■全斗煥の3人の恩人
全斗煥には生涯、3人の恩人がいた。
李東圭(義父)、朴正煕、そして朴鐘圭(元大統領警護室長)である。
朴正煕は、第3共和国および維新政権(第4共和国)の大統領として軍人全斗煥を異例の抜擢で育て上げた。朴大統領は全斗煥大佐を、第1空輸特戦旅団長▽73年の将官進級▽75年の青瓦台警護室勤務▽78年の師団長赴任▽79年3月の国軍保安司令官――と、その節目、節目で特別に面倒をみてやった。
▽「朴正煕の養子」
それで、「朴正煕の養子」と呼ばれたりしていた。
東亜日報の故姜聲才記者(元青瓦台担当、2002年死去)は「全斗煥と金復東[全斗煥と陸軍士官学校(陸士)同期、妹は盧泰愚夫人]は、朴大統領の養子と言われている」と言っていた。全斗煥が第1師団長の時、その管轄区域の京畿道坡州を選挙区とする国会議員朴命根(共和党)が、党の公認取り付けに力添えしてほしいと師団衛兵所[詰所]の前で跪(ひざまず)いたというから、なるほど、その陸軍少将としての威勢ぶりは察しもつこうというものである。当時の駐韓米大使グライスティーンの回顧録にも全斗煥に関し、「父親のような朴正煕」とするくだりが出てくる。
「70年代以降、全斗煥大佐をはじめとする『ハナ会』[全斗煥らが軍内部につくっていた秘密組織]の何人かの将校は(朴大統領からもらった貴重な)日本車のクラウンセダンを持っていた。将官クラスでもジープか、韓国車のコロナだったのに、かれらは違っていた。ハナ会の会長は全斗煥で、会員らは活動費をもらっていた。財閥からも支援金をもらい、大統領からも活動費をもらっていた。役職によっては『一心』[ハナ会の「ハナ」を意味した]という文字が入った指揮棒をもらっていた」(1979年当時の合同参謀本部長、文洪球の回顧)
▽保安司令官に大抜擢
そんな全斗煥の「ハナ会」を後援した先輩グループに尹必鏞、朴鐘圭、徐鐘喆、黃永時、車圭憲、柳鶴聖、陳鍾埰らがいた。
維新政権末期の79年3月、第1師団長全斗煥の保安司令官への抜擢は軍隊社会にあって、まさに驚天動地といえる事件だった。
少将の階級で「天下の第1師団長」になったのも早かったが、その師団長も1年2カ月で卒業し、中将が赴任するポストである保安司令官というのだから、みな、驚くほかなかった。
そのパズルから解いていかなければなるまい。
保安司令官というポストにいたからこそ、その1年半後に、大統領にまで上り詰めることができたのだから……。
全斗煥の前任の保安司令官である陳鍾埰まで、保安司令官は三つ星(中将)以上のポストだった。陳鍾埰の前任の保安司令官金載圭も、朴正煕の陸士同期かつ中将だった。ところが、二つ星、それもまだ若造の四十代の少将が、前任の陳鍾埰が第2軍司令官に出たあとを引き継いだのである。
▽維新末期の「パワーゲーム」
陳鍾埰司令官は、大統領警護室長の車智澈 [中央情報部長の金載圭と対立、朴大統領と共に金載圭に暗殺された]が中傷したせいで、追い払われた。
| 1961年5月のクーデター直後の朴正煕(中央)、朴鐘圭(左)、車智澈(右) |
陳鍾埰司令官は、車智澈の指揮下にいた警護室の某将官を呼んで賄賂容疑で調べた。しばらくして陳鍾埰は、警護室のある警護官の思想問題について朴大統領に直接報告した。そんなこともあって陳鍾埰は車智澈に睨まれ、第2軍司令官に左遷された。
アイロニーというほかない。
かつて車智澈室長のもとで警護室作戦次長補として、あれほどまでに気苦労を重ねていた全斗煥少将が、朴大統領の暗殺という車智澈の敷いたレールに乗り、遂には権力の頂点にまで駆け上がったのである。いかにも摩訶不思議な人生物語の一断面といえる。
全斗煥の保安司令官抜擢には、黄昏に差しかかった維新政権末期の凄まじい「パワーゲーム」が影を落としていた。そこからは長期政権に酔いしれた朴正煕の権力欲、忠誠独占欲を読み取ることができる。筆者は、朴大統領の最後の秘書室長だった金桂元氏(1923~2016)から生前、全斗煥が保安司令官に昇進した背景について聞いたことがある。
彼は笑いながら、こう答えた。
「朴大統領の抜擢人事でした。全斗煥が好きだったのです」
▽国防長官盧載鉉が推挙
全斗煥を保安司令官に推挙したのは、国防部長官の盧載鉉だった。
金鍾泌、金桂元、鄭昇和、朴俊炳、張世東、許和平らの証言や記録を総合してみても、その点は完全に一致している。
それにしても、なぜ、全斗煥だったのか?
当時、大統領警護室長の車智澈は数々の越権行為や横暴で、軍部と権力中枢にあって、みんなの「共通の敵」であり、憎悪と指弾の的になっていた。
訳:波佐場 清
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