■「国家は個人のために存在する」
午前10時過ぎ、ソウルで文大統領の演説が始まった。次のような部分が印象に残った。
青瓦台HP 8月15日、ソウルの東大門デザインプラザで開かれた光復節慶祝式典で「愛国志士」を迎える文在寅大統領 |
大韓民国憲法第10条はつぎのようにうたっている。
<すべての国民は人間としての尊厳と価値を有し、幸福を追求する権利を持つ。国家は個人が持つ不可侵の基本的人権を確認し、これを保障する義務を持つ>
大統領はここから、日本との間の元徴用工訴訟の問題につなげていった。
「大法院(最高裁)は1965年の韓日請求権協定の有効性を認める一方で、個人の『不法行為賠償請求権』は消滅していないと判断しました。大法院の判決は大韓民国の領土内で最高の法的権威と執行力を持っています。政府は司法府の判決を尊重し、被害者が同意できる円満な解決策を日本政府と協議してきました。いまも話し合いの窓口はそのまま開かれています」
さらに、日本政府が事実上の報復措置として取った韓国向け輸出規制に関し、一人の元徴用工被害者のことを具体的に取り上げて次のように述べた。
青瓦台HP 8月15日、光復節の式典で演説する文在寅大統領 |
「(日本製鉄を相手取っていっしょに訴訟を起こした4人の原告うちの)唯一の生存者である李春植さんは去年、日本の輸出規制が始まったとき、『私のせいで韓国が損害を被ってしまうのではないか』と言われた。私たちは一人の個人の尊厳を守ることが決して国の損害にはならないという事実を確認しておきたいと思います」
■国家は見えても個人が見えない
一方、東京の日本武道館での安倍首相の式辞。16日付の朝日新聞で改めて確認できたのだが、昨年まで繰り返し用いてきた「歴史」という文言が消えていた。アジアの近隣諸国への加害責任には今年も言及しなかった。代わって「積極的平和主義」が初めて登場してきた。
全文を読み返してみる。
「あの苛烈を極めた先の大戦では、300万余の同胞の命が失われました。祖国の行く末を案じ、家族の幸せを願いながら、戦陣に散った方々。終戦後、遠い異郷の地にあって、亡くなられた方々。……今、すべての御霊の御前にあって、御霊安かれと、心より、お祈り申し上げます」
「今日、私たちが享受している平和と繁栄は、戦没者の皆様の尊い犠牲の上に築かれたものであることを、終戦から75年を迎えた今も、私たちは決して忘れません。改めて、衷心より、敬意と感謝の念を捧げます」
それらしい言葉が並んでいるが、どこか空々しい。そう感じるのは、文在寅大統領の演説に私自身、つい、引き込まれすぎたせいなのか、どうか。
「我が国は、積極的平和主義の旗の下、国際社会と手を携えながら、世界が直面している様々な課題の解決に、これまで以上に役割を果たす決意です。現下の新型コロナウイルス感染症を乗り越え、今を生きる世代、明日を生きる世代のために、この国の未来を切り拓いてまいります」
ここからは、国家は見えも、個人は見えてこない。
■「大津事件」の教え
元徴用工問題で文在寅大統領が強調した「司法判断尊重」の姿勢についてはこの間、日本で批判が相次いだ。「国と国の約束事であり、国(行政府)が責任をもって守っていくべきだ」といった類のものだ。しかし、これはどうなのか…
筆者個人のことになるが、私はいま滋賀県大津市に住んでいる。市内に大津市歴史博物館があり、そこでは「大津事件」に関する展示がなされている。1891(明治24)年5月11日、日本を訪問中のロシア帝国皇太子・ニコライ(後の皇帝ニコライ2世)が滋賀県・大津町(現大津市)で警備にあたっていた巡査に突然切りつけられ負傷した事件である。
博物館の展示には、大国ロシアの反発を恐れた明治政府は巡査を大逆罪で死刑にするよう司法当局に迫ったが、時の大審院長、児島惟謙は刑法通り、通常の謀殺未遂で無期徒刑にした――といった趣旨の説明文が添えられている。
日本の学校教育ではいま、どう教えているのか。高校の日本史の教科書を開いてみると、次のように書かれている。
<訪日中のロシア皇太子が琵琶湖遊覧の帰途、滋賀県大津市で警備の巡査津田三蔵によって切りつけられ負傷した事件。ロシアとの関係悪化を苦慮した日本政府(第1次松方内閣)は、犯人に日本の皇族に対する大逆罪を適用して死刑にするよう裁判所に圧力をかけたが、大審院長児島惟謙はこれに反対して津田を適法の無期徒刑に処させ、司法権の独立を守った>(山川出版『詳説 日本史B』)
これは、国民に主権がなかった帝国日本での出来事である。そんな時代ですら、三権分立のもつ意味は重かったのである。いま、普遍の民主主義の価値に照らすとき、他国の司法の判断とはいえ、もっと重視、尊重していいはずである。それとも、これは日本社会における最近の司法権力の存在感のゆらぎを反映したものなのか、どうか。
■安倍首相への皮肉?
文大統領は演説で韓国憲法の「基本的人権の尊重」について触れたが、日本国憲法で言えば、「基本的人権の尊重」は、「国民主権」「平和主義」と並ぶ憲法の三大原則の一つであることは中学生でも知っている。
憲法第13条をいま一度、読んでみる。
<すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする>
これは、韓国憲法と比べてみても決して引けを取らない。「すべて国民は、個人として尊重される」と言い切っている点、日本国憲法の方が個人の人権をより重視しているといっていいだろう。そんな日本国憲法の基本精神が今回の式辞に限らず、安倍首相のこのところの言葉からまるで伝わってこないのはどうしたことか。
文在寅大統領は今回の演説で、元徴用工問題の解決に向けて次のようにも語った。
「三権分立に基づいた民主主義、人類の普遍的な価値と国際法の原則を守り抜くために日本といっしょに努力していきます。一人の人間の人権を尊重する日本と韓国の共同の努力が両国国民間の友好と未来協力の架け橋になるものと信じます」
この演説について、日本のマスメディアの多くは「日本政府に対話を求めたもの」と前向きにとらえている。確かにそうともとれようが、一方で、日本国憲法の精神に背くような姿勢をみせる安倍首相に対して最大限の皮肉を言っているようにも感じられるのは私だけなのか。
私たちの日本国憲法が泣いている。 (波佐場 清)
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