公州博物館を出た私たちは南へ、全羅北道の益山(イクサン)に向かった。ここまでは主に6世紀までの歴史をみてきたのだが、これからは7世紀の舞台をみていくことになる。
7世紀――。東アジアは大激動の時代だった。震源は中国大陸にあった。西暦220年に後漢の統一王朝が滅んだあと、魏・蜀・呉が争った三国時代がはじまった。そこから589年に再び隋の統一王朝が登場するまでの、ほぼ370年間、中国は分裂状態となった。「魏晋南北朝」の時代である。
魏、晋に続き、華北では五胡十六国が入り乱れたあと、北魏、東魏、北斉、北周といった国々が次々と興り、江南では東晋のあと宋、斉、梁、陳の4王朝が興亡。結局、華北の北周から出た隋が南朝をのみこみ、再統一を達成したのだった。
■隋帝国の出現と東アジア情勢
中国における新たなうごめきと強力な統一王朝の出現は周辺国に緊張をもたらし、朝鮮の3国や倭国にも大きな影響を及ぼしていった。京都大学教授吉川真司さんの著書『飛鳥の都 シリーズ日本古代史③』(岩波新書)を手引きに、この時期に至るまでの東アジア情勢を概観しておくと次のようだった。
朝鮮半島北部から中国東北部の遼東半島、牡丹江辺りまでを支配していた大国の高句麗に対し、朝鮮半島南東部を本拠とする新羅が急速に台頭し、北方では高句麗と戦って東海岸に版図を広げ、551年には西海岸の漢江流域に進出した。南方では百済と対峙し、562年までに加耶地域全域を領有した。
新羅は国家体制を着々と整え、中国王朝とも直接の外交関係をもってさらなる発展への基礎を築いていった。そんな新羅に高句麗は552年、平壌に新都の長安城を築いて対抗、570年には新羅の背後勢力の倭に使者を送った。
隋が出現すると、遼河をはさんで国土を接する高句麗には大きな脅威となった。598年、30万の隋軍に攻められるが、高句麗はこれを撃退した。このように西の隋、南の新羅と対峙した高句麗は、そのころ勢力を伸ばしていた北方のトルコ系遊牧民突厥や倭との連携を探らなければならなかった。
そんななか、半島南西部の百済は新羅に押されて逼塞していったが、隋や倭、そして、かつての宿敵高句麗ともたくみな外交関係を結び、生き残りをはかっていた――。
■副都? 益山
私たちはいま、そんな時代の百済を訪ねようとしているのだった。これまでに見たように百済は538年に聖王が扶余(旧名・泗沘=サビ)に遷都し、660年に滅亡するまで百二十余年間、ここを拠点に仏教を中心とした百済文化の花を咲かせたのだった。
そんな歴史の舞台へ、まず足を踏み入れたのが益山だった。当時の王都・扶余から南へ直線距離で30キロほど。7世紀初め、副都、あるいは次の遷都先として整備されていたのではないかとも見られている場所である。
地域の観光事業関係者が私たち一行を歓迎してくれた。コロナ禍の後、日本から訪れた最初の大型ツアー団体ということになったらしい。全員に「百済の衣装」を着せてくれ、益山文化観光財団の金世満(キムセマン)代表理事(64)が私たちの代表に花束を手渡してくれた。
扶余付近略図 南海国際旅行作成 |
金世満さんは元もと韓国観光公社にいて大阪、仙台、名古屋など日本勤務が長かったといい、流暢な日本語であいさつをした。釜山の出身だが、百済のことが気に入り、定年退職した後、専門知識と経験を役立てたいと、いまの仕事を引き受けたという。金さんのもとにいるガイドがいろいろと案内してくれた。
■弥勒寺址
まず、弥勒寺址に案内された。韓国最古の寺院の一つで、百済最大規模の伽藍をもっていたとみられるという。そのことが、泗沘期の百済にあってここが王都並みの地であったことを示す証拠の一つにもなっているのだという。
東西260メートル、南北640メートルという広い敷地に東西2基の石の塔が建っていた。
弥勒寺址の2つの塔 |
東の塔は完全な形だが、西側の塔は上部がちょん切られたようになっている。実はこの西塔の方が貴重な歴史遺跡で、崩れかかっていたのを文化財庁が23億ウォン(当時のレートで約23億円)の費用と20年の歳月をかけて2019年に解体改修工事を終えたのだという。
元もと9重の塔だったとみられるが、17世紀の段階で6層から上がなくなっていた。その後、さらに崩れそうになっていたのを日本の植民地期の1915年、日本人がコンクリートで応急補強し、無粋な姿をさらしていた。それを今回、初めから石を組み直したという。高さは約14・5メートル。
近くに解体前の写真が展示されていた。
解体前に撮影したの西塔 |
完成後、監査院が「原形通りになっていない」と苦言を呈したという。見る角度によってはたしかにそんな気もしないわけではないが、地元の関係者はあまり気にしていないようすだ。
西塔(南側から撮影) |
西塔(北側から撮影) |
もう片方、東塔の方は、まったく無くなっていたのを1980年から90年代にかけて大がかりな発掘調査をおこない、その結果をもとに93年に新しく9重の塔を再現した。
■武王の時代
弥勒寺が建てられたのは7世紀前葉、百済第30代の王、武王の時だった。武王は6世紀最後の年の600年に王位につき、641年に没して百済最後の王となる長子の義慈王(在位641~660)に引き継ぐまで40余年間にわたって百済を率いた。
武王の時代、中国大陸にあった隋は、文帝の後を継いだ煬帝が612年、高句麗に100万を超す大軍を送り込んで滅ぼそうとしたが、激しい抵抗にあって敗退。その翌年とさらにその翌年にも大軍を動員して攻撃を加えたが、そのたびに高句麗軍は隋軍をはね返した。そんな大動員の繰り返しで隋の国内は疲弊し、反乱が続発。618年に煬帝は殺され、隋は滅亡した。
このあと中国大陸では唐が大帝国を再建。百済・新羅・高句麗はそれぞれ唐から冊封を受け、いったん国際秩序は回復していった。百済の武王は、そんな激動の合間といえる時期に比較的安定した王権を保ち、この益山の地にその址をとどめる大寺院、弥勒寺も建立したのだった。(つづく)
立命館大学コリア研究センター上席研究員 波佐場 清
参考文献(百済歴史散策④~⑥)
吉田光男編『韓国朝鮮の歴史と社会』(放送大学教育振興会)
文科省検定教科書『詳説日本史B』(山川出版)
遠山美都男『白村江 古代東アジア大戦の謎』(講談社現代新書)
岡田英弘『倭国 東アジア世界の中で』(中公新書)
吉川真司『飛鳥の都 シリーズ日本古代史③』(岩波新書)
吉田孝『体系日本の歴史③――古代国家の歩み』小学館ライブラリー
韓国民族文化大百科事典무왕(武王) - 한국민족문화대백과사전
(aks.ac.kr)
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