しかし、残念なことがある。三浦氏がソウルで取材した2010年10月の時点で、姜さんは「最近の出来事をうまく記憶できない」状態になっていた。三浦氏はそれでも、「今年90歳になる」という姜さんから過去の記憶について十分に忍耐強く、丹念に聞き出している跡がうかがえるのだが、自ずと限界がある。
実際、いま考えると、よくやってくれたという思いである。その時から6年半が経った今年5月、姜さんの訃報がソウルから伝えられたのである。三浦氏自身意識していたように、姜さんの証言を記録として残す最後のチャンスを三浦氏は生かしたのだった。
■姜英勲回顧録
とはいえ、やはり、もどかしさは残る。そこを埋めたいと思い、姜さんの回顧録を読んでみた。2008年に韓国で出版された『国を愛した頑固者(나라를 사랑한 벽창우)』(東亜日報社)である。実はこの本、私は発売されたすぐあとにソウルの書店で買い求め、当時私自身の最大の関心事の一つだった南北関係に関する部分だけを重点的に読んだのだが、あとはそのまま本棚の隅に放り投げていたのだった。それを今回、少年期から青年期にかけての時期を中心に読み直してみたのである。
三浦氏の『五色の虹』を補足すると思える部分を、拙訳で紹介しておきたい。
その前に便宜上、姜さんの年譜の概略―。
1921年 中朝国境を流れる鴨緑江に近い平安北道昌城郡青山面の農家に生まれる
31年 地元の普通学校入学
35年 平安北道の寧辺農業学校入学
39年 日本に渡航し、広島県の高田中学校4年に編入
41年 満州建国大学(前期)2学年に入学
44年 建国大学本科2年在学中、学徒兵として招集され、日本へ
45年 日本敗戦(朝鮮解放)、10月帰郷
■建国大学志願の動機
建国大学を志望した動機などについて回顧録は次のように書いている。
《高田中学5年の2学期、学校の掲示板に真っ先に張り出された上級学校の入試案内は、満州建国大学と広島高等師範学校のものだった。建国大学は第1次試験で筆記と身体検査があり、東京、広島と朝鮮のソウルで実施された。1次の合格者に対する第2次の口頭試問は東京と満州の新京(現在の長春)で行うことになっていた。4回目に募集する新入生だったが、私が受けた入試からは日本全土(韓国を含む)の中学校卒業予定者は合格後、3年制の前期(予科)の2学年に入学することになっており、私の場合、3期生になったわけである。私は大学の予科に該当する高等学校から帝国大学に進学しようと思っていたので、実力を試す模擬試験のような軽い気持ちで入学願書を出していた。
試験科目は、国語、英語、数学、地理、歴史など非常に多かったと記憶している。他の科目はとくに難しいとは思わなかったが、数学は4問中2問しか解けなかった。ところがどうしたことか、1次試験で合格の通知を受け、東京で2次試験を受けることになった。旅費は学校側で負担するというのだった》
■「崔南善教授」で決意/広島高等師範も合格
《私は東京見物を兼ねて試験日に合わせて東京に行き、学校側が指定した東京会館に投宿した。鹿児島中学の高大有という名の学生も一緒だった。口頭試問が終わった後、座談会で試験官としてきた教授たちが大学を紹介した。満州建国大学の理念のうちの一つが五族協和(日、漢、韓、蒙、ロ)だといい、少数民族を代表する教授がいるのだという。そして、朝鮮民族を代表する教授として六堂崔南善先生[訳注:崔南善(1890~1957)は朝鮮の詩人・評論家で、3・1独立宣言文の起草者として知られる。六堂は雅号]について話した。
その言葉が私の耳に響いた。3・1独立宣言文を起草した方が六堂ということぐらいは知っており、私はその場で、口頭試問で通ったら建国大学に行こうと決心した。かつて韓民族の生活領域だった満州に行くことはむしろ、その子孫として天が与えてくれたチャンスと考えた。試験結果は合格だった。一方で、建国大学から合格通知が届く前に広島高等師範の入試も受けていたのだが、それにも合格した。
建国大学に合格した以上、高等学校(大学の予科過程)受験は放棄することにした。建国大学に行くという私の決心を先生に話すと、満州にある大学の性格についてはよく分からないところがあるので、建国大学ではなく広島高等師範に行くのがいいと勧められた。しかし、私の決心は変わらなかった》
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