2016年8月5日金曜日

「満州」への旅②――大阪→上海→長春


九州北部に中心を持つ低気圧から伸びる梅雨前線は、東は紀伊半島沖から太平洋へ、西は東シナ海を横切って上海南方へと長い帯をなしていた。朝刊各紙は、政治資金の公私混同が問われた東京都知事、舛添要一氏の辞職が決まったことを大きく伝えていた。私たちの乗った中国東方航空機はその日午前、ほぼ定刻通りに関西国際空港を発ち、厚い雲を抜けて西へ向かった。 

目指すは、まず上海。そこで中国の国内線に乗り換え、吉林省長春に向かうことになっていた。大阪―上海間は順調に飛び、約2時間で浦東空港着。ここも大阪同様、どんよりした空で、蒸し暑い。やたらだだっ広い空港の構内を歩いて乗り換え搭乗口の方に向かった。若い中国人の女性たちのグループが、自撮り棒につけたデジカメに向かってポーズを取り、黄色い声を上げている。


■区別つかない日中韓
関西空港、ソウルの仁川空港、そして、ここ浦東空港…。そこで見かける光景はもう、ほとんど大差がない。これが20年前、いや10年前までだと、明らかに差があった。日本人、韓国人、中国人。若い女性たちの場合、服装、髪形、化粧法で、だいたい区別ができたものだが、いまは耳をそばだて、言語を確認してからでないと容易に判断は下せない。

空港構内で簡単な食事を済ませ、国内線出発ロビーで長春行きの便を待つ。予定の時間がすぎても搭乗手続きが始まらない。1時間ほど遅れてようやく機内に乗り込んだ。窓越しに見る滑走路を雨がしきりに打っている。出発の遅れは梅雨前線の影響なのだろうか。ともあれ、定刻より1時間余遅れ、午後5時すぎ、浦東空港を飛び発った。

これから、北東方向に長春へと向かう。いったん東シナ海に出るのだろうか、山東半島、遼東半島は…。そんなことも楽しみにしていたのだが、いかんせん、空の上は見渡す限り、雲の海である。

■満州の夕日
日本より1時間遅れの現地時間で午後7時過ぎ、ようやく雲が切れ、左手前方に夕日が見えてきた。これが、先輩、小林慶二さんのあこがれていた、あの満州の夕日なのか。確かに赤くはあるが、「大地を真っ赤に染め、ギラギラとした」と小林さんが表現したようなものなのかどうか。空の上、飛行機の窓越しではいま一つ、よく分からない。

やがて眼下に大地も見えてきた。すこし黒ずんだ、肥沃そうな土に、緑の作物が行儀よく植わっている。まだ大きく育っていないようだが、トウモロコシ畑のようだ。

午後7時半すぎ、長春空港着。空港構内から外へ出ると、木々の緑がいきなり目に飛び込んでくる。空気が澄み切り、乾いている。梅雨から、いきなりさわやかな秋に飛び込んだかのようである。タクシーをつかまえ、高速道路を突っ走って市中心部のホテルに向かう。大阪の街を見慣れた目には、道路周辺のアパート群がやたら大きく映る。

■長春の朝
翌日、旅行2日目の長春。前夜、さわやかに感じられたこの地の空気だったが、朝から、どんよりし、湿度もけっこう高そうだ。この日は、日本からのセミナー参加者らと共に終日、長春市内のフィールドワークにあてている。吉林大学の修士課程で「日本経済」を専攻する学生、王さんに通訳とアテンドをお願いしてあった。

見たいところは山ほどあった。小林さんの本、『観光コースでない「満州」』に載った写真だけを拾っても、旧満州国国務院(現在・吉林大学医学院)▽旧満州国軍事部庁舎(吉林大学第一附属病院)▽旧満州国皇宮(偽皇宮博物館)▽旧満州国新宮殿(吉林大学地質学院)▽旧満州中央銀行(中国人民銀行長春支店)▽旧ヤマトホテル(春誼賓館)…。

とても1日では回りきれない。私の頭の中には、絶対に外せない最優先のスポットとして建国大学が組み込まれていたことは言うまでもない。宿泊したホテルに近いというラッキーさもあり、午前中は、ともかくその建国大学跡と、旧満州国で李香蘭(山口淑子)らの活動拠点となった国策映画社、満州映画協会(満映)撮影所跡を見ることにした。

■「スパイ容疑」
小林さんの本も、長春については建国大学のことから書き始めている。その理由について小林さんは、「五族協和、王道楽土」という満州国建国の理念をもとにこの大学が設立されたからである、と説明している。この大学を満州国の象徴として捉えたのである。書き出しはこうである。

《二〇〇二年九月一〇日、私たちは(私とカメラマンの福井君、通訳の金赫さん)長春駅から人民大街を南下した軍の施設のある一角にいた。空軍士官学校(空軍長春飛行学校)の敷地で、その中に満州建国大学の建物の一部が残っているという。あまり高くない塀に沿って内部をのぞいてまわると、レンガ造りの古い建物が見えた。満州建国大学の宿舎か食堂だったらしい。福井君が塀越しに写真を撮り、しばらく付近を徘徊していると、壊れかけたお寺があった。「長春の靖国神社と言われたお寺(?)らしいですよ」と金さんがいう。福井君がシャッターを切り始めた。

ふと気がつくと、一人の男がわれわれをじっと見詰めている。近辺には「写真撮影禁止」という掲示は見当たらないが、ただならぬ気配である。すぐに撮影を切り上げ、立ち去ろうとしたら、一〇人近い憲兵に取り巻かれ、有無を言わせず士官学校の本館に連行された。…》

小林さんらはスパイの容疑をかけられた。写真の現像が終わり、軍事機密を撮影していないことが確認されるまで拘留する、もし怪しい写真があれば、身柄を警察に引き渡す、とすごまれた。結局、容疑は晴れ、無事放免となったのだが、フィルムの現像の仕方がまずく、せっかくの写真がすべて使いものにならなくなってしまったのだった。

今回、私は王くんにまず建国大学のことを聞いてみたが、まったく知らないという。ともかく、小林さんが行った場-所に行ってみるしかない。というわけで、私たちは空軍士官学校に向かうことになった。そこと見られる場所に着き、カメラを肩にかけて車から出ようとすると、それまでほとんどしゃべらなかった運転手が「ここでは写真撮影はいけない」と無愛想な表情で機先を制すのだった。

どこの国であれ、軍の施設とあれば、撮影が制限されるのが常識だろう。そうでなくとも、私は小林さんの体験のことを肝に銘じ、初めから慎重にならざるを得なかった。それでも、簡単に諦めるわけにはいかない。すこしばかりの緊張を抑えながら小林さんが見た、それらしき建物がないか、と鉄柵の隙間から内部をうかがって見るが、近代的な建物ばかりで、どうも見当たらない。

鉄柵沿いに歩いていくと、正門と見られるゲートにたどり着いた。守衛の兵士らが警備にあたっている。ばつの悪さを感じつつ、間合いをはかって「ここらで、記念写真を一枚撮りたいのですが…」と王くんを通じて頼んでみると、兵士らは「とんでもない」とばかり、激しく両手で払いのけるようなポーズをとって制するのだった。
 

■長春大学へ
これではどうしようもない。辺りには、この季節、この地の風物詩という柳絮がまるで雪のように舞っている。歩道をそのまましばらく歩き、道路の反対側に渡ったところで、歩道上に立ちつくし、考え込んでしまっている時だった。ずっとスマホをのぞき込んでいた王くんが、突如、顔を上げて話しかけてきた。

「その建物はどうやら、長春大学のキャンパスにあるようです。ここから遠くはなく、すぐ近くです」

あとで分かったことだが、中国最大の検索エンジンを提供する百度の「百度百科」で「満州建国大学」と入力すると、次のような内容のものが見つかった。
 
《かつての新京にあった。略称「建大」。19385月にでき、19458月、偽満州国の滅亡に伴ってなくなった。卒業生1500人……。その建物の一部は今、長春大学で使っている。…》

三浦英之氏の『五色の虹』は巻頭に1941年当時の「新京市街図」を載せている。それを見ると、建国大学は満州国の時代、首都新京の街づくりにあたって日本が造成し、いまもそのまま残る人造湖「南湖」のすぐ南に位置していた。敷地はとてつもなく広大だったという。場所的に見ても、長春大学とぴったりと一致する。私たちはともかく、長春大学に行ってみることにした。

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