2026年3月20日金曜日

金忠植『5共 南山の部長たち』/韓国民主化40年(1)  

 韓国が民主化して40年になろうとしている。軍事独裁政権下、大統領を直接選ぶことなどを求めて立ち上がった民衆の抗争は1987年、血涙で現行の民主憲法を勝ち取ったのだった。以来、この国の民主主義は順調とばかりもいえなかった。大きな危機もあった。一昨年12月の尹錫悦前大統領による非常戒厳の発令はその最たるものだった。現職大統領が軍事力で国会の機能を止めようとした、この「上からのクーデター」の企ては、すんでのところで食い止められたのだった。そんななか、語られたのは軍事政権下の「80年代の教訓」だった。市民、政治家、そして戒厳で動員された一部兵士までもが、その教訓を生かし、体を張ったのである。

 一方でこの間、「不断の努力」も続けられてきた。あの時代の歴史の掘り起こしも、その一つである。先頭に立つ一人に元東亜日報記者の金忠植さんがいる。韓国が民主化されて間もない1990年代初め、金さんは、朴正煕政権(1961~79年)の暗部を抉(えぐ)った「政治工作司令部KCIA――南山の部長たち」を同紙に連載。大反響を呼び、単行本として出版されると50万部を超すベストセラーとなった(日本語版は『実録KCIA』講談社)。KCIAとは、朴正煕政権の独裁権力を支え、その所在地から「南山」の隠語で呼ばれた韓国中央情報部のことである。

 その連載から30年――。金忠植さんは新たに、その続編を書き下ろした。韓国で「第5共和国(5共)」といわれる全斗煥政権(198088年)の権力内部に切り込んだ『5共 南山の部長たち』(全2巻、2022年出版)である。ここでは全斗煥政権下5人の「南山の部長」(中央情報部長1人と、名称変更した後身の国家安全企画部長4人)を軸に、その軍事政権の闇を暴いている。その内容をここに、訳出したい。

 日本の民主主義が危うくなってきている。韓国では、自らが「たたかい取った」その民主主義と比べ、日本の「与えられた」民主主義の脆(もろ)さを指摘する声がある。韓国の民主主義とは、どんなものなのか――。

            立命館大学コリア研究センター上席研究員  波佐場 清 



金忠植(キム・チュンシク)

1953年、全羅北道生まれ。

77年、高麗大卒。

東亜日報に30年間在職し、主に政治部で国会、政党、青瓦台、外務部を担当。文化部長、社会部長、東京支社長など。

慶応大学博士。

現在、嘉泉大学教授。

  1章 男が行く権力街道、そこをどけろ

48日間の「お手盛り」情報部長

中央情報部(KCIA)の第10代部長は全斗煥である。

1961610日、ソウルの南山中腹に中央情報部を創設したのは金鍾泌だった。

目的は、朴正煕政権の「革命公約を遂行するうえで障害となる要因を除去し、安全保障(反共、北朝鮮)に関する国内外の情報を収集すること。また、安保関連の犯罪を捜査し、軍を含む国家各機関の情報・捜査活動を調整、監督すること」とされた。 

▽超法規的「スーパーパワー」

欧米の自由民主先進国でこのような例はなかった。

大統領直属の機関とし、その捜査権を検察の指揮下に置くのではなく、その上位に置いた。また、業務遂行に必要な協力と支援を全国家機関から受けられるようになっていた。組織の構成、所在地、定員、予算や決算などは秘密であり、さらには予算も他の省(部)庁の予算に上乗せして計上する特殊な組織だった。

米国の中央情報局(CIA)をモデルにしたのだが、それとは比べものにならないほど強力な権限を持っていた。

南山の中央情報部はまさに万能、超法規的な「スーパーパワー」だった。仮に米国にたとえるなら、連邦捜査局(FBI)、検察、警察、軍の捜査機関をすべてCIAの下に置いたかたちの、あり得ないような権力機関が韓国の中央情報部だった。 

▽9人の部長

初代の金鍾泌部長に続き、金容珣、金在春、金炯旭、金桂元、李厚洛、申稙秀、金載圭、尹鎰均(職務代行)、李熺性(代理)の9人が順繰りに部長をつとめた。

朴正煕時代の第3共和国と第4共和国(維新政府)は、これら9人の政権操舵手兼政治工作司令部トップに牛耳られ、挙句の果てに1979年、金載圭情報部長の銃撃によって朴正煕の18年間は幕を下ろしたのだった。 

▽「故郷に錦」

全斗煥が中央情報部長に就任したのは1980414日のことだった。

遡ると、全斗煥がまだ大尉だった63年、中央情報部長が金容珣から金在春に交代した時期に、その情報部長の下で人事課長を務めていた(その前に大尉として国家再建最高会議[訳注:1961年の軍事クーデター直後に発足した軍事政権の最高統治機関]の民情秘書官も務めた)。したがって、17年後に古巣の組織にトップとして戻ってきたというわけである。「現場組」がトップに上り詰めるのは情報部では初めてのことだった。それまでの部長はいずれも朴正煕の指名による落下傘人事だった。

金忠植著『5共 南山の部長たち』

全斗煥は、大尉から将官となり、部長として故郷に錦を飾った、ということになる。 

▽ゴリ押し

 全斗煥は現役軍人の中将(国軍保安司令官[軍内の防諜や保安、情報収集を担当した国軍保安司令部のトップ]でありながら中央情報部長を兼任したため、正式な肩書は「部長代理」ということになった。法的には、現役軍人はなれなかったのだが、彼とその参謀たちが強く求めたのである。

 時の大統領、崔圭夏が反対したばかりでなく、国務総理の申鉉碻も戒厳司令官の李熺性も、さらには青瓦台政務首席秘書官の髙建も、こぞって引き止めたのだが、とうとう「お手盛り兼任」を強行してしまったのである。そこまで無理をして押し通した理由と経過については、のちほど詳しく記録することになるだろう。

 そうして1カ月半余りの間、全斗煥は中央情報部長をつとめた。 

 ▽大金を流用

8062日、全斗煥は中央情報部長の辞表を出した。前日、反対勢力を一掃して発足させた統治機構、国家保衛非常対策委員会(国保委)のトップ(常任委員長)になり、大統領同様の権力をふるえる立場になったからだ。それで、もう情報部長を続ける余裕も、必要もなくなったのである。

全斗煥の情報部長としての任期は短かったが、その権力は強大で、大きな足跡を残した。

79年末に朴正煕が暗殺された後、漂流していた中央情報部を安着させ、リストラによって組織を整え直した。そして何よりも、中央情報部の予算120億ウォン(韓国の年間国家予算総額の約15%に相当)を新しい政権づくりに必要な国家保衛非常対策員会(国保委/全斗煥政権を支えた民主正義党の産婆役ともなった)の創設や運営資金に流用した。政治資金をとくに集める必要はなかったのである。 

間接選挙で大統領就任

中央情報部長を辞めた全斗煥は、空席となったその座を、軍の先輩である兪学聖中将(1979年の「1212クーデター」[全斗煥少将らを中心とした新軍部勢力が軍の実権を掌握した反乱]に加わった一人)に譲った(80718日)。

全斗煥(左)から兪学聖へバトンタッチ(80年7月)


全斗煥は国保委常任委員長という中継ぎのイスを8月末に蹴り、80年9月1日、大統領に就任する。こうして、とり急ぎ、朴正煕の維新憲法に基づいた代議員による間接選挙で大統領になった後、その年秋に憲法を改正し、新たな第5共和国(5共)憲法の下で812月、5共の大統領として就任し直したのだった。 

▽5人の「南山の部長」

 5共では中央情報部を国家安全企画部(安企部)と改称し、5人がその部長をつとめた。

 全斗煥、兪学聖、盧信永、張世東、安武赫である。

 このうち、盧信永だけが外交官出身の民間人であり、あとの4人はいずれも軍の将官出身だ。全斗煥は、憲法上では5共が始まる前に情報部長に就任しているが、大きく見て5共に分類していいだろう。兪学聖は、全斗煥の次の中央情報部長となったが、8111日、中央情報部が国家安全企画部(安企部)と改称されたのに伴い、そのまま安企部長となった。 

 ▽第10代中央情報部長

 5共の部長5人について語るには、まず、第10代情報部長となった全斗煥の成長過程や、朴正煕が急死した79年の「1026暗殺事件」のことを振り返らなければならない。そして、その直後に起きた「1212クーデター」、80年の「517反対勢力一掃」[80517日に全斗煥ら新軍部がおこなった非常戒厳令の全国拡大と、それに伴う有力政治家や民主運動家らの一斉検挙]、「518光州抗争」[80年5月18日から27日にかけて光州市内で起きた民主化要求の大規模な市民蜂起/光州事件]について見ておくべきだろう。

 なぜなら、「5共鉄拳統治」の右腕となった「南山の部長」(安企部長)たちは、5共スタート期の非道な下克上による流血クーデターと光州抗争、そしてそれによる正統性の欠如によって全斗煥政権期の8年間を通してずっと凄絶な戦いを繰り広げなければならなかったからである。その相手は、学生、野党、在野勢力、労働者、民主化勢力、そして国民世論だった。

 5共の「南山の部長」たちは、その誕生に根源を発する限界と戦いながら、8年という歳月の日々を、リレー競技のようにバトンを引き継いでいったのでる。その壮絶な戦いは、情報部長、安企部長たちの使命であり、運命でもあった。

 <訳者コメント>

 訳文中の小見出しは、訳者が入れました。 軍の情報機関である保安司令部のトップだった全斗煥は、国全体の情報を統括する中央情報部のトップを兼任することで情報を独占。権力奪取の第一歩はそこから始まったのでした。

 

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