2026年3月26日木曜日

金忠植『5共 南山の部長たち』/韓国民主化40年(3)

 ■車智澈への牽制役

 車智澈には金鍾泌が言っていたように、どこか「間抜け」のようなところがあった。そんな人物を晩年に重用した朴大統領も判断力が鈍っていた、と申鉉碻(当時の副総理)は酷評している。

 1977年、文洪球首都軍団長が警護室長の車智澈に(まるで上官に対するかのように)かしづいていた時のことだ。

 ▽「青瓦台を網で覆え」

 車が、文将軍はじめ警護室幹部らを集合させておいて、一席、こんな訓示を垂れた。

 「北朝鮮の空からの浸透は、休戦ラインからの風を利用すれば、パラシュートで青瓦台本館の屋上に降り立つことも可能だ。よって、本館全体を昌慶苑(動物園)の鳥類保護網のように覆う計画をつくれ」

 文は、ためらいながら反論した。

 「ほかの方法ならいざ知らず、本館全体に網をかぶせるというのは、ちょっと難しいと思います。国民の家は放っておいて、いくら差し迫った事情があるからといって、大統領の家だけをあんなふうにするのか、と言われたら、何と答えたらいいのでしょうか。青瓦台は、外国の元首や外交官がしょっちゅう出入りするところでもありますし…」

 車智澈はそれでも、まともに聞こうとせず、ほかの将官に任せたが、結局のところ、とんでもない発想であったため、うやむやになった。

 ▽90度の礼

 文洪球の回顧は続く。

76年に初めて警護室に入ると、車智澈が室長だった。車に会うと、専属の副官を呼んだ。その時、副官は90度に深く腰を折って礼をした。「まるで天皇陛下にでもしていたような最高の礼だ」と旧日本軍で訓練を受けていた文は思った。車は、こう言った。

「われわれ警護室の人間は全員、あのようにしなければなりません。文将軍もあのように室長に礼をすべきです」

警護室の要員には、ドイツのナチ親衛隊の服装に似た制服を着させていた。そうして迎賓館の大ホールに整列させ、大統領に忠誠を誓う杯を挙げるのだった。

「車智澈が朗々とした声で大統領万歳の音頭を取り、『命をかけて閣下を守る』というスローガンを声の限りに叫ぶ。その様子は真面目なようでもあり、また、見ようによっては偽善のようにも見えた。そんなことを言っておきながらも1026の大統領暗殺現場ではトイレに逃げ込んだ車智澈のではなかったのか」(文洪球回顧録)

▽非難の的

そのころの車智徹の振る舞いのひどさは、まったく目に余り、非難の的となっていた。

青瓦台の秘書室では、午前7時半に首席秘書官会議が始まり、8時~8時半の間に秘書室長がその内容をまとめて大統領に報告していた。報告案件で説明が必要なときは、担当の首席秘書官が秘書室長についていく。ある日、政務首席秘書官の高建が金桂元秘書室長のあとについて朴大統領の執務室に入った。

 そこに警護室長の車智徹が先に、来ていた。

 警護上の緊急の懸案など、あろうはずもないだろうに、車智澈は譲ることもなく、後ろ手に組んだまま立っていた。大尉出身の警護室長が、特別に急ぐこともない報告を、陸軍大将出身の秘書室長金桂元に譲らないというのか? 1026の大統領暗殺事件が起きると、青瓦台の内外あちこちから「車智澈の奴(やつ)、とうとう、やらかしてしまったな」との陰口が聞かれた(高建の証言)。

 車智澈は口のきき方も横柄だった。

 ▽「老いぼれ、死んでしまえ」

 国会議長の白斗鎮(190893)は車智澈より26歳も年上だったが、部下のように扱った(実際、白斗鎮は国会で車智澈系だったとする記録は多い)。金桂元79年に合同捜査本部でおこなった陳述の記録にも車智澈の図に乗った言動のことが出てくる。

 79620日――つまり、1026の約4カ月前のことだ。

 朴正煕大統領は、ソウルを訪れた日本の福田赳夫元首相と京畿道・器興の冠岳ゴルフ場(現在のリベラ・カントリークラブ)でゴルフをした。そこに金桂元、車智澈白斗鎮もいっしょに加わった。プレーの後、風呂に入ったのだが、シャワー室の数が少なく、最初に入った白斗鎮を裸のままで待っていた車智澈が、たまりかねて、言い放った。

 「おい、早く出ろよ。老いぼれは、さっさと死ぬべきだ」(車智澈)

 「申し訳ありません」(白斗鎮)

77年ごろ、国防部長官の盧載鉉は、首都軍団長の文洪球を呼んで慨嘆した。

 「車智澈は最近、あまりにも我儘(わがまま)が過ぎる。どう思いますか。このようなこと、大統領閣下はご存知なのでしょうか」

朴正煕政権最後の国防長官盧載鉉(左)と朴大統領=19793

そんな盧載鉉の鬱憤を見ていた青瓦台作戦次長補の盧泰愚も回顧録の中で「盧載鉉長官は、車智澈室長が軍に干渉するのを苦々しく思っていたし、車室長は、金載圭情報部長とは昔から関係がよくなかった」と書いている。

 ▽「抑え役」全斗煥

 国防長官の盧載鉉は、全斗煥少将は自分の味方であると確信していた。

 全斗煥が保安司令官になれば、車智澈室長を牽制できるとみていた。そんなところへ、情報部長の金載圭と秘書室長の金桂元は、盧載鉉と「グル」ではなかったにせよ、車智澈には、ほとほと愛想をつかしていた(実際のところは、保安司令官の後任として金載圭は首都軍団長の文洪球(中将)を、車智澈は警護室次長の李在田(中将)を、それぞれ密かに望んでいたと盧載鉉は後日、全斗煥に話している)。

 車智澈を抑え込むには、全斗煥しかいない!

 国防長官盧載鉉のアイディア――大統領閣下が十数年にわたって可愛がり、南侵トンネルも発見した全斗煥なら、きっとうまくいくだろう、という計算は当たった。

 ▽大統領への街道

 しかし車智澈だけは、この決済が出ると、盧載鉉長官に不満をぶちまけた。

車は「閣下も最初は、あまりにも早すぎる、と否定的だった人事ではないか」と盧載鉉に厳しく当たった。ただでさえ、朴大統領に可愛がられている全斗煥を警戒し、迫害してきた車智澈である。

そんな紆余曲折のなかで、全斗煥は保安司令官になり、翌年、だれも想像することすらできなかった、大統領への街道を歩んでいく。嵐が吹き荒れる、流血の、おどろおどろしい道ではあったが、1026の変乱に乗じて、「ハナ会」という軍閥は、全斗煥を押し立て、一糸乱れぬ進撃をしていったのである。

0 件のコメント:

コメントを投稿