2017年4月7日金曜日

続・文在寅回顧録②――母を手伝い、リヤカー引いた

■父は興南市で農業課長
父は日本の植民地時代に咸興農高を出た。土地の人たちは「咸興農業」と呼んでいた。「咸興高普[高等普通学校]」とともに咸鏡道地域の名門だった。父は近隣で秀才といわれたという。

幼いころの父を負ぶって育てたという伯母の話では、入学試験の前もとくに勉強している様子はなかったといい、一族ではもちろん、近隣でも咸興農業に入ったのは父一人だけだったという。卒業後、父は公務員試験にパスし、北朝鮮政府の治下、興南市の農業係長をした。

当時、共産党への入党を強要されたが、最後まで受け入れなかったという。短くはあったが、国連軍が興南に進駐した期間、農業課長も務めた。そうして南へ避難してきたのだった。

北で公務員をした人たちの場合、南でも公務員として採用されるケースがあったようだ。しかし、父は共産党への入党強要で悩まされた農業係長時代の経験から、公務員はやらない、と決めたのだという。それで、釜山に出てきたあと、商売をした。しかし父は私から見ても商売は合わなかった。物静かな性格で酒を飲むこともなかった。そのまま公務員とか教師が性格に合う人だった。

■商売に失敗
父がした商売というのは、釜山の靴下工場で靴下を仕入れ、全羅南道地域の販売商に卸す仕事だった。

父はそんな仕事を何年間か続け、売り掛けの未収金だけがどんどん積もった。あちこちで不渡りをつかまされ、借金をどっさりと負うことになった。工場から仕入れた分の代金は支払わなければならず、長い間、借金の返済にあえいでいた。

それでも、もしかして後で代金をもらえるかも、との思いから伝票のようなものをずいぶんと長い間、保管していた。しかし、そのような日は訪れなかった。それで父は倒れてしまい、再起はならなかった。何の縁故もない土地であり、頼れるところはなかった。それ以来、父は経済的に無能になった。貧乏から抜け出せなかった。

商売に失敗した後、静かな父はますます口数が少なくなった。私はわが家の貧しさも辛かったが、分断と戦争で父が自分の生きようを失ったのがもっと胸にこたえた。

父は、私が大学を除籍され、拘束・収監された後、軍隊に行ってきても復学がかなわなかった浪人の時代、つまり、私が最も苦しかった時期に亡くなった。不幸だった父の人生がかわいそうでならない。私がうまくやっている姿を少しなりとも見せてあげられず、本当に申し訳ないという思いだ。あとになって私がうまくいったからといって挽回できるものではなく、一生の悔恨として残ることになった。

■母が家計をやりくり
父の商売失敗後、わが家の家計はほとんど母がやりくりした。母も経済的な能力がないということでは同じだった。ただ、かろうじて糊口をしのぐという暮らしだった。あれこれと一生懸命やったが、とくにお金になるような仕事ではなかった。

母が初めてやった仕事は救護物資の衣類を市場に並べて売ることだった。私たちが住む地区で小さな雑貨屋をしてみたこともあったが、周りがみな貧しいうえに、何軒ともない地区だった。うまくいくはずがなかった。

練炭の配達もした。すこしは規模が大きく、工場から練炭を仕入れて売るのだったら、体はすこししんどくても、商売になっただろうが、そんなことではなかった。店に置いておいて少しずつ近所の家に配達するというやり方だった。なんとか辛うじて食っていけるという生活から抜け出ることはできなかった。

それでも、母は父に練炭配達を手伝わせることはなかった。手伝いが必要な時は、私か弟に言いつけた。学校から帰った後や、休みの日には、リヤカーを引いたり手で持ったりして練炭の配達を手伝った。

■恥ずかしかった練炭配達
私は煤がつく練炭配達の仕事はいつも恥ずかしかった。どちらかというと、幼い弟のほうが黙々とよく手伝った。私はぶつぶつと文句ばかりを言い、母を悲しませた。

ある日、リヤカーに練炭を満載し、私が前から引き、母が後ろから支えながら坂を下っていた時のことだ。母が力負けし手を放してしまった。あおりで、私も耐えきれなくなり、道端にはまり込んでしまった。練炭がすこし壊れただけで、けがはなかったが、母はずいぶんと傷心してしまった。

わが家に限らず、みなが貧しい時代だった。当時、釜山の影島には北からの避難民が多かった。私たちが住んでいた山腹道路地区の周囲には土地の人よりも私たちのような避難民のほうが多かった。

釜山の竜頭山公園下の避難民のバラック村が大火で全焼したことがあった。罹災した人たちのための収容村が何カ所かつくられた。私たちの下の村もそうしたうちの一つだったが、まさに極貧といえる状態だった。

北の避難民は生活力があり、成功者が多いといった話を聞くことがよくある。しかし、私が見るには、そうではない。戦争の前に北の体制が嫌で南にきた人は、たいていが上流階層だった。その場合は財産を整理してきていたので、たいがい暮らし向きはよいほうだった。

しかし戦争のさなかに急遽、避難してきた人たちはそうではなかった。手ぶらの避難生活をしていて成功するのは容易いことではなかった。大部分の人たちは、その代のうちに貧困から抜け出すことができかった。

■バケツを手に配給待ち
貧しい人たちが多く、近所の聖堂で救援の食糧を配給してくれた。米国が無償で援助した余剰農産物だったと思う。主にトウモロコシの粉だったが、全脂粉乳のときもあった。食事代わりになった。

小学校12年のとき、配給の日には学校から帰った後、バケツを持って列を作り、順番待ちをして食糧をもらってきたものだ。嫌な仕事だったが、長男の役目だった。子どもだからということで修道女たちがドロップや果物を手に握らせてくれたこともあった。

そんな時、幼い私の目に修道服姿のシスターたちは天使のように映った。そういったこともあって母がまずカトリックの信者になった。私も小学校3年の時に洗礼を受けた。

影島の新仙聖堂だった。私はその聖堂で結婚式も挙げた。母はいまでもそこに通っている。信仰心が篤いところへ長い間通っているものだから司牧会の女性部会長をしたこともある。また、聖堂の信用協同組合の理事をしたりもした。

■バラックの教室で勉強
貧しいといえば、学校も同じだった。私が通った南港小学校は元もと小さな学校だった。ところが、避難民が押し寄せ、1学年の児童数が千人にもなった。やむなく運動場の周辺にトタン屋根のバラック教室を建てて急場をしのいだ。仮校舎と呼んでいた。私たちは入学から3年生までこの仮校舎で勉強した。

教室の床は土間で、大雨が降るとぬかるんだりした。そうなると授業は中断し、子供たちを帰宅させた。小学校1年生の秋夕(19599月の中秋)のとき、気象観測史上最大の台風という「サラ」[*]が釜山地域を襲った。

[*日本で「宮古島台風」といわれる台風14号。宮古島測候所で908.1ミリバールの最低気圧を観測。釜山を直撃し、多数の死傷者が出た]

■自宅の屋根吹き飛ぶ
秋夕の連休を終えて登校してみると、仮校舎がすべて吹き飛ばされ、なくなっていた。それで、教室があった場所で、地べたで授業をした。机がないので絵を描く画板をひもで首から掛け、その上に本やノートを置いて授業を受けた。

屋根がないので雨が降ると授業は打ち切られ、家に帰るしかなかった。のちに6年生が卒業したことによって空いた教室を臨時に使い、仮校舎の再建を待った。
 
台風「サラ」では、わが家も屋根が吹き飛ばされた。そのことは今も記憶に生々しい。当時のわが家は土レンガの建物で、屋根は板をルーフィングで覆っていた。運悪く、父は商売に出かけたまま帰っておらず、不在だった。

強烈な風が吹きつけ台所の木製のドアが揺さぶられ続けていたと思うと、とうとう留め金が外れてしまった。母と私はドアが開かないよう手で支えた。姉も手伝った。しかし、風の力には勝てず、ドアを放してしまった。

ドアがさーっと開き、残りの留め金も外れてしまった。風が一気に室内に吹き込んできた。家の中が風で膨れ上がったように思えた、その瞬間、風が上方に抜けたように感じられた。屋根がそっくり吹っ飛んでいってしまった。どこへ飛んだのか、屋根は見つけることができなかった。

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