旅行3日目、私たちは扶余(旧名・泗沘=サビ)に入った。まず訪れたのは扶余羅城。羅城とは古代都市を防御のために囲んだ城郭のことである。
■天然の要害を羅城で補強
地元の自治体、扶余郡庁が作成した日本語版「観光案内マップ」が分かりやすかった。百済の王都泗沘は北から南西、さらに南東方向へと流れる錦江(別名・白馬江)に抱かれるようなかたちで築かれていた。つまり、錦江が天然の要害になっており、防御にすきのある東側を固めるために羅城が築かれたというわけである。
扶余羅城 |
扶余郡作成「観光マップ」 |
私たちが訪れたのはそんな城郭の一角で、囲いの外側から向かっていった。小高い丘に沿って城郭はうねるように続いていた。扶余に遷都した聖王(在位523~554)のころに築城されたとみられている。
粘土と真砂土を交互に入れて突き固める工法がとられた。北端の扶蘇山から南の錦江まで総延長8・4キロほどあったとみられる。いま残っているのは、その一部で、真新しい石垣が目立ち、修復もなされてきているようだ。
■王陵群と、大発見
羅城の近くに陵山里古墳群が広がっていた。
陵山里古墳群 |
金銅大香炉のレプリカ |
発見場所には発見当時のレプリカが地表から床用ガラス越しに見られるように展示されていた。原物は国立扶余博物館に展示されており、のちほど見ることになっている。
■百済、新羅へ進攻
さて、7世紀も半ばにさしかかると、東アジア情勢はいよいよ風雲急を告げた。隋に代わった中国大陸の唐は、内部を固めて周辺に膨張、その圧力は東方にも及び、朝鮮の3国は新たな対応を迫られた。
百済では641年3月、武王が没して義慈王が即位すると、王の周りにいた負担となる勢力を粛清して中央集権を強化。そのうえで642年夏、新羅を攻略し始めた。新羅の唐への交通路である黄海(西海)沿いの党項城を高句麗とともに攻め、さらに洛東江西側の新羅の要衝である大耶城(慶尚南道陜川郡付近)を攻撃した。
大耶城址 韓国文化財庁HP |
大耶城を守っていた新羅の都督金品釈はのちに新羅の武烈王となる金春秋の娘婿だった。金品釈は自らまいた種で内部の裏切りにあい、いったん降伏を試みたが失敗。自ら、まず妻子を殺し、自決して果てた。結局、大耶城は陥落し、百済が新羅の本拠地を直接脅かす形勢となった。
■高句麗のクーデターと新羅の模索
遼東地域で唐と国境を接した高句麗は対唐政策をめぐり貴族間で対立が生じた。642年10月、宰相の淵(泉)蓋蘇文(ヨンゲソムン)はクーデターで国王らを殺害、宝蔵王を傀儡として擁立し権力を握った。蓋蘇文は同年末、悲壮な覚悟で平壌を訪ねた新羅金春秋の対百済戦支援要請を拒否。金春秋は辛うじて高句麗から脱出した。
平壌の蓋蘇文-金春秋会談決裂後、高句麗は新羅を圧迫、百済も高句麗との連携を強めると643年、新羅は唐に使臣を送って救援を要請。唐は、「新羅は王が女性の善徳王なので隣国に軽んじられる。唐の王族を新羅王にせよ」といった選択肢を含む支援条件を提示、さすがに新羅は受け入れられなかった。
■唐の高句麗侵攻
644年、唐の太宗(李世民)は高句麗遠征を決定。「淵蓋蘇文の暴政から高句麗人民を救う」という名分を掲げて645年2月、太宗自らが洛陽を発って遠征を開始し、新羅と百済にも参戦を求めた。4月、唐軍は遼河を渡って高句麗領を攻撃。対する高句麗軍は遼東平原の安市城などを拠点によく持ちこたえた。
安市城の戦いは映画化され、日本でも上映された |
そんなとき、北方モンゴル高原で勢力を振るっていたトルコ系遊牧民国家・薛延陀(せつえんだ)が蓋蘇文の呼びかけに応じて一部地域で唐に戦いを挑んだ。遼東平原に早い冬が迫った9月、唐軍はついに全面撤退を決めた。
遼東平原で唐と高句麗が戦っていたころ、戦火は朝鮮半島南部にも広がっていた。
■「高句麗・百済」vs「新羅・唐」
644年、唐は高句麗遠征を公布したあと、新羅、百済に使者を送り、高句麗戦への派兵を求めた。両国にとっては難しい選択だった。
新羅はしばらく返答をのばしていたが、高句麗と百済が協力して対新羅攻勢を強め、背後の倭の動向も楽観できない状況だったため、結局、参戦と派兵を決定。645年5月、新羅軍3万が北方の臨津江を越えて高句麗に攻め入った。
一方の百済は新羅とは異なる行動をとった。新羅軍が北方に侵攻すると、防御力の弱まった新羅の西部国境線を攻撃、新羅の7城を陥落させた。北進した新羅軍は急遽、軍を引き返して百済の侵攻に当たらなければならなかった。
百済は唐と直接交戦したわけではなかったが、唐軍側についた新羅軍と交戦したことで、唐に歯向かったことになる。高句麗、百済、新羅、唐、倭が絡まった複雑な国際情勢は以後、しだいに2つの陣営に再編されていくことになる。(つづく) 波佐場 清
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