2023年7月29日土曜日

朝鮮戦争休戦70年――『林東源自叙伝』を読んで③陸軍士官学校へ

 

■避難民暮らし

北朝鮮から「越南」して着いた韓国慶尚北道慶山郡の収容施設で新しい生活が始まった。

 <リンゴを貯蔵していた倉庫に数十人ずつ収容された。支給された軍用作業服に着替え、証明写真を撮った。厳しい冬の寒さのなか、日に3度の握りめしをもらって食べ、作業服を着たまま2枚の毛布をかぶり、カマスを敷いた地べたの上で寝る生活が続いた>

 そこが「国民防衛軍教育隊」と知ったのは何日か後だった。ある日、大隊行政兵に選ばれた。石炭ストーブのある部屋で働き、寝食できるようになった。楽園のように思えた。

 5月中旬、国民防衛軍は解散となった。司令官が将兵の食料を横領していたことが分かり、銃殺刑になったのだった。

 <どこで何をしていいやら、途方に暮れてしまった。大隊長は、戦況がよくないのでいっしょに永川(慶尚北道)へ行って様子をみようと言ってくれた。私はただ、ありがたいという思いでついて行った>

 永川では大隊長が借りた部屋にいっしょに住んだ。周囲にはほかにも避難民がいた。そんな人たちといっしょに町中に出かけて配給米を受け取ったり、山裾で薪を採ったり、近くの川で魚を捕ったりして日々を過ごした。

 ■米軍と共に

永川には米軍部隊が駐屯していた。米軍は缶詰食品や菓子のようなものを分けてくれ、部隊の鉄条網の周りは子供たちでごった返していた。チョコレートやガムを配られるたびに争いとなった。

 6月初めのある日、林東源少年が米軍部隊の前をぶらついていると、善良そうな米軍の下士官が近づいてきた。

 <「ハウ オールド アー ユー?」とかなんとかと話しかけてきた。年齢のことだと思い、「エイティーン(18)」と答えると、また、ひとしきり何かをしゃべり、自分について来いと手招きをした>

 ついて行くと部隊内の武器倉庫だった。自動小銃や軽機関銃が保管されていた。米兵はブラウン軍曹と名乗った。

 <布切れと油が手渡され、武器の手入れをする方法を教えてくれた。教えられた通りにやると、とても満足気だった。夕方、仕事を終えると「明日から毎日来て仕事をしよう」と言い、部隊の出入証明書とCレーション[米軍が開発した戦闘糧食]やチョコレートをどっさりとくれた>

 この日から米陸軍憲兵大隊B中隊武器係の非正規従業員として働くことになった。武器の分解と組み立てを習い、一生懸命に働いた。仕事は多く、収入もよかった。加えて、ブラウン軍曹のテントでいっしょに寝泊まりし、米軍の食堂で食事もしたので衣食住の問題はいっぺんに解決した。

 ■釜山で、新たな決意

5110月初め、米軍部隊といっしょに釜山に移動した。臨時の首都だった。部隊は釜山駅近くの小学校に陣取り、そこでも米軍といっしょに起居することになった。それまでの戦場近くに比べると、別世界のようだった。米軍といっしょに教会にも通い始めた。

 釜山では米軍食堂の食品倉庫管理担当として正式従業員に採用された。週1回、釜山港の埠頭で食料品を受け取り、毎食のメニューと人数に合わせて食材をそろえ、料理兵に提供するのが主な仕事だった。いつの間にか「オネスト ボーイ(正直な少年)」というあだ名がついていた。

釜山の米軍部隊で食品倉庫管理係をいていたころ

 釜山で「死の恐怖」から逃れた、と思うと新たな恐怖が襲ってきた。「不確実な未来」に対する恐怖だった。

<休戦を話し合っているというが、うまくいくのだろうか? 休戦になると、故郷に戻られなくなるのではないか? 来年19歳になると軍隊に行かなければならないのではないか? 軍隊に入ったら将校になりたいが、果たしてなれるだろうか?>

 <熱心に祈るなかで、すべては神に任せ、いまは実力を養うために最善の努力を尽くそうと心に決めた。大学に行くにしろ、軍の将校に進むにしろ、試験に通るには実力がなければならないと気付いたのだった> 

■陸軍士官学校受験

大学入試を目標に勉強を始めた。昼間は食品倉庫で働き、時間さえあれば、勉強した。ラッキーにも、時間はたっぷりあった。 

<英語は中学、高校の教科書6冊すべてを学んだ。夜間の英語講習所にも通った。北で習ったのとは大きく異なる国語、歴史、社会生活といった科目を重点的に自習した。数学や自然科学は北で習ったものの方がレベルが高いと感じた> 

ニューヨーク出身の料理兵やボストン出身の上等兵らが私の英語の発音を直してくれ、励ましてくれた。

 52年初冬のある日曜日、教会からの帰り道だった。「陸軍士官学校第3期士官生募集」というポスターが目に入った。募集要項をみると、4年間全額国費で軍事学と理工系大学課程を履修でき、卒業すれば理学士の学位を与え、陸軍少尉に任官する――というのだ。 

<お金がなくても大学教育を受けることができ、将校に任官されるとは、これこそ私にピッタリではないか、とひらめいた。どうせ軍に服務しなければならないのだ。試験を受けてみようと決めた> 

陸士受験のことはだれにも言わず、準備に全力を尽くした。試験は第1次として各地区で学科試験があり、それに合格すると何カ月か後に第2次として大邱で身体検査や面接などの試験を受けることになっていた。 

釜山で学科試験を受けたが、合格できなかったように思えた。

<受験者たちはみな、黒い学生服を着た現役生だった。試験を終えた後でささやく声に聞き耳を立てると、問題は全般に易しかったという。滅入るほかなかった。英語と数学はうまくいったようだったし、自然科学も大丈夫と思ったが、国語と社会生活は振るわなかったと思った> 

いったん、諦めていたが、合格だった。「神の特別な恩寵に感謝する」という以外に言葉はかった。 

■「韓国のウエストポイント」合格

533月、大邱の陸軍補充隊に集合して陸軍病院で身体検査と体力検定を受けた。それに合格したあと陸軍本部で、主に人物判定と英語を重視した面接試験を受けた。 

<試験官が分厚い英語の原書を広げ、「声を出して読み、どういう意味か言ってみろ」という。私は一つの文章を声を出して読み、英国の産業革命について書かれたものだと答えると、試験官は「ワンダフル」とほめてくれた> 

すべての試験を終えると、総合判定官は「合格」と判定し、祝ってくれた。あとで分かったことだが、この入試では250人の定数に対して4100人が学科試験を受け、16倍の競争率だった。 

<私が陸士の試験に合格したことが知られると大きな話題となった。米軍では「オネスト ボーイが韓国のウエストポイント[米国の陸軍士官学校]に合格した」と、まるで自分のことのように喜び、先を争ってお祝いに来てくれた。部隊長も私を呼んで祝ってくれ、部隊の慶事だと喜んだ。韓国人従業員らも会う人ごとに祝ってくれ、誇らしげだった> 

■「Good luck, Cadet Lim, Sir!」

2年間にわたってなじんだ米軍部隊を離れるのだと思うと万感が交差した。

<米軍の人たちへの感謝の気持ちでいっぱいだった。彼らの愛と助けがなかったら、どうして陸士に合格できただろうか。…もし米軍部隊にいなかったなら、私はすでに軍隊に入隊してどこかの高地で戦死していたかもしれない。世間の荒波にもまれ、暗礁に乗り上げていたかもしれない。この間の私の人生は神が恵んでくださった奇跡であり、祝福だというほかに言いようがなかった> 

陸士に入学するため釜山・東莱の陸軍補充隊に集まった日、米軍が憲兵のパトロール・ジープでそこまで送ってくれた。 

<料理兵のスタンリー上等兵が自ら同行を買って出た。彼は車から降りると本を差し出し、「これは米国で買った『This is America, My Country』という米国の歴史の本だ。米国について勉強するうえで役に立つと思う」と陸士入学記念のプレゼントをしてくれた。そしてGood luck, Cadet Lim, Sir!(林士官生徒殿 幸運を祈ります!)」と挙手敬礼で別れのあいさつをして去っていった。私は視界から消えるまで手を振り、感謝の涙を流した> 

■韓国陸士第13

19536月、林東源さんは当時、鎮海(慶尚南道)にあった陸軍士官学校に入学した。20歳が目前だった。韓国で4年制の陸軍士官学校が発足したのは521月で、林東源はその新制3期、通算では13期にあたった。 

戦争は平沢―原州―三陟を結ぶラインから反撃に出た国連軍がソウルを奪還し、38度線一帯で戦線は膠着状態にあった。休戦を前に38度線沿いの地域で熾烈な高地争奪戦が続いていた。                        波佐場 清

 

2023年7月28日金曜日

朝鮮戦争休戦70年――『林東源自叙伝』を読んで②「皇民化」教育と、「唯物史観」と

■鴨緑江で水浴、スケート 
朝鮮半島に住む人々に「聖山」と崇められる白頭山(標高2744メートル)に源を発し、中朝の国境を画して西に流れ、黄海に注ぐ鴨緑江。その中流沿いの村、平安北道渭原[現在の北朝鮮慈江道渭原郡]が林東源さんの生まれ故郷だ。

Googleマップ 林東源さんの故郷・渭原
 薬局を営んでいた父はキリスト教会の長老として教会のために献身し、母も篤実なキリスト教徒だった。そんな両親のもと、1933年7月、2男6女の長男として生まれた。日本が朝鮮の植民地支配を固め、中国東北地方に「満州国」をつくって中国侵略を本格化させていった時期だった。

 <幼いころから「常に学べ、休まずに祈れ、すべてに感謝しろ」という父の教えを受けて育った。私が生涯を通して神を畏れ、肯定的、楽天的な人生観をもつうえで大きな影響を受けた>

 <子どものころ、夏には列を組んで鴨緑江を流れ下る木材の筏(いかだ)を眺めながら素っ裸で水浴をした。冬場には氷結した鴨緑江をスケートで満州側に渡って中国の焼き菓子を買い食いした。そんな日々が思い出される> 

■「皇民化」教育、そして「唯物史観」
 1940年、地元の小学校(翌年「国民学校」と名称変更)入学。日本は「紀元(皇紀)2600年」だといって大騒ぎし、朝鮮半島で創始改名が実施された年でもあった。学校では「皇民化」教育が本格化していた。 

<学校で日本語の使用が強制され、朝鮮語ではなく、日本語で学ばなければならなかった。日本人の校長が毎日、朝礼の時間に朝鮮人児童に日本の天皇がいる東方に向かって深々と頭を下げる東方遥拝をおこなわせ、天皇に忠誠を誓う「皇国臣民の誓詞」を声高に叫ばせた。神社参拝も強要した。私たちは日本の歌を歌い、日本の歴史と神話を習い、天皇に絶対服従する日本国民に改造される教育を受けて育った>

 45年8月、日本の敗戦で植民地からの解放を迎えたのは国民学校6年生のときだった。 

<解放の興奮のなか、私たちの地方でも自治機構である建国準備委員会と自衛隊がすばやく組織された。父は渭原郡建国準備委員会の副委員長兼保健部長に推戴された。叔父も自衛隊隊長になって日本の警察署を引き継ぎ、軍服に似た服装に腕章を巻いて治安の維持にあたった>

 <9月に入ると、私の町にもソ連の軍隊が進駐してきた。マイヨール(少佐)が指揮するタタール族出身のソ連軍人らが日本人を捜し出し、時計や万年筆などの貴重品を手当たり次第に奪うところを、私は何度か目撃した>

 もちろん、学校教育も大きく変わった。 

<解放になると、私たち小学生は1年間ほど集中的に私たちの言葉と文字を習った。小学校卒業が3月から7月に変更になり、私はその後46年9月、家から2キロほど離れた渭原中学校に入学した>

 <海外から帰ってきた知識人や短期の中等教員養成所を出た人たちが教師として赴任した。小学校5年生のとき、日本人の先生以上に日本の天皇への忠誠を強調していた金先生が、こんどは早々と共産党員になり、中学校の歴史の先生になって戻ってきた。彼は自分もよくわからない唯物史観に基づいた歴史を教え、無条件で覚えるよう強要した>

 <中学校で初めて学ぶ英語はとても楽しかった。しかし1学期が過ぎたころ、ソ連軍の下士官がロシア語の先生として入って来て、私たちは英語の代わりにロシア語を学ぶことになった。その下士官は朝鮮語を学び、通訳をしていた教師出身の軍人で、解放直後に駐屯した乱暴な軍人たちとは違う部類のロシア人だった。彼は「カチューシャ」をはじめ、いろいろなロシア民謡を教えてくれた> 

■宣川の高校へ編入 
中学1学年を終えると学制改変で3学年に進級した。小学校が5年制になり、1年ずつ学年が繰り上がったのだった。

 <その年の冬、私は「最初の試練」に直面した。民主青年同盟(民青)が私の信仰生活に文句をつけたのだ。私を民青会の相互批判の場に立たせ、「非科学的でアヘンのような宗教を捨て、科学的な民青の隊列に加わることを約束せよ」と責めたてた> 

<そんな時、父がいつも強調する言葉が思い浮かんだ。「神を畏れ、すべてに感謝し、何事にも忠実であれ」。神への背信はありえないことだが、だからといって民青から脱退処分を食らえば学校を退学させられる恐れがあり、それこそ進退窮まるという状況だった>

 父は、そんな長男を故郷から遠く離れた宣川(平安北道)の学校へ送る計画を進めた。そこは鴨緑江河口付近の新義州から京義線に沿って60キロほど南に位置する町だった。朝鮮のキリスト教発祥の地として知られ、この地方の教育と文化の中心地だった。植民地時代にも4つの大きな教会と中等学校があった。

 <冬休みを終えたあと、48年春の新学期から宣川高級中学校[高校に相当]の1年生に編入した。奇跡のようなことだった。複雑な手続きも踏まずに渭原から宣川に移ることができたばかりでなく、中3から高1に飛び級編入できたのだ。うまく勉強についていけるか、ということだけが問題だった> 

宣川高級中学校は1906年の開校以来、聖職者や医師、教育者など多くの人材が輩出した歴史と伝統を誇る名門の後身校だった。

 ■統制強化
 48年は国の分断が定着化した民族悲劇の年だった。4月、北での南北連席会議に南からも金九、金奎植氏らが参加/済州島民衆蜂起▽5月、南だけで国会議員選挙実施▽8月、大韓民国樹立宣布▽9月、朝鮮民主主義人民共和国樹立。

 <北では5月初めから太極旗の代わりに「人共(人民共和国)旗」が掲げられた。そこでは愛国歌に代えて「〽朝は輝け…」で始まる新しい国歌が歌われた> 

<その年秋のある日のことだった。朝の体操の時間に学校の寄宿舎に政治保衛部員が不意に押し入り、民青委員長ら民青幹部を逮捕していく事件が起きた。ソウルの組織と連携して反共活動をしたことが発覚したのだといわれた。噂によると、彼らは裁判も受けないまま阿吾地炭鉱(咸鏡北道)に引っ張っていかれたという。反共傾向のある学生指導者らが1人、2人と除かれていった>

<宣川に対する集中統制が強まった。咸鏡道訛(なまり)の者たちが党と行政機関を握り、統制を強め始めた。私たちの学校では外部から転入してきた、学生らしくない学生が民青幹部になり、監視と教養事業を強化し始めた>

 49年になると人民軍将校が高校に配属され、軍事訓練が始まった。

 <私たちの学校にも2人の人民軍少尉が来た。私たちのクラスは毎週水曜の午後、4時間ずつ訓練を受けた。木銃を持ち、分隊攻撃、小隊攻撃などといった攻撃訓練だった。中隊攻撃訓練をするときは全学年がいっしょになり、野山に出かけた。その行き帰りには玉の汗を流しながら「スターリン大元帥の歌」や「金日成将軍の歌」を歌い、駆け足で移動した> 

<民青の(労働新聞を読み合う)「読報会」や教養事業の時間には、太白山脈や小白山脈一帯の人民遊撃隊活動など「南朝鮮人民の祖国統一に向けた英雄的な武装闘争」が集中的に注入され、それに対する支援と祖国統一の決意が求められた>

 ■朝鮮戦争勃発 
49年の冬休みの帰郷が父母との最後の別れになるとは夢にも思わなかった。 

<休みが終わって家を発つ前夜、母はとっておきのカレーの缶を開け、鶏肉のカレーライスをつくってくれた。物資が貴重ななかでこのようなご馳走をいただくのはなかなか期待しがたいことだった。この夕食が全家族そろっての最後の晩餐となった。私はその後、カレーライスを食べる度に母のことが思い出され、涙を抑え切れなかった>

 50年6月、1カ月にわたる高校の卒業試験が一段落したところで朝鮮戦争が勃発した。

 <(戦争が勃発した)6月25日、日曜の朝、目を覚ましてみると、外から尋常でない拡声器放送の声が聞こえてきた。耳を疑い、急いで外に出てみると、同じ内容を繰り返していた。「本日明け方、南朝鮮軍が共和国に対する全面的な武力侵攻を行った。これに対して人民軍最高司令官は『撃退せよ』との命令を下した」>

 <寄宿舎のあちこちから戦争が起きたのではないかとのささやきが聞こえてきた。私は急いで食堂へ走った。戦争が起きたようだとの話でもちきりだった。「何日か前、毛布で窓を覆い、軍人や大砲を載せた列車が大挙、連続して南の方へ移動していた」「最近、人民軍配属将校が急に姿を消したことも関連があるようだ」「これはこれまでの38度線の衝突事件とは違う。大規模な戦争が起きたようだ」>

 <すぐに動員令が出された。人民軍に徴集される生徒が増え、ひそかに身を隠す者も増えていた。卒業式に出ようという気にもなれなかった。私は親友の家に身を寄せていた。しばらくしてから、混乱に乗じ、汽車で平壌の母の実家へ行った。そこで様子を見守ることにした>

 ■「越南」
 北朝鮮軍は奇襲南侵から4日でソウルを占領。さらに南進を続けたが、米国主導の国連軍の介入で8月初めに洛東江防衛線で攻勢は止まり、9月中旬、国連軍の仁川上陸作戦で敗退し始めた。韓国軍と国連軍は10月初め、38度線を突破して北進を始めた。10月20日、平壌を席捲。10月末、西部戦線で清川江ラインを、東部戦線では清津以南の咸鏡道地域の大部分を確保した。 

しかし、「38度線を越えるなら座視しない」と警告していた中国軍の介入で、国連軍の進撃は止まり、11月初めから撤収し始めた。中国軍の総攻勢で12月5日からは平壌からも退き始め、12月末にはソウルが再び脅かされ始めた。

 <平壌からの撤収が始まると、私は従兄といっしょに避難民にまじって南に向かった。貨物列車便で沙里院を通り、歩いたりしながら死線を越え、ソウルの鷺梁津に着いた。12月中旬のことだった。何日か後、再び南下する貨物列車に乗り込んだ。ある田舎の駅に着くと、警察が大勢の人たちを降ろさせた。私もそこで降りた。従兄の姿は見えなくなっていた> 

そこから歩いて着いたところが慶尚北道慶山郡慈仁面の果樹園にあった収容施設だった。
                         (つづく)  波佐場 清                            

2023年7月27日木曜日

朝鮮戦争休戦70年――『林東源自叙伝』を読んで①/41年ぶりの妹

 少年は日本の植民地下、朝鮮半島の付け根、中国との国境を流れる鴨緑江沿いの山村に生まれた。国民学校(小学校)6年生の夏、日本の敗戦で解放されると同時に国は南北に分断された。北朝鮮に組み込まれた地域で高級中学校(高校)に通っていた19506月、朝鮮戦争が勃発。混乱のなか少年は家族らと別れ、独り避難民にまじって南の韓国に逃げて来た。 

身寄りのない少年は在韓米軍に下働きとして雇われ、苦学の末、陸軍士官学校に入って軍人になり、戦争とも平和ともつかぬ休戦の最前線などで北朝鮮軍と向き合った。やがて国際冷戦終結の波が朝鮮半島に及ぶなかで南北和解に身を投じることになる。いったん明るい展望が開けたかのようにも見えたが、いままた、断絶が深まり、平和は見通せない。 

韓国の元統一相、林東源(イムドンウォン)さん(90)のことである。金大中政権(19982003年)下、大統領の右腕として対北「太陽政策」を推進したことで知られる林さんは昨年10月、自ら歩んできた道を振り返る『林東源自叙伝』(原題『다시,평화 임동원자서전』)を出版した。https://www.youtube.com/watch?v=WWhrABGvC1w 

7月27日は朝鮮戦争休戦協定締結70年。朝鮮半島の人々にとってこの戦争、そして休戦体制とは何だったのか。平和体制をどうつくり上げて行ったらいいのか――。そんなことを考えながらこの書を読んだ。印象に残った一部を抄訳で紹介する。(立命館大学コリア研究センター上席研究員 波佐場 清) 

199010月、平壌

林東源さんが17歳で「越南」した後、再び北の地を踏んだのは41年後の199010月のことだった。国際冷戦の終結に伴い、南北間で高位級(首相)会談が開かれることが決まり、盧泰愚政権下の韓国で外交安保研究院長になっていた林さんはその南側代表団の一人になっていた。9月に第1回会談がソウルで開かれたのに続き、第2回会談が101718日の両日、平壌で開かれた。 

2日間の会談が終わった日の午後、南側代表団一行は錦繍山議事堂に金日成主席を表敬訪問。その夜、北側が設定した夕食会の行事に臨んだ。宿所に戻ると、午前零時が近かった。予期しない出来事が待っていた。 

<午前1時ごろ、ドアをたたく音がした。北と南の責任連絡官がいっしょに部屋に入ってきて「林先生、きょうだいたちと会ってみましょう。妹の林東淵と弟の林東振をここに連れてきました」と言うのだった。私は、わが方の代表は北にいる家族と会わないことになっている、と断ると「ほかの方々も会うのです。林先生だけそうおっしゃらずに、会ってみなさい」と言ってドアを開き、廊下の方に向かって手招きをした> 

南側連絡官の安企部職員も(南側代表団のメンバーで、北に家族関係者がいる)姜英勲首相と洪性澈統一院長官も家族との面談を始めたといい、会うようにと勧めた、という。 

14歳の女学生と、おばあさん

<ずいぶんと年取って見えるおばあさんと若い青年が私の前に立っていた。どう見ても2人が私のきょうだいなのか、見分けがつかなかった。妹の東淵は私より3歳年下で、弟の東振と最後に会ったのはまだ2歳の赤ん坊のときだった。東淵は私の記憶のなかでは14歳のかわいい女学生の顔だけが残っていた。あまりにも苦労が多かったせいなのかどうか、おばあさんの顔からはまったくその面影を見いだせなかった。東淵の方も41年ぶりに会う兄がほんとうにそうなのかどうか、面食らったようすだった> 

林東源さんは2人を座らせ、気持ちを落ち着かせてから確認にかかった。

<父母、姉妹の名前を聞き、わが家の建物の構造、庭のライラックの木や花々のことなど、思い出すままに聞いた。すべてを正確に答えた。妹に間違いないようだった。そんな時、急に47年前だろうか、東淵が小学校に入学した日の朝のことが思い出された> 

<その日の朝のことを覚えているかと聞くと、「兄さん、今もしっかりと覚えています。お父さんが私の誕生日を日本語で教えてくださり、復唱してみろ、と言うので私が「ジュウイチガツ トオカ(1110日)」というべきところを「ジュウイチガツ トッケビ」[「トッケビ」は朝鮮半島に伝わる「お化け」の意]と言ったものだから、兄さんは笑い転げて、からかったでしょう」と言うのだった> 

<私は妹を抱きしめ、ワーッと泣いた。あふれ出る涙が止まらなかった。妹も声を上げて泣いた。しばらく泣き合ったあと東淵は、母は朝鮮戦争の時に39歳の若さで亡くなり、父は医師として動員され、江界[北朝鮮慈江道の道都]の病院で激務のなか30年前に亡くなったと聞かせてくれた。子どもたちのために苦労ばかりで、親孝行一つしてもらえずに亡くなるとは……。全精魂と愛を尽くして育てた息子である私の生死も分からないまま、どれほど辛い日々を送って亡くなったことか。私は父母に孝行を尽くさなかった罪人なのだ> 

<私たちは涙の海から抜け出せなかった。わが民族の悲劇、分断と同族同士で殺し合った悲劇、そして離散家族の悲しみを私たち兄妹ですべて背負い込んでいるような気持になった> 

2週間前に問い合わせ

妹の東淵は江原道元山近くの田舎の病院に薬剤師として勤務し、弟の東振は同じ地方のセメント工場で10トントラックの運転手として働いていると言った。ほかの姉妹らもみな、元気で暮らしていると聞かせてくれた。妹と弟は、私が生きているなんてとても信じられなかったという。 

2週間ほど前に(当局から)「林東源という人を知っているか?」との問い合わせがあったが、その時も亡くなった人のことをいまごろどうして聞くのだろうか、と思ったという。そして1週間前、平壌に出頭しろとの指示を受けた。平壌に来てみると、南北会談のビデオを見せて兄さんに間違いないか、と確認を求められた。父にそっくりで生年月日も合っているし、宣川高級中学校に行っていたというものだから、兄に間違いないようだ、と答えたものの、信じられなかったという> 

■声高に政治宣伝

林東源さんは、南に来て韓国軍に入隊し、陸軍士官学校を卒業、陸軍将校として勤務し、将官として予備役編入後、外国で大使として勤務し、いまは外務省傘下の研究院長をしていることなど、その間の概略を話し、家族のことも話してやった。そして、どれほど苦労したのか、北での暮らしについて知ろうとした。 

<その時、賢明な妹は黙ったまま、文字を書く紙がほしいというものだから、1枚渡すと、「兄さん、私たち北のことについて良いように言ってください。言葉に注意してください」と書いて渡すのだった。私はすぐに、これは録音テープを持たされているのかもしれないと考えた。妹と弟のためにもここは用心深く話すことにした> 

<この時から政治宣伝が始まった。声高に「私たちは偉大な首領金日成主席のあたたかい懐のなかで、なにうらやむこともなく幸せに暮らしています」といい、平等な社会だとか、幸福に満ちあふれる社会だとかを、のべつまくなしに次々と並べ立てた。「早く統一しないといけない」「統一できないのは帝国主義者たちが南朝鮮を強制占領しているからだ」「ソウルに帰ったら、反米闘争を展開しろ」「国連に一つの議席で入ることに兄さんは先頭に立って反対しているそうだが、そんなことをしないで支持しろ」といった言葉が続いた> 

<私はただ黙って聞いてばかりいた。弟の東振が熱を上げるのを見ていると本ものの「アカ」[社会主義者、共産主義者や共産党のことを指す隠語]であるかのように思えた。2人は平壌に呼ばれて徹底した教育を受けたのだろう。こんなに惜しまれる時間をそんなことを言って無駄にするとは……。しかしそれも詮(せん)無いことだった。どうせ、言えということをすべて言ってしまわないといけないのだから>

■小型ラジオ、スカーフ、調味料…

林東源さんはカメラの自動シャッターを使って記念写真を撮った。そして、ソウルから持ってきた土産物の包みを出した。 

<実際のところ、北の代表と案内人にあげろと安企部が用意してくれたものだった。しかし妹はどうしても受け取ろうとしなかった。それで私は、これらは北の人たちにあげようと思って持ってきたもので、たいしたものではないのだと率直に言い、一つひとつ包みを解いて見せてやった> 

<小型ラジオ、ウォークマン、カセットテープ、シルクのスカーフ、ネクタイ、手袋、ティーシャツ、パンティ、アンダーシャツ、調味料、味付け海苔などだった。米貨千ドルも出した。このお金もやはり、安企部が準備してくれたものだった。説得のすえ、受け取ることになったものの、当局に納めると言うものだから、思った通りにしろ、と言ってあげた。どうせ、当局の許可なしには持てないのだろうから> 

いつの間にか午前2時半過ぎになっていた。別れる時が来たようだった。 

■「私たちは大丈夫です」

<妹は心配と愁いに満ちた表情だった。「兄さん、私たちは大丈夫だから安心してください。きのうの夜、テレビのニュースで敬愛する金日成主席におかれて兄さんたちと会ってくださり、南朝鮮の代表たちといっしょに記念写真を撮られる場面が出ていました。明日の労働新聞に金日成主席がいっしょに撮られた写真が大きく出ることでしょう。その写真を切り抜き、額縁に入れて掛けておいてずっと見ています。わが家の栄光です。もう大丈夫です」。このように自らを慰めるようにいう、その言葉が私を限りなく悲しませた> 

<いまとなっては、越南者、それもいわゆる「傀儡政府」の高官の家族に分類されることになったのだから、生き残った家族を苦しみに陥れるのだ、という罪責感が私を襲った。流れ出る涙を止めようがなかった> 

2時間ほどの再会を終え、外に出るとマイクロバスが待っていた。 

<「早く統一していっしょに暮らそう」「また、会える日までおたがい体に気をつけよう」。そう言って、再会の約束もできないあいさつを交わして別れた。部屋に戻るともう、3時になっていた。ベッドに横になったが、眠れなかった。亡くなった父母のことを思い、涙で夜を明かした> 

<翌朝、配られた民主朝鮮と労働新聞の1面に20×30センチの大きな写真が載っていた。金日成主席と姜英勲首相の間の後列に私が写っていた。この写真を切り抜いて額縁に入れて見る妹たちのことを考えながら宿所の百花園を発った> 

■姜英勲首相の辞任

会談を終えてソウルに帰るとすぐに、韓国代表団が北にいる家族と会ったことが、マスコミの厳しい非難にさらされた。1022日、東亜日報が「姜首相、平壌で妹に会う」との見出しの特ダネ記事を1面トップで報じると、各紙が競ってこれを追い、会談代表の道徳性を問題にした。 

姜英勲首相は「離散家族問題の解決もできないのに1人だけ北の家族と会ったことについて1千万離散家族に対し丁重に謝罪」するとし、「残務整理が終わったところで発表しようと考えていて遅れ、物議をかもしたのは遺憾である」と表明。結局、このことが姜首相の辞任に結びついていったのだった。

   

朝鮮半島のほぼ全域に戦火が及び、戦線が大きく動いた朝鮮戦争では多くの家族が散り散りになり、南北の離散家族は1千万人にのぼったともいわれる。20006月に初めて開かれた南北首脳(金大中-金正日)会談では南北離散家族の再会事業をおこなうことで合意。以来、188月までに計21回行われたが、192月の米朝首脳会談決裂後、朝鮮半島情勢が冷え込んだ影響ですでに5年近くおこなわれていない。 

関係者の高齢化が進んでおり、韓国の聯合ニュースによると、韓国側の離散家族再会申請者は235月末現在、計133680人を数えるが、うち70%近い92千余人がすでに亡くなった。再会事業が中断された後、この5年近くの間だけでも約16千人が死亡したとみられる、という。                    (つづく)