事務所の運営は概ね、うまくいった。当時はまだ、法曹界全体の人数が少なく、開業弁護士も少なかった。裁判官や検事を経ずに司法研修所を終えたばかりの開業だったが、それでもけっこう仕事があった。その次の年度から、司法試験合格者の数が多くなって弁護士もどっと増えた。私が恵沢を受けた最後の年次だったといえるだろう。
開業の日、ある医師の夫人が開業広告の載った新聞の切り抜きを手に事務所を訪ねて来た。若くて開業したばかりなので却って一生懸命やってくれるのではないかと思って来たという。民事事件だったが、それが初仕事だった。
一方で盧武鉉弁護士の方はかえって仕事が減った。それまで釜山で最も若く熱心な弁護士として受任する事件も多く、勝訴率も高い、たいへんな売れっ子弁護士だったのだが、私といっしょにやることになったのを機に事件受任の紹介料(コミッション)をきっぱりと断ち切ったことが大きかった。
コミッションは今でこそ弁護士法で禁じられているが、当時は慣行としておこなわれていた。裁判所や検察庁の職員、刑務官、警察官らが事件を紹介して20%程度のコミッションをかすめ取るのが普通だった。これがはびこり、銀行や企業の法務チームの中には事件を他に回すことによってコミッションを得るところもあった。盧武鉉弁護士もこの慣行から例外でいるのは難しかった。
■酒食で判事を接待
しかし、そんな慣行をきっぱり断ち切った。盧武鉉氏は、初めて会った日に約束した通りを実行した。裁判官や検事の接待についても同様だった。当時、刑事事件を扱う弁護士は時々、担当の判事を酒食でもてなすのが普通だった。
裁判の日には、その日の最終の法廷に入った弁護士が判事らを酒食で接待する慣行があった。裁判所の周辺には「パンソクチプ」[「座布団を敷いた店」の意]と呼ばれる高級料亭が何軒かあった。盧武鉉弁護士も一時、そんな料亭のお得意客だったが、そんな接待もやめた。
みんながやる慣行を一人だけ断つというのはどれほど難しいことか。それでも、そのようにした。きれいな弁護士。たぶん、盧武鉉氏は、私が民主化運動グループ出身の弁護士だから当然そう望むだろうと考えたのだと思う。
もともと将来、やってみたいと思っていたことを私にかこつけて実行に移したのだと思う。先輩弁護士として後輩に恥をかきたくない、手本を示さなければ、という義務感もあったのだと思う。ほんとうに良心的で、義務感の強い人だった。
そうなると、受任事件が目に見えて減ってきた。銀行の顧問弁護士も何カ所かでやっていたのだが、それも切れた。結果、盧武鉉弁護士の収入は一人でやっていた時と比べてずいぶんと減ったのだが、意に介する様子はなかった。
のちに人権弁護士と呼ばれるようになってからはさらに収入が減った。というわけで、盧武鉉弁護士が法曹人として経済的に豊かだった時期は実際のところ、いかほどもなかった。それでも、私たちは「よし」とした。事務所の維持にはとくに問題はなかった。
■注目の的
当時の釜山は、ことばでこそ韓国第二の都市といわれたものの、弁護士はそう多くはいなかった。登録弁護士は100人にも満たなかった。登録だけして実際には活動していない人もいて、そうした人を除くと法廷で競い合う弁護士はその半分程度にすぎなかった。それなりに一生懸命、誠実にやれば、いい弁護士だという評判を得ることができた。
法曹界は保守的で、いい評判にしろ、悪い評判にしろ、いったん、そうだとなると、簡単に変わることはなかった。ラッキーにも私は開業当初に釜山地域の法曹界でいい印象を持たれたおかげで、のちのちまで、弁護士活動をするうえで助かった。
釜山の弁護士の社会で私たちは注目の的となった。2人とも若かったのに加え、経歴が変わっていたからだ。そんな2人が釜山で一つしかない合同法律事務所を運営したのだから断然、注目された。人一倍用心深くあらねばならず、いっそう努力しなければならなかった。
事件だけでなく、釜山弁護士会の活動も一生懸命にやった。とくに盧武鉉弁護士は釜山弁護士会の財務理事を3度もつとめるほど、みんなのための仕事にも熱心に取り組んだ。老若を問わず、弁護士らはみな彼に好意的だった。いい時代だった。
■釜山米文化センター放火事件
盧武鉉弁護士は私といっしょに仕事を始めるまでにすでに2件の時局事件を引き受け、そこに一歩を踏み出した状態だった。「釜林(プリム)事件」と「釜山米文化センター放火事件」(*)だった。
(*「釜林事件」は②を参照。「釜山米文化センター放火事件」は1982年3月、釜山地域の大学生らが光州民主化運動の流血鎮圧と独裁政権を擁護する米国の責任を問うて米文化センターに放火した事件。その渦中で一人の学生が死亡。韓国における80年代の反米運動の嚆矢となり、当時の全斗煥政権はこれをスパイなど不純分子の仕業として弾圧した)
盧武鉉弁護士が「釜林事件」を引き受けたのは人情からだった。この事件に取り組んでいた先輩の人権弁護士の金光一氏がその事件にからんで資金提供の容疑をかけられ、拘束されてしまった。そこで金光一弁護士は若手の弁護士らに弁護を呼びかけた。被告人の数が多く、若手弁護士の何人かで分担し合うことになった。
盧武鉉弁護士はこれを引き受けるとだれよりも熱心に取り組み、弁論を主導した。被告人らに加えられた拷問と長期にわたる不法拘禁を生々しく暴露したのも盧武鉉弁護士だった。初めて取り組んだ時局事件だったが、真っ向から体当たりで弁論に臨んだ。
そのことがあったため、しばらく後に米文化センター放火事件が起きると、再び共同弁護人団への参加を頼まれることとなった。
こんどは李敦明、ユ・ヒョンソク(유현석)、ファン・インチョル(황인철)、洪性宇弁護士ら、ソウルのそうそうたる弁護士といっしょだった。この2つの事件の弁論で盧武鉉氏の人生が変わることとなった。
■息を吹き返した民主化運動
この2つの事件で釜山の民主化運動勢力はほぼ一網打尽となった。一言でいえば、なんにもない荒れ野といえる状態になった。しかも、殺伐とした全斗煥政権初期のことであり、そこから1983年まで釜山では時局事件といえるものはほとんど何も起こらなかった。
そんなところへ83年下半期から84年初めにかけて「学園自立化措置」など、若干ながらも一息つける社会的空間が生まれた。釜林事件は初めから無理なでっち上げ事件だったため、その被告人らも83年末には全員、刑の執行停止で釈放された。彼らが加わることで釜山地域の在野民主化運動は勢いを取り戻した。
大学生らによる学生運動事件と労働事件が発生し始めた。厳しい弾圧に苦しむ労働者らが勤労基準法の順守を求めたり、労働組合の結成を推進したりして集団解雇される事件も起きた。そんな彼らが私たちを訪ねて来はじめた。
■人権弁護士の道
初めから人権弁護士の道を歩もうと決めていたわけではなかった。しかし私たちを訪ねてくる人たちを避けることはせず、彼らに共感して一生懸命弁論した。次第に私たちは釜山地域の労働者の人権弁論の中心的な役割を担うようになっていた。釜山地域だけでなく、それまで人権弁護士がいなかった近隣の蔚山、昌原、巨済島地域の事件まで引き受けるようになった。この地域には労働事件が多かった。
全斗煥政権に対する抵抗が強まるなか、大学では「三民闘」「民民闘」「自民闘」(*)にからむ事件が次々と発生していった。学生運動の理念化傾向もはっきりしてきた。釜山とソウルの学生運動組織がいっしょになって計画した釜山米文化センター占拠籠城や釜山商工会議所占拠籠城のような事件の弁護も引き受けた。
(*「三民闘」は「三民闘争委員会」の略称。85年4月に発足した全国学生総連合(全学連)傘下の34大学が参加した闘争組織。「民民闘」は86年3月にソウル大学人文学部を中心に結成された「反帝反ファッショ民族民主闘争委員会」の略称。「自民闘」は、「反米自主化、反ファッショ民主化闘争委員会」の略称で、同年6月、ソウル大学社会学部を中心に結成された。いずれも当時の学生運動をリードした)
いつの間にか、私たちは釜山地域で代表的な労働・人権弁護士になっていた。私たちの法律事務所は釜山を中心に蔚山、昌原、巨済島を網羅する地域の労働人権事件を統括するセンターのようになっていた。
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