2017年4月16日日曜日

続・文在寅回顧録④――富裕層の子らの中で…

■目立たない子だった
小学校時代、私は目立たない子どもだった。背が低く、体も弱かった。とても内向的で、先生の関心を引いたこともなかった。授業時間以外に先生ととくに話したという記憶もない。実際のところ、貧しい地区にあって1クラス80人を超える児童がいたのだから先生も一人一人を注意深く見守るということはできなかったと思う。

学期末や学年末に先生は通知簿をくれた。「秀」「優」「美」「良」「可」の5段階だったが、5年生まで私は「秀」はめったになく、ほとんどが「優」か「美」で、「良」もあった。3段階で評価した発育状況もまあまあというところだった。私は成績にとくに関心はなかった。父母も通知簿を見てとがめたりすることはなかった。


中学校に入試があった時代で、6年生になると学校では遅くまで勉強させた。毎日のように試験があり、模擬試験もしょっちゅう行われた。そうして4月ごろになり、私は勉強ができる方だということに初めて気が付いた[*]。

[*当時、韓国の義務教育は小学校までだった。韓国の新学期は3月から始まる]

■補習受けずに難関中学合格
ある日、担任の先生が私を呼んだかと思うと「成績が非常にいい」とほめちぎった。そうして私に補習授業を受ければ一流の中学校に行けるので、家で相談してくるように、というのだった。

クラスで勉強のできる子らはたいがい5年生の2学期ごろから担任の先生の補習授業を受けていることが分かった。放課後、先生の家に集まり夜遅くまで勉強するのだという。しかし、その授業料はわが家ではとても無理だった。家庭の事情が許さない、と先生に伝えた。家にはそのことについては何も話さなかった。

純真な時だったので、私は余計なことは考えずに一生懸命勉強した。入試は全科目で音楽、美術、体育も含まれていた。この3科目では体育だけに実技があり、音楽と美術は筆記だけだった。小学校時代を通してオルガンのような楽器で音楽教育を受けたことは一度もなかった。音符記号だけをそのまま暗記して試験を受けた。

体育の試験は徒競走、幅跳び、投擲、懸垂などだった。腕の力が弱く、懸垂がまったくできなかった。友だちから、酢をたくさん飲めば骨が柔らかくなり、懸垂がうまくできるようになると聞いた。試してみたくなり、母のいないときに台所で酢をごくんと一口飲んでみた。

このごろのような醸造酢ではなく、氷酢酸だった。口に入った瞬間、火が出たように熱くなった。瞬時に吐き出したおかげで胃にまでは行かなかった。もし、そうなっていたら、大変なことになっていただろう。

それでも唇と口の中、食道までが腫れあがり、何日間か食事がうまくできなかった。痛いというより、恥ずかしくて顔も上げられなかった。あとで、後輩たちの間で入試のさいのがむしゃらぶりの一例として語り草になったと聞いた。

ラッキーにも当時、釜山で一番といわれた慶南中学に合格できた。私がいた小学校出身の合格者は何人もいなかった。父も母もほんとうに喜んだ。私が生まれてから、いちばん喜んでもらえたことだったと思う。

父は私を連れて国際市場[*]の学生服を仕立てる店に行き、制服をつくってくれた。そういう場合、父はいつも咸鏡道出身の人の店に行った。学生服店の主人が学校名を聞いて祝いの言葉を述べたときの父の誇らしげな様子はいまだに覚えている。

[*国際市場は、釜山の中心部に位置する釜山を代表する市場の一つ。朝鮮戦争後、米軍の援助物資やヤミ物資などを避難民らが扱ってにぎわい、発展してきた。この「続・文在寅回顧録」の初回で取り上げた韓国映画「国際市場」は、この市場を舞台回しにしている]

■富裕層の子らの中で…
いったん中学入試にパスすると、高校の入試は易しかった。
慶南中学校は市内の富裕層が住む地区にあり、生徒らもだいたいが裕福だった。登校してみると、入学前に塾で英語を習ってきた子が多かった。中学校で習う前に英語の本をすらすらと読むのだった。

廊下に張り出された「Boys, be ambitious!」といった文章を自分たちだけで読み、解釈し合っているのを見て、私は初めから気圧されてしまった。貧しい子が多かった小学校の時とはまったく雰囲気が違っていた。

遊びの方や小遣いが違い、いっしょに交わるのは難しかった。時々友だちの家について行ってみたが、初めて見る豪奢な家や庭、家具には驚くばかりだった。加えて、そこで働いている人たちから「お坊ちゃん」と崇められる友人の様子に気後れしたこともあった。

当時、富裕層には「女中」と呼ばれる家事手伝いを置いている家が多かった。世の中の不公平というものを初めて強く感じだ。

■読書の楽しさ知る
だんだんと学校の図書館で過ごす時間が多くなった。本を読んでいる時が一番幸せだった。本が好きになったのは父のおかげだった。父が商売をしていた時期、いちど仕事に出ると1カ月ほども帰らないことがあった。

父は帰るたびに必ず、私のために童話や児童文学、偉人伝のような本を買ってきてくれた。アンデルセン童話集、姜小泉の児童文学、子供向けのプルターク英雄伝のような本だった。

「家なき子」のような外国作家の長編児童文学もあった。教科書以外に初めて接する本で、非常におもしろかった。父が次の本を買ってくるまで2度、3度と読み返した。

父が商売をやめ、本を買ってくることがなくなってからは、いつも本に飢えていた。新学年になって教科書が手に入ると、私のものだけでなく3年上の姉の分までも読みあさり、おもしろそうなものは一気に読み終えたりした。「国語」や「社会生活」に載っている話などだった。

そんななか、中学に入って図書館を知った。読む本は、それこそいくらでもあった。手当たり次第に読んでいった。その面白さにはまり、2年生の時には3カ月ほど毎日、図書館が閉まるまで本を読んでいた。最後に椅子の整理の手伝いをしてから帰る日が続いたこともあった。

■社会意識の目覚め
時間があれば学校の図書館に行くか本の貸し出しを受けて読む、という生活は高校を卒業するまで続いた。韓国の小説に始まり、外国の小説、そしてしだいに他の分野へと領域が広がっていった。手当たり次第だった。「思想界」(*)のような意識を目覚めさせる雑誌に接するのも比較的早かった。

(*「思想界」は1950年代、在野の白楽濬、張俊河氏らが私財を投じてつくった雑誌。李承晩、朴正煕の独裁政権に立ち向かった勢力の主張を代弁し、知識人や学生らの間で爆発的な人気を呼んだ)

卑猥な小説本も早くに読んでみた。読書計画や目標といったものはなく、やみくもに読んだ。中学・高校の6年間を通じてずいぶんと読み、それを通じて世の中や人生について知るようになった。そこから社会的な意識も生まれた。

中学の時に読んだ金燦三教授の「世界一周無銭旅行記」のような本は私に世界旅行の夢を抱かせてくれた。もちろん、未だに夢のままである。それでもネパール、インドのトレッキング旅行とシルクロード旅行だけでもできたのはそんな夢を育んできたからだった。

私はいまでも本を読むのが好きだ。いや、好きというレベルを超え、時には活字中毒になっているようにも思える。どこかへ旅行するときも、持って行く本で荷物が重たくなってしまう。寝る時も手の届くところに本がないと、どこか落ち着かない。

■入試の勉強疎かに
読書に集中するあまり、自ずと学校の勉強はおざなりになった。入試のための勉強がさほど重要とは思えなかった。ただ上位圏を維持することで満足した。父母も試験期間中ですらほかの本を読むのを見ても、とがめたりはしなかった。それなりの席次を維持していたので、やるべきことはやっているのだろうと信じていたようだ。

父母は中学・高校の6年間を通じて私に勉強しろと説教したり、干渉したりしたことはなかった。私のことを信じて任せてくれた。私はそんな自由を学校の勉強ために使わず、突飛な方向に使ったというわけだった。

結局、のちに大学入試で、その対価を払うことになった。それでも読書で私の内面が成長した。社会的な意識も持つようになった。十分な対価が得られたと思っている。

私が比較的早い時期に社会的な意識を育てることができたのには、早くから新聞を読んでいたことがあると思う。本に飢えていたのと同じ理由で、私は父が読む新聞を小さな時から読んでいた。

当時の新聞は漢字をけっこう使っていた。初めは漢字がない連載小説のようなものだけを読んでいたのだが、そのうちに漢字が交じった記事も読むようになった。慣れてくると、前後の文脈から理解できるようになり、しょっちゅう出てくる簡単な漢字はマスターできた。

父は当時、代表的な野党紙として知られた「東亜日報」の固定読者だった。私もその新聞を長い間読むことで社会の現実に対する批判意識を育むことができた。そういう意味でも、最近あまりにも変わってしまった「東亜日報」が私にはもどかしい。元の姿を取り戻してくれるよう願わざるを得ない、そんな昔からの読者のうちの一人といえる。

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