おめでとうございます。あれは、もう10年以上も前のことになるのですね。新聞社で報道カメラマンをしていたあなたが突然、「弁護士になる」といって社を辞め、法科大学院に進むと打ち明けられた時は、率直、驚きました。
もともと旧帝大系の法学部を出ておられたことは知っていましたが、あなたはもう40歳でした。私は口でこそ、「大賛成だ」とは言ったものの、内心、心配でした。
実際、京都で過ごされた法科大学院時代、何度か付き合っていただいた酒の席で、あなたが「法律はそんなに難しくない。学生時代はよく分からなかったが、社会生活を経た今ならよく分かる」と話すのを聞き、私には却って心配になりました。司法試験はそう簡単なものではあるまいに…と。
でも、杞憂とはこのことですね。小人には、小人のモノサシしか持てないということでしょうか。あなたは見事に司法試験をパスし、東京で、人権派として知られる弁護士のもとで修行を積み、いま、ご自身の事務所を開設されたのです。
カメラマンとしても超一流だったあなたのことです。司法試験も余裕でした。弁護士としてもきっと成功されるものと信じています。私からいま贈ることができるのはお祝いの言葉しかないのですが、それでも一つだけ、蛇足ながら付け加えておきたいと思うことが生じました。
■文在寅著『運命』
唐突ではありますが、韓国の大統領選挙のことです。朴槿恵大統領に対する憲法裁判所の弾劾審判が結審し、近々、決定が言い渡される運びです。罷免の決定が出れば、そのまま大統領選に移行します。そこを睨んだ大統領選レースはすでに始まっているのはご承知の通りですが、現段階で最有力候補として浮上しているのが野党「共に民主党」の前代表、文在寅(ムン・ジェイン)氏(64)です。
文在寅氏は弁護士出身。やはり弁護士出身の盧武鉉元大統領(1946~2009)の大統領秘書室長などをつとめた人物です。文在寅氏がこのままゴールして次期大統領になるかどうかは予断できないものの、私はいま、2011年にソウルで出版された彼の回顧録『運命』を読み返しているところです。(文在寅氏の経歴などは、http://hasabang.blogspot.jp/2017/02/blog-post.html)
文在寅氏はここで初めて法律事務所を開いたときのことなども書いています。社会・時代背景がいまの日本とまるで違う、と言ってしまえばそれまででしょうが、一人の弁護士としての生き方という点で国境や時代を超えて語りかけてくるものがあるように私には思えます。
文在寅氏が実際に大統領になるかどうかはともかくも、いまの韓国社会を読み解くうえでもこの回顧録が示唆するところは少なくないと思います。私自身、一語一語を噛みしめる意味からも目についたところを以下に拙訳してみました。あなたにも読んでいただけたら、という勝手な思いも込めてのことです。参考になりますか、どうか。
■裁判官を志望
1982年8月、私は司法修習を終えた。裁判官を志望した。研修所での成績は2番だった。修了式で法務大臣賞をもらった。司法試験合格者の人数がそう多くない時代で、研修所を終えると希望者は全員、裁判官や検察官に任用された。
それで、まさか裁判官に任用されないとは考えてもみなかった。大学時代、デモを主導して拘束された前歴はたしかにあった。しかし、それは朴正煕政権時代の維新体制反対デモだった。その後、時代も変わり、もう維新体制は間違いだったと受け止められていた時期だった。維新反対デモの前歴が問題とされる理由はまったくない、と考えていた。それが欠格事由となるとは予想だにしていなかった。
ところが、最後の段階で裁判官はだめだという。裁判官任用の面接の場面がいまも忘れられない。裁判官志望者はみな、法院[訳注・裁判所]行政処(*)の次長の面接を受けることになっていた。たいがいは1~2分ほどの儀礼的なものだった。ところが私一人だけが30分ほどもかかった。質問が多かったわけではない。「どうしてデモをしたのか?」「いつごろだったのか?」。それがすべてだった。それでいて面接官はそうした当時の状況がまるで理解できていなかった。
(*法院行政処は、裁判官人事はもとより裁判所の予算、会計、施設等あらゆる事務を管掌する機関。処長と次長を置き、処長は大法院[最高裁判所]長の指揮を受ける)
82年といえば、私がデモで捕まった75年は、そのわずか7年前ということになる。実際のところ、75年4月に維新反対のデモをしたといえば、それ以上の説明はいらなかった。ところが、そのように答えると、「その時は衛戍令が出ていたのか?」と反問するのだった。
■面接官に失望
衛戍令はそれより何年も前の71年だったと説明した。すると、こんどは「維新憲法ができた時?」といった具合だった。しかたなく、衛戍令、維新宣布、維新憲法制定、緊急措置(*)など、1970年代の政治の流れをじゅんじゅんと説明しなければならなかった。
(*緊急措置は、維新憲法に基づく大統領権限による特別措置。当時の大統領朴正煕はこの措置の発動で、憲法で認められた国民の自由と権利を暫定的に停止できる強大な権限を持つこととなった。民主化要求を抑えつけ、学生や野党政治家の弾圧に利用。朴正煕はこれを9回にわたって公布。80年の憲法改正で廃止された)
その面接官は、裁判所内では判決文をうまく書くことで名声が高く、のちに大法官[最高裁判事]にまでなった。それなのに、多くの国民が苦しみ、抵抗し、また、それゆえに時局事犯となって投獄され、裁判を受けなければならなかった、ついこの前までの歴史を裁判所の高位ポストにいながら知らないとは信じられなかった。裁判官が現実社会とかけ離れた存在であることを知ったというわけである。うすら寒い思いだった。結局、任用がかなわなかった。
当時の法院行政処長は、私が学生時代に民事訴訟法を教えてもらった恩師だった。検察なら受け入れてくれるだろうという話があり、その恩師は私に、まずは検事になるよう勧めてくれたりもした。検事に任用されて2~3年勤めれば、「任用不可」のレッテルがはがれるだろうから、そのときに裁判官に転官しろ、と言うのだった。そこまではやりたくなかった。
■弁護士への転進決意
やむを得ず、弁護士になろうと方向転換した。当時としては研修所を終えてすぐに弁護士を開業するというのは非常に珍しいケースだった。成績が良かった分、すぐに噂が広がった。いまのように、法律事務所が多くはない時代だったが、「キム&チャン」をはじめ、評判の高いあちこちの法律事務所からスカウトがあった。何カ所かに聞いてみたりもした。条件はよかった。
報酬も破格的で、車を提供してくれるとも言った。3年程度勤務すれば、米国のロースクールに留学させてくれる、とも言った。ちょっと、その気になった。しかし、私が考えていた弁護士像とはあまりにも違っていた。
大学時代に学生運動をしていたから、ということだけではなかったと思う。私が頭に描いていた法律家像はそのまま人権弁護士とイコールではなかったとしても、普通の庶民が何かとぶつかり、無念さを味わうときに支援する。そして、そのことに生き甲斐を求めるという、そんなイメージだった。それとはちょっと違うと思った。
その時、そんな法律事務所のスカウトに応じていたら、まったく違う生き方をしていただろう。国際弁護士か企業専属の弁護士…。それらは、どこか高級そうに見え、かえって乗り気になれなかった。
そのまま普通の弁護士の道を歩むことにした。いったんそう決めたからには母親の面倒をみることも考え、故郷の釜山に行くのがよさそうに思えた。とくに躊躇することもなかったが、ちょっと気になったのは妻のことだった。
■盧武鉉氏との出会い
大学で音楽学部だった妻はそのころ、ソウル市立合唱団の団員で、ソウルに職場をもっていた。大学時代に私が警察に捕まると面会に来てくれたりしていた妻は、裕福な生活を夢見るような女性ではなかった。司法試験に合格したことだけで、十分にありがたがっていた。だからといって、ソウルで好きな仕事をしているソウル出身の女性に、釜山に行こうというのは申し訳なかったのだが、ラッキーにも同意してくれた。
そうして釜山に行き、そこで会ったのが盧武鉉弁護士だった。私と盧武鉉氏を取り結んでくれたのは私と司法試験の同期であり、のちに私の後任として盧武鉉大統領の民情首席秘書官になった朴正圭氏だった。そこには不思議ないきさつと因縁があった。
朴正圭氏は年を食ってから司法試験に合格した。私たちの同期の中では年を取った方から数えて何番目かだった。それで、早くから、研修を終えたら弁護士の道を歩もうと決めていた。盧武鉉氏とはかつて、慶尚南道金海の長游庵[韓国で最初に仏教が伝わったとされる名刹]にいっしょにこもって司法試験の勉強をしたという因縁があった。
朴正圭氏は、先に司法試験に受かり裁判官をへて釜山で弁護士として活動していた盧武鉉氏から「いっしょに仕事をしよう」と持ちかけられ、承諾していた。盧武鉉氏は研修所を終えて合流する朴正圭氏のために自分の事務所に部屋を設けて机を持ち込むなど、すべての準備を整えていた。
■時代を先取りした盧武鉉弁護士
当時、弁護士は個人事務所を運営するのが一般的だった。弁護士同士いっしょにやっても、うまく行かないという固定観念が強かった。法律事務所はソウルに何カ所かあるだけで、地方ではみな、「一国一城の主」だった。しかし、盧武鉉氏は確実に時代を先取りする、開けた人だった。弁護士はいっしょに集まって業務を専門化・分業化するのがよい、という考えを持っていた。
裁判官を経た盧武鉉氏は78年に弁護士を開業した。しばらく一人で弁護士活動をしたあと、79年から80年末にかけて2年間ほど他の弁護士2人といっしょに合同法律事務所を運営した経験があった。「伽耶合同法律事務所」だった。恐らく、釜山初の同業事務所だったはずだ。しかし、思ったようにうまく行かなかったようだ。
弁護士の専門化・分業化については当時、一般の人たちの認識も十分ではなかった。訪ねてくる顧客を専門分野別に分けて相談に応じようとしても顧客の方で好まなかった。専門分野が何であれ、知っている弁護士が自分の事件を引き受けてくれることを望んだ。盧武鉉弁護士の理想は高かったが、現実がついてこなかったというわけである。それでいちど失敗を味わい、個人事務所を開いたのだが、朴正圭氏といっしょにいま一度、専門・分業事務所をつくってみたかったのである。
■ピンチヒッター
ところが、そこで問題が生じた。釜山に来ようとしていた朴正圭氏が検事に任用されたのである。盧武鉉弁護士が準備していた計画がスタートする前に水泡に帰したのである。それで、朴正圭氏が盧武鉉氏に申し訳ないと思っていたところへ、私が弁護士をやることになると知り、代わりに私を紹介したのである。いちど会ってみろ、といわれて盧武鉉弁護士を訪ねていった。私はそのときまで盧武鉉氏のことをまったく知らなかった。まったくの初対面だった。(中見出しは訳者がつけた)
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