争の関連者など、まだ数えきれないほど多くの身柄拘束者がいるなかで、すぐに応じることはできなかった。とはいえ、股関節の痛みで苦しんでいたこともあり、「そうまで言うなら、国内で治療を受けられるようにでもしてもらいたい」と答えた。

それから何日かして、安企部長の盧信永は李姫鎬と会った。

12月14日、盧信永の方から直接李姫鎬に会いたいといい、安企部幹部が「エスコート」した。プラザホテルの21階に来い、というので李姫鎬がそこへ行くと、景福宮近くの秘密の施設に連れて行かれた。

盧信永は、李姫鎬に言った。

「わたしが安企部長でいるうちにこの問題を解決したいと思っています。2~3年、米国に行って病気の治療を受けるよう(金大中に)勧めてみてください。返事をいただければ、大統領閣下に進言して家族もいっしょに出国できるようにします。ただ、これはわたし個人の考えなので、内密にお願いします」(『李姫鎬自伝』)

 大統領の指示だったが、自身のアイデアだといって「緩衝地帯」を設ける――これが盧信永の慎重さだった。

 ▽上申書

 何日か後に清州刑務所へ面会に行った李姫鎬は、夫にたいして米国に行って治療を受けよう、と勧めた。金大中は、拘束されたままの同志たちがまだいるというのに、自分だけが米国へ行くことはできないではないか、と言うのだった。

 力が抜けた足取りでいったん、面会の場を出た李姫鎬は、こんどは安企部幹部といっしょに戻ってきて、もう一度説得を試みた。「わたしたちが米国へ行ってこそ、拘束された同志たちも出て来られるようになるのだそうです」。側にいた安企部幹部もその通りだと口添えをした。そう言いながら上申書を一通書くよう求めるのだった。

 「米国では病気の治療に専念し、政治活動はおこなわない」という趣旨だった。金大中は安企部幹部が望む通りのことを書いた。ところが、家に帰り、息子の金弘一にそれを見せたところ、「拘束者の釈放」という内容が抜けていることに気が付いた。

 李姫鎬は慌てて盧信永部長と会って事情を話し、修正しなければならないのでもう一度夫に会わせてもらいたいと頼み込んだ。

 しかし、盧信永安企部長はたいしたことでもなさそうに受け流した。

 「この上申書は大統領閣下に上げるためのものであって、とくにどこかに発表するようなものではありません。そういうことなら、心配なさらないでください。何なら、わたしが証人になります」(『李姫鎬自伝』)

 李姫鎬は「盧信永部長の人格を信じます」と言って引き下がった。ところが、その内容がそっくりそのままメディアに公開されてしまった。どんなことがあろうと2度と政治に関われないよう足枷をはめておこうとする5共のやり口だった。

 ▽盧信永の謀略

 『李姫鎬自伝』には、盧信永部長の「活躍」がさらに出てくる。

 金大中の渡米にあたり、安企部が旅費を与えた、と言いふらして在野の関係者らとの間を裂こうとした、というのである。こう書いている。

 「朴英淑さん(のちに平民党副総裁や国会議員を歴任)がやってきて、わたしに尋ねた。『おかしな噂が出回っています。朴炯圭、金寛錫、李海東牧師が盧信永安企部長と会ったところ、金大中氏に15万ドルを渡した、というのです。それって、ほんとうでしょうか』と言うのだった」

 李姫鎬はあきれ果ててしまった。

 証拠を見せてやった。自費で換金した6万8000ドルと、飛行機のチケット代234万2400ウォンの領収証を見せてあげると朴英淑は、安心して帰っていった。

 李姫鎬の記録はさらに続く。

 盧信永部長が詩人の金芝河に外遊を勧めながら、金大中を陥れるくだりである。

 金芝河の著書『白い陰の道』を、ある人物が持ってきてくれたので読んだのだという。

 「盧信永は(金芝河に)言った。『金大中をよくご存じでしょう。愛国の方向がお互いに違うのだから、何をとやかく言うことがありましょう。けど、このところ、国の外貨事情がとても悪いのです。それなのに、自分の全動産をドルに換金してくれないなら、米国に行かないという。米国に行かないと、どうなりますか。大変なことです。それで換金してやったのですが、どこにそんな大金があったのか。それをすべてドルに換金しようというのだから……。ちょっと釈然としないものを感じましたよ』(金芝河『白い陰の道』)

 李姫鎬は「相手によって言葉を変える盧信永の老獪さにはゾッとした」と言い、こうも付け加えている。

 「米国で夫が股関節の手術を受けるとなると相当なお金がかかるだろうと思うと、家族としてずいぶんと心配だった。義弟が銀行に勤める妹に特別に頼んで工面したお金を、かれら(安企部)を通して換金を頼んでいた。そもそも、2回にもわたって家中をひっくり返して現金や若干のドルまで押収していったのは、いったい誰だったというのか。その後も、わたしたちは『李姫鎬は(全斗煥の妻の)李順子から20万ドルをもらった』だとか、『金大中は、全斗煥が提供した特別機で米国に行き、豪華な亡命生活を送っている』といった、わたしたちに関する悪質な噂が日本の新聞などで報道された。そのようにして民主化運動を共にした人たちとの間を引き裂こうとする卑劣さには、耐えがたいものがあった」(『李姫鎬自伝』)

 ▽全斗煥の絶賛

 文民(外交官)出身の安企部長の必死な「忠誠工作」は、常に青瓦台を感動させていたようだ。

 1983年10月にも全大統領は、盧信永安企部長の執念と熱意、そしてその忠誠に賛辞を送った。

 「宗教の問題で、盧信永部長は献身的に飛び回っている。高永根、尹攀熊、文益煥、咸世雄、李文永といった宗教界や学界の人物と会い、それぞれ7~8時間ずつも寝食を忘れて何度も説得し、話し合っている。結果、少しずつ懐柔されているという報告を受けた(盧信永の誇張した報告だった可能性もある)。強硬策だけで問題が解決できるというものでもないのだ。過去、強硬策が却って奴らをのさばらせることになったりもした。盧信永は国際問題に明るく、そちらの方は報告を受けなくても十分に分かっているので、国内の問題だけに全力を注いでいるのだそうだ。許文道(文公部次官)も、宗教家たちとしょっちゅう会うべきだ。下の者たちからは『安企部長が直接出てきているのでやりにくい』といった話も聞くが、下にいる者たちがやるべきことをやらないから、部長が直接乗り出しているのではないのか」(1983年10月27日、朴哲彦の証言)

 ▽「金大中を釈放、米国に送る」

 盧信永部長は「金大中釈放」発表の2日前、ウォーカー駐韓米大使およびCIAのソウルの責任者であるケネディ支部長と会って事前に知らせた。

盧信永(当時外務部長官)とウォーカー駐韓米大使=1981年8月

 米国が待ちに待ったその吉報にウォーカー大使は「冗談じゃないでしょうね」と聞き返した。盧信永が「米国はビザを出してくれるのか」と言うと、「そうなれば、どれほどいいでしょうか。今日すぐにでも発給しますよ」と喜んだ(『盧信永回顧録』)。

 1983年12月15日午後6時、大統領の全斗煥は、盧信永部長や関係長官(閣僚)、側近らを青瓦台の会議室に呼んだ。集まった者たちとお茶を一杯飲み交わしたあと、立ち上がり、出がけに厳粛にこう言い放った。

 「金大中を釈放して米国に送ることにしました」

 たったの一言、いっさいの反論は聞かない、とばかりの一方的な通告だった。

 つい1年前までを考えても、「金大中」という言葉さえ聞けば、目を三角につり上げていた新軍部の同志たちはただ驚き、呆然となった。まさに政治とは生き物なのだ――そう実感させる瞬間だった。

 ▽出国

 1983年12月16日、金大中はソウル大学病院へ移送された。

 1週間後の12月23日に出国、という通告に金大中は驚いた。米国行きを許した理由について、金大中はこう分析した。

 「全斗煥政権が急いで出国させたのは、鉄拳統治で民主勢力を抹殺したことによって国内外の逆風を受けていたところへ、李哲煕・張玲子夫婦の手形詐欺事件のような悪材料が重なったため、イメージ転換をはかろうとしたものだった。さらには、拘禁されたわたしの釈放を求める国内外からの圧力に耐えきれなくなったのだろう」(『金大中自伝』)

 金大中が出国する時間、ソウルの金浦空港に続く道路は、街灯がすべて消され、漆黒のような闇だった。

 米国行きの飛行機も、大韓航空のチケットを渡されていたのだが、実際に乗せられたのはノースウエスト機だった。記者たちの同乗取材を防ぐための陽動作戦だった。

 飛行機の座席に座ると、清州刑務所の副所長を名乗る人物が近寄って来て、ポケットから何か紙を取り出して読み上げた。

 「刑の執行停止により、釈放する」

 飛行機はワシントンのナショナル空港に向けて飛び立った。李姫鎬と2人の息子も乗せられていた。770日間にわたる米国滞留の始まりだった。

                    訳:波佐場 清

            

 

 

0 件のコメント:

コメントを投稿