2024年1月27日土曜日

「三国統一戦争」/百済歴史散策⑨

私はいま、この原稿を盧泰敦著(橋本繁訳)『古代朝鮮 三国統一戦争史』(岩波書店)をなぞるかたちで書き進めようとしている。韓国人である著者は、百済、高句麗、新羅の3国が争い、結局、新羅が朝鮮半島地域を統合した7世紀のこの戦争を「三国統一戦争」と位置づけ、次のように書いている。 

  韓国史でもっとも大きな影響を与えた戦争は、二〇世紀の朝鮮戦争と三国統一戦争であった。今日、南北朝鮮に住む人々の生は、朝鮮戦争を離れて考えることができないように、七世紀後半以降、我々の祖先が生きてきた軌跡は、三国統一戦争が残した遺産の上に進められた。 

  この戦争で三国は、唐・日本およびモンゴル高原の遊牧民国家など隣接諸国と関係を展開しており、これは周辺の強大国家に囲まれた朝鮮半島の国家が直面しなければならない厳しい現実を理解する鏡となりうる。 

その通りのように私も思う。いま、この北東アジア地域の見るに、中国の急激な台頭と膨張志向はどこか、あの時代と重なって見えなくもない。一方で、分断された朝鮮半島の南北断絶は新たな「二国時代」の到来を思わせる。そんななかにあって日本はどんな立ち位置をとり、どう動くべきなのか。そんなことも頭の片隅に、当時のことを追っていきたい。 

■著者と訳者

本論に入る前に著者など、この書のことを奥付で見ておくと概略、次のようである。 


2012年424日 第1刷発行

盧泰敦(Noh,Tae-Don) 1949年、慶尚南道昌寧郡生まれ。ソウル大学史学科大学院文学博士。ソウル大教授、ソウル大奎章閣韓国学研究院長。著書に『韓国史を通してみた我々と世界についての認識』(1998年)など。

橋本繁 1975年生まれ。早稲田大学大学院文学研究科博士後期課程修了、文学博士。専攻は朝鮮古代史。「浦項中城里碑の研究」(『朝鮮学報』)など。 

■唐の膨張政策と高句麗の対抗策

645年、唐の高句麗侵攻は失敗に終わったが、唐はいぜん、東アジアの国際情勢を主導する唯一の強大国だった。高句麗を滅ぼして唐中心の国際秩序を築こうとする膨張政策をそのまま堅持した。各国の動向に立ち入ると、次のとおりである。 

≪唐≫ 

高句麗から撤退した直後、薛延陀を大破。さらに647年から648年にかけ、高句麗に対して小規模な攻撃を繰り返した。そんなとき、新羅の金春秋(キムチュンチュ/のちの武烈王)が唐に入った。高句麗遠征に執念を燃やす太宗(李世民)はこれを歓迎、両国関係は新たな進展をみせていった。 

≪高句麗≫

唐の再侵略に備え、10年以上をかけて遼東平原に築いてきた「千里長城」を646年に完成させた。一方で唐の膨張に共同で対処しうる外国との連衡をはかり、西方遠くソグド地方にまで使者を送った。そのことを示す壁画が1960年代、ウズベキスタン・サマルカンド市郊外のアフラシャブ宮殿址から見つかっている。 

アフラシャブ宮殿壁画の高句麗使臣(右端の2人)  KOREA.net
一方で、高句麗は海を越えて倭との連携を強め、百済と連合して新羅への軍事圧力をかけ続けた。 

■対応迫られた百済、倭国、新羅

≪百済≫

647年から649年にかけて百済は毎年、新羅に攻撃を加えた。唐の意向に逆らった百済には、高句麗が唐の攻撃を阻止できるとの判断があったとみられる。一方で百済は対唐破綻を避けようと651年、朝貢使節を派遣したが、そんな二股政策はいつまでも続かなかった。 

≪倭国≫

唐の高句麗遠征さなかの6456月、倭で「乙巳の変」が起き、中大兄皇子と中臣鎌足が蘇我氏本宗家を追放。孝徳天皇が即位し大化改新を進めた。唐帝国の膨張で緊迫する国際情勢下、危機意識の高まりが変化への動きを触発したのだった。 

653654年、倭の朝廷は630年以来の遣唐使を派遣。一方で高句麗・百済と交流し、新羅とも交渉するなど全方位の姿勢をみせた。百済と新羅が、倭国を物産豊かな大国とみなして競って交流を求めてくるのを横目に情勢をうかがっていたとみられる。 

≪新羅≫

唐の勢力東進が高句麗によっていったん阻止されたことで、新羅は百済と高句麗の挟み撃ちに遭うかたちとなった。百済と連携した倭の動向も気になった。倭は6469月、唐留学生出身の国博士高向玄理を新羅に遣って話し合いを試みた。そんななかで647年初め、新羅で貴族間の内紛が起き、その後の三国統一戦争に大きな影響を及ぼしていった。 

■金春秋と金庾信

新羅の内紛は「毗曇(ピダム)の乱」といった。新羅最初の女王善徳王の後継候補として再び女性が浮上すると、毗曇という人物を中心とする貴族グループが反乱。王族の金春秋を中心に武将の金庾信(キムユシン)らがこれを鎮圧し、二人目の女王真徳王を立てて実権を掌握していった。 

ソウル南山公園の金庾信像 海外文化弘報院HP
新羅の半島統一に大きな功をあげていくことになる金庾信は、新羅に併合された加耶王室の後裔だった。血統を重んじる新羅にあって出身身分は高くなかったが、妹が金春秋の妻だったこともあり、両雄が連携して中央集権体制づくりを進めていった。 

■新羅と倭国の模索

内部を固めた新羅は金春秋自らが先頭に立って積極外交に乗り出す。647年、前年から倭国の使者として新羅に滞在していた高向玄理といっしょにまず倭国に渡り、続いて翌648年、唐に乗り込んだ。 

金春秋の倭国行きについて『日本書紀』は、倭の「質」要請に応じたとしている。しかし倭国からすぐに帰国し、そのまま唐への使者となっていることなどから見て、「質」という表現は、「蕃国」の新羅に対する日本の優位を示すための作為とする見方がある。 

玄理と春秋の相手国相互訪問は何かをめぐって両国の協力が試みられたことを感じさせる。当時、唐と途絶状態にあった倭としては新羅を通じて唐に改善の意向を伝えたかったとみられる。新羅には倭を「新羅-唐」側に引き入れようとする意図があったとみられる。 

倭はしかし、新たな可能性を探ったものの、対外政策の基本は変えなかった。結果的にそれは百済との友好関係を重視することを意味した。そのことを察知した金春秋は新たな突破口の模索へと動いた。それが続く、唐訪問だった。 

■「新羅-唐」同盟

金春秋は唐で歓待された。高句麗を攻めあぐねていた唐は、高句麗西部の国境線のほかに第2の戦線を設けてその防御力を分散させようと考えていた。そんなところへ金春秋が訪れてきたのだった。 

唐の太宗と金春秋はこの時、一つの約束を交わしたとみてよいだろう。新羅は唐の究極的目標である高句麗滅亡に協力する、その代わりに唐は新羅の当面の目標である百済攻略に賛成するという合意である。 

唐から帰国した金春秋は新羅朝廷に申し立てて官服を唐と同じものに改め、新羅固有の年号を廃止して唐の年号を使うことにした。新羅が唐中心の天下秩序に帰属することを内外に示したのである。 

■倭をめぐり、綱引き

649年に唐の太宗が没すると、高句麗遠征はいったん中止となった。しかし後継の高宗(在位649683)も手綱を緩めなかった。高宗は651年、百済が新羅攻撃を続ければ唐が介入すると明らかにし、倭に対しても654年、新羅支援を要求した。 

こんななかで百済は652年以降、唐への使者派遣を中止。一方で倭には650656年、毎年使節団を送ったと『日本書紀』は伝える。百済のこうした動きは「高句麗-倭」と連携して「唐-新羅」に対抗しようという立場の表明といえたが、倭は自らの立場を明確にしなかった。 

この間、新羅も毎年、倭に使者を送った。倭に、「百済-高句麗」側でなく「新羅-唐」側を選ばせようとしたのである。百済・高句麗と対決した新羅は背後の倭に注意を払わないわけにはいかなかった。 

■「唐-新羅」vs「高句麗-百済-倭」

「百済-高句麗」vs「新羅-唐」の対決様相の深まりを横目に、倭は慎重な両面外交を展開した。島国の有利さを生かし、ゆっくりと国益を最大化しようとした可能性がある。しかし、状況はそれほど余裕のあるものではなかった。 

新羅は、倭に「唐-新羅」側につく意思がないと判断したとみられ、657年、倭が新羅に求めた唐への使者や留学生の新羅経由の派遣を拒否。彼らを倭国に送り返し、倭との公式接触を断った。 

これによって「唐-新羅」vs「高句麗-百済-倭」の対立構図が明確になった。それでも倭の朝廷は、こうした構図とその深刻さを十分把握できないまま6597月にも唐に遣使した。同年末、その遣唐使一行が帰国しようとすると、唐の朝廷は一行を長安に抑留した。翌年の対百済攻撃の機密がもれることを憂慮したのだった。 

百済の命運が尽きる、660年のその日が近づいていた。 (つづく)

                             波佐場 清

参考資料(百済歴史散策⑦~⑨)

金思燁『朝鮮の風土と文化』(六興出版)

金思燁『朝鮮のこころ 民族の詩と真実』(講談社現代新書)

金思燁全集刊行委員会『金思燁全集25 完訳三国遺事』(図書刊行会)

南廷昊(植田喜兵成智訳)「百済武王と王妃と義慈王の生母に関する考察」『学習院大学国際研究教育機構研究年報 第2号』kenkyunenpo_2_113_133.pdf

韓国民族文化大百科事典부여나성(扶餘羅城) - 한국민족문화대백과사전 (aks.ac.kr)

崔夢竜(河廷竜訳)『百済をもう一度考える』(図書出版周留城)

盧泰敦(橋本繁訳)『古代朝鮮 三国統一戦争史』(岩波書店)

吉田孝『大系日本の歴史③ 古代国家の歩み』(小学館ライブラリー)


 

0 件のコメント:

コメントを投稿