2023年12月16日土曜日

王が生まれた日本の島/百済歴史散策⑤

武寧王が日本で生まれたとする『日本書紀』の記述について、東京外国語大学教授などをつとめた岡田英弘さん(19312017)は次のような説明をしていた。 

  倭王興[筆者注:5世紀の「倭の五王」の一人]の宮廷に、百済の蓋鹵王[在位455475]は、弟の昆支を送って人質とした。『日本書紀』の「雄略天皇紀」に引用された『百済新撰』によると、これは四六一年のことであった。そして「雄略天皇紀」の本文の言うところによると、蓋鹵王は昆支を派遣するに当たって、妊娠して臨月の自分の妻と結婚させ、子どもが生まれたら途中からでもすぐ国に送り返すことを約束させたが、はたして筑紫の各羅(かから)島で生まれたので、島君(せまきし)と命名して百済に送った。これが後の武寧王である、という。 (岡田英弘『倭国 東アジア世界の中で』中公新書)

武寧王陵から出た墓誌石には「王は62歳になる52357日に亡くなり、525812日に葬儀をおこなった」という内容が刻まれていた。岡田さんはこれに関連して当時の朝鮮半島をめぐる情勢について次のようにも指摘していた。  

(亡くなった日から)逆算すると、誕生は四六二年で、『百済新撰』は一年まちがえているが、いずれにせよ、百済王が倭王興のもとに人質を送ったというのは事実であることが証明される。つまり、百済・倭国の反高句麗同盟の強化である。(同) 

■佐賀県・加唐島

「筑紫の各羅島」――。これは現在の佐賀県唐津市鎮西町の離島、加唐島(かからしま)に比定される。九州北部、玄界灘に突き出た東松浦半島の最北端から北に4キロのところにあり、面積284キロの小さな島である。人口は現在100人ほどという。

加唐島  佐賀県さがじかんHP

 
帝国書院『地歴高等地図』


島の洞窟 佐賀県HP

ここに武寧王が生まれたとされる洞窟がある。
島では毎年、王の「生誕祭」を催し、韓国・公州市民との交流もしているという。地元で世話役をしている鎮西公民館長の山下定則さん(67)に電話をすると、いきさつなどを話してくれた。 

公州市とは元もと、陶磁器を通した交流があった。秀吉の朝鮮侵略時に日本に連れて来られ、この地方の特産、伊万里焼の元祖となった李参平は公州が故郷。それが縁でソウル五輪があった1988年に交流が始まったのだが、武寧王と島の関係についても知られるようになり、20026月、第1回生誕祭を開いた。 

以来、毎年開いてきており、22回目の今年は、コロナ禍明けで4年ぶりに公州市や釜山市から来た40人を含め、日韓の顕彰団体の200人ほどが島に集った。福岡の韓国総領事館も島に記念碑を立てたりしている。一方で、唐津市民も公州で毎年秋に開かれる「百済文化祭」に参加しており、今年も山下さんら25人が韓国に行ってきたという。 

■「日本との関係??」

さて、韓国の公州博物館。私たちが訪れたのは金曜日の午前だったが、小学生のグループが目についた。校外学習の遠足で来た子たちだった。ソウル近郊の水原市から来たという小学5年生の子らに武寧王と日本との関係について聞いてみると、みな「知らな~い」と口をそろえた。

博物館の「子ども体験室」

 

引率の30歳代と思える女性の教師は「武寧王が日本で生まれた? 初めて聞く話です。よく調べてから子どもたちにも教えてやります。日本と関係が深いというなら、ますます日本と仲良くしないといけませんね」と笑顔をみせた。 

事務所の窓口にいた係員に聞いてみると、「詳しいことは高校で習います。日本との関係については、真実はどうであったのか。事実をありのままに伝えるのが私たちの役目です」という答えが返ってきた。 

この日の博物館はかなりのにぎわいだった。館側によると、入館者はこのところ13千人ほど。ここ10年でみると、年間入館者は5070万人。日本からも年間23千人ほど来ていたが、ここ23年はコロナで激減、いま、ようやく回復し始めてきたという。

 ■七支刀

七支刀のキーホルダー

博物館の売店には七支刀(しちしとう)のキーホルダーが売られていた。

七支刀――奈良県天理市の石上(いそのかみ)神宮に伝わる国宝のあの鉄剣のことである。全長74・9センチ。刀身の表と裏に金象嵌(きんぞうがん)の銘文(61文字)がある。錆びついていて一部判読しにくい文字もあるが、4世紀後半、つまり武寧王の時代より1世紀余前に「百済の王世子」が「倭王」に贈った――と読めるようだ。 

で、それは百済側が倭を目上の国とみて奉げたものなのか、それとも目下の国とみて下賜したのか。日本では前者の解釈が一般的だが、韓国側には後者とする主張があり、両国専門家の間で論争もおこなわれてきた。 

前回も紹介した遠山美都男さんの著書は次のように書いている。 

  百済とすれば、高句麗からの独立戦争を勝ち抜くためには倭国の軍事援助がどうしても必要であり、百済と倭国のいわば軍事同盟の証しとして、霊妙なパワーがこもっているとされたこの刀を贈ることにしたのである。 (遠山美都男『白村江 古代東アジア大戦の謎』講談社現代新書) 

朝鮮半島で同種のものは見つかっていないとはいえ、鉄剣の本元が百済であったことだけは間違いない。小学生の2人の孫のへのみやげにとキーホルダーを2個買い求めた。11万ウォン(約1100円)だった。(つづく)        波佐場 清                   

2023年12月12日火曜日

仏教公伝の聖明王が喪主/百済歴史散策④

 国立公州博物館は武寧王陵のある宋山里古墳群のすぐ近くにあった。武寧王陵の出土品を中心に大田・忠清南道地域の文化財2万点を展示しているという。折から「1500年前の百済武寧王の葬儀」という特別展を開催中だった。

国立公州博物館

 523年に武寧王が亡くなって今年でちょうど1500年。特別展は武寧王の葬儀を復元し、百済王室の葬儀文化にスポットをあてた企画という。展示品を見る前に、そもそも武寧王とはどういう王だったのか。 

5人の王

百済はすでに見たように、475年に文周王が漢江下流域をすてて公州(旧名熊津)に来てから聖王が538年に扶余(旧名泗沘)に移るまでの60余年間、ここを都にした。その間、5人の王が統治した。 

22代文周王(在位475477)▽第23代三斤王(477479)▽第24代東城王(479501)▽第25代武寧王(501523)▽第26代聖王(523538/以後扶余に遷都し554年まで在位)――である。 

これらの王は百済の再興をめざし、深刻だった支配層内部の混乱も収まって国政は安定に向かった。高句麗の圧力はその後も続いたが、武寧王は高句麗に攻め込む一方、伽耶地域への拡大もはかり、領域内の支配体制を確立した。中国南朝の梁や倭との外交活動にも手腕を発揮し、倭には五経博士をはじめ諸博士を派遣して倭の文化振興に貢献した。 (李成市「古代国家の形成と発展」吉田光男編『韓国朝鮮の歴史と社会』放送大学教育振興会) 

この武寧王の後を継いだのが、その息子で、この地で5人目の王となった聖王だった。博物館の売店で買った図録は特別展の趣旨について次のように書いてあった。 

  523年に武寧王が崩御した後、525年に墓に安置されるまで、息子の聖王は心を尽くして三年の喪に服した。本展では、武寧王の葬儀を執り行って王位を継承し、より強い百済を目指した聖王を心に刻んでもらおうと、武寧王と聖王の2人を主人公にしている。 

■聖明王

聖王とは、日本に仏教を伝えたことで知られる、あの聖明王のことである。 

高校の教科書はこう書いている。

百済の聖明王(聖王、明王とも)が欽明天皇の時に仏像・経論などを伝えたとされるが、その年代については538年(『上宮聖徳法王帝説』『元興寺縁起』)とする説と552年(『日本書紀』)とする説があり、前者の説が有力である。……(『詳説日本史B』山川出版) 

すでに見たように聖王が、百済が60余年間王城にしていた公州を逃れて扶余へ遷都したのは538年だった。つまり、まさにその同じ年に、この聖王が日本に仏教が伝えていた、ということになるわけである。 

■百済と倭国の関係

ここで、古代の百済と倭国の関係についてみておきたい。遠山美都男『白村江 古代東アジア大戦の謎』(講談社現代新書)を参考にかいつまめば次のようである。 

  本格的な外交が成立したのは4世紀だった。397年、百済は倭国とよしみを結び、その証しとして太子の腆支(とき/直支)を人質として送った。この時期まで百済は高句麗の隷属下にあったが、4世紀中ごろから独立をめざすようになり、そのために倭国の軍事力を必要とした。 

  百済からすれば、倭国との軍事同盟はしょせん高句麗との戦争を前提にしたもので、高句麗の脅威が薄らげば、その必要もなくなる。倭国はそのことが知りながら百済に対し軍事的な支配権をもっていると主張したがった。 

6世紀以降も軍事同盟は維持された。百済は主として中国の南朝から入手した当時最高の文化や技術を、軍事援助の見返りとして倭国に贈与した。仏教のほか、儒教や易学・暦学・医学などの博士が定期的に百済から倭国に派遣されたのも、軍事援助への報酬という意味合いがあった。 

いずれにしろ、武寧王による五経博士の派遣や聖王による仏教公伝は、日本の飛鳥文化の幕開けへとつながっていったのである。 

■日本の木材で作った棺

公州博物館では、特別展を中心に見て回った。そのコーナーには武寧王陵出土品を中心に126件が展示されていた。埋葬者が武寧王と特定できた墓誌石、遺体を納めた木棺、王が身に着けていた装飾品、玄室と外部をつなぐ羨道で見つかった、墓を守る想像上の動物という石造の鎮墓獣などだ。 

墓誌石。武寧王の名前と死亡年月日、葬儀に関することなどが刻まれ、裏面には干支図が描かれている。

公州博物館HP

 

鎮墓獣。高さ30センチ、長さ473センチ、重さ482キロ。頭に角があり、本体には翼が付いている。墓を守り死者の魂を神仙世界に導くとされていた。博物館前の広場にはこの鎮墓獣を模した大きな石像が据えられている。

金製かんざし。王の頭付近で見つかった。長さ184センチ、幅68センチ。髪に挿す部分は鳥の尾を形象化している。

公州博物館HP

 

公州博物館HP

木の枕と足座。 表面に漆を塗った後、金板を付けて六角柄を作り、その各隅と内側を金の花柄で飾ってある。枕の木材はイチイ。高さ20センチ。 

興味深かったのは木棺だ。軒を付けて家の形につくってあり、長さ248・8センチ。日本固有の材、コウヤマキ(高野槙)を用いている。実際、この王は、桓武天皇の生母高野新笠との「ゆかり」に限らず、日本との関係は深かったようだ。

武寧王が眠っていた木棺

『日本書紀』には、この王は日本で生まれた、と書かれている。(つづく)                  波佐場 清               

2023年12月8日金曜日

日本と「ゆかり」の王/百済歴史散策③

2日目、私たちはまず、公州市街地から北西へ約1キロ、錦江のすぐ南側の丘陵地にある宋山里古墳群に向かった。日本の植民地期、1930年代に日本人によって発見された「熊津百済」期の古墳群で、現在、7基が「王陵」として整備されている。 

■武寧王陵

目玉は何と言っても、武寧王(在位501523)と王妃を合葬した武寧王陵である。19717月、それまでに発掘された古墳の排水施設工事をしていて偶然見つかった。 

盗掘など、荒らされた形跡はなく、木棺や副葬品が完全なかたちで残っていた。出土した墓誌石から、被葬者は武寧王とその王妃とわかった。三国時代の古墳は数多く見つかっているが、被葬者の身元が特定できたのはこれが唯一という。 

「公州武寧王陵と王陵園」と書かれた料金所のゲートをくぐると、ゆるやかな丸みを帯びた古墳群があった。芝生できれいに整備されている。そのうちの一つ、直径20メートルほどだろうか……、それが武寧王陵だった。

武寧王陵あたりの古墳群

 入り口は固く閉ざされていた。保存上、19977月、国の文化財庁が「永久非公開」を決めた、という説明が表示されていた。近くに実物を再現したレプリカがつくられ、そこで内部を疑似体験できるようにしてあった。

丘陵の上の方ではいまも発掘調査が進められている。

 ■天皇の「韓国とのゆかり」発言

武寧王といえば、思い出されることがある。先代天皇(明仁上皇)が20011218日、68歳の誕生日を前にした記者会見で、平安京遷都で知られる桓武天皇とのからみで、この武寧王のことに言及したのである。次のような内容だった。  

私自身としては、桓武天皇の生母が百済の武寧王の子孫であると、続日本紀に記されていることに、韓国とのゆかりを感じています。武寧王は日本との関係が深く、この時以来、日本に五経博士が代々招へいされるようになりました。また、武寧王の子、聖明王は、日本に仏教を伝えたことで知られております。(宮内庁HP) 

日韓共同開催となった2002年のワールドカップ・サッカー大会を翌年に控えての発言だった。桓武天皇の生母とは高野新笠(たかののにいがさ)のことである。 

上皇はここで、日韓の古代の良好な交流について述べたあと、両国関係はそのような交流ばかりではなかったことも指摘し、「両国の人々が、それぞれの国が歩んできた道を、個々の出来事において正確に知ることに努め、個人個人として、互いの立場を理解していくことが大切」と話した。そして、ワールドカップを機に両国民の間に理解と信頼感が深まることを願う、と述べたのだった。 

この「韓国とのゆかり」発言は波紋を呼んだ。韓国の主要新聞はこれを1面で大きく報じた。その時、私はたまたま出張でソウルにいたのだが、宿泊していたホテルのフロント係に感想を求めると、「驚いた。天皇の祖先がわが国の人だったんですね」と戸惑いの表情だったのを印象深く覚えている。 

■高野新笠

上皇は、特別なことを言ったわけではない。高校の教科書は次のように書いている。 

光仁天皇は、行財政の簡素化や公民の負担軽減などの政治再建政策につとめた。やがて781(天応元)年に亡くなる直前、天皇と渡来系氏族の血を引く高野新笠のあいだに生まれた桓武天皇が即位した。 (『詳説 日本史B』山川出版) 

京都女子大名誉教授の瀧浪貞子さんは今年8月に出した近著で、すこし詳しく書いている。 

  新笠は和乙継(やまとのおとつぐ)を父、土師真妹(はじのまいも)を母として生まれた。『新撰姓氏録』[筆者注:古代氏族の出自を記した平安初期の書]によれば、父方の和氏は「百済国の都慕(つも)王の十八世孫、武寧王自(よ)り出(い)づ」と記し、『続日本紀』(延暦八年<七八九>十二月二十八日条)にも、「后(新笠)の先は百済の武寧王の子純陀(じゅんだ)太子より出づ」と記されているように、百済国王を始祖とする渡来氏族だという。都慕王(「とぼおう」とも)は扶余(ふよ)を開国したと伝える伝説上の人物であり(武寧王の子、純陀太子は継体(けいたい)七年<五一三>八月に亡くなったことが伝えられている)、一族は武烈(ぶれつ)天皇の時に「帰化(きか)」したとされている(『日本書紀』)。  (瀧浪貞子『桓武天皇――決断する君主』岩波新書) 

高野新笠については作家の司馬遼太郎も次のように書いていた。 

   百済から渡来した者の子で、実家はなお百済の遺習をもっていたらしい。父は奈良の小吏であった。田地もさほど多くはなかったらしいが、いずれにしても桓武の意識のなかにはつねに諸蕃[『新撰姓氏録』で渡来人の子孫とした氏]のことがあった。かれが中国風の祭天の儀式をおこなったのも河内の交野(かたの)の百済村においてであろう。そのやりかたも百済村に遺っていたものに準拠したと思われるし、さらにかれは百済王家をひきたて、その後宮にその系統の女性を何人も入れたりした。(司馬遼太郎『空海の風景(上)』中公文庫) 

司馬がここで、新笠の実家になおもあったとする「百済の遺習」とは、どういうものだったのだろうか。 

■出土4600

さて、現地の宋山里古墳群。武寧王陵のレプリカの内部に入ってみる。


王と王妃が眠っていた玄室は、南北方向に長さ420メートル、東西の272メートル、アーチ形天井の高さは293メートル。壁面はぎっしり積まれた、塼(せん)とよばれる煉瓦で覆われている。中国南朝の梁(502557)の強い影響がうかがえるという。 

ここから、のちに国宝に指定される17点を含む約4600点の遺物が出土した。それらは近くの国立公州博物館で展示されている。私たちはそこへ向かった。(つづく)

                                波佐場 清

参考資料(百済歴史散策①~③)

小島毅『父が子に語る 近現代史』(ちくま文庫)

文部省『尋常科用 小学国史上巻』(昭和15年2月27日発行)

姜在彦『新版朝鮮の歴史と文化』(明石書店)

姜在彦『歴史物語 朝鮮半島』(朝日選書)

文科省検定教科書『詳説日本史B』(山川出版)

瀧浪貞子『桓武天皇――決断する君主』(岩波新書)

司馬遼太郎『空海の風景(上)』(中公文庫) 


2023年12月4日月曜日

漢江下流域から公州へ/百済歴史散策②

ツアーは「白村江の戦い 百済歴史散策 扶余・公州・益山・瑞山 4日間」というものだった。大阪の南海国際旅行社が企画した。扶余(プヨ)、公州(コンジュ)、瑞山(ソサン)はいずれも忠清南道、益山(イクサン)はすぐ南に隣接する全羅北道にある。 

白村江の戦い――。手っ取り早く、たとえば手元の辞書を引いてみる。 

  663年、白村江で、日本・百済連合軍と唐・新羅連合軍との間に行われた海戦。日本は、660年に滅亡した百済の王子豊璋を救援するため軍を進めたが、唐の水軍に敗れ、百済は完全に滅んだ。(広辞苑) 

で、その白村江(はくそんこう)とは? 

  朝鮮南西部を流れる錦江河口の古名。今の群山付近。はくすきのえ。白江。(同) 

■清州から公州へ

112日(木)11時、エアロKAero-K)機で関空を発ち、軍と共用の清州(チョンジュ)空港(忠清北道)から韓国に入った。飛行時間1時間半余。ツアー参加者23人、男女ほぼ半々、夫婦連れも何組かいた。多くが私たち同様、現役を退いたとみられる人たちだったが、比較的若い人もまじっていた。 

清州空港を出ると大型バスでまず、公州に向かった。標高200300メートルほどの山々の間をぬう高速道路を1時間。色づき始めた木々や、刈り取りを終えた田に並べられた稲わらのロールが秋の陽ざしに映えていた。 

公州ではまず、公山城に案内された。手渡された日本語のパンフレットには「百済の息遣いが感じられる世界遺産都市・公州」「公山城は、熊津百済の時期を代表する古代城郭である」などとある。


 熊津百済? 韓国、朝鮮半島にはそれなりに関心があり、新聞記者としてソウルに駐在したこともある。しかし、目先のニュースに追い立てられ、歴史、とくに古代史についてはほとんど勉強してこなかった。このあたりを訪ねた記憶はあるが、基礎知識に乏しく、ただ風景として眺めているだけだった。 

今回、関連した本を何冊か買い、書棚でほこりをかぶっていた何冊かを読み返した。学生時代の試験前の一夜漬けにも似た、にわか勉強である。 

■「三国時代」

そもそも百済とはどんな国だったのか――。新羅、高句麗とあわせて語られる朝鮮半島の「三国時代」とはどういう時代だったのか。 

大阪で何かとお教えをいただいた歴史家姜在彦先生(1926 2017)の『新版 朝鮮の歴史と文化』(明石書店)と『歴史物語 朝鮮半島』(朝日選書)に沿って私なりにかみ砕くと、次のようである。 

  高句麗は始祖伝説によると、朱蒙(チュモン)が紀元前37年、いま中朝国境になっている鴨緑江の右岸(中国側)地域を拠点に国を開いた。313年に楽浪郡を占領するなど中国勢力を朝鮮半島から追放。4世紀末~5世紀、「好太王碑」(中国吉林省に現存)で知られる広開土王(在位392413)と、平壌に都を移した次の長寿王(413491)の代に大きく勢力を伸ばし、南方の百済と新羅を圧迫した。 

 百済は、馬韓諸部族を伯済族が統合して建国した。始祖の温祚王は高句麗の朱蒙の次男とされ、前18年に即位。漢江下流域、今のソウル江南地域の漢城に都を定めた。371年、百済の近肖古王(346375)は平壌城を攻め、高句麗の故国原王を戦死させた。百年後の475年、こんどは高句麗の長寿王が百済を攻め、百済の蓋鹵王を殺害。後継の文周王は百済発祥の地である漢江流域を放棄し、錦江中流の熊津(ウンジン/いまの公州)に都を移した。

6世紀の朝鮮半島 『詳説日本史B』(山川出版) 

 新羅は半島南東部の辰韓諸部族を斯盧族が統合して国を開き、慶州(金城)に都を置いた。始祖は朴赫居世(パクヒョッコセ)なる人物で、前57年に即位したとされる。長く土着的な色彩を帯びていたが、6世紀初め、法興王(514540)が仏教を公認するなどして中央集権的な国づくりを進めた。 

そんな6世紀、3国に大きな動きがみられた。百済の聖王(在位523554)は高句麗の圧迫もあって538年、熊津から泗(サビ/いまの扶余)へ遷都。新羅の真興王(540576)と結び、551年に旧王都の漢城をいったん高句麗から奪回した。 

ところが新羅は、その漢城を百済から奪い取った。半島南東端に位置した新羅にとっても中国大陸に海路がつながる漢江河口への進出は宿願だった。新羅の裏切りに激怒した聖王は554年新羅軍を攻めたが、返り討ちに遭って殺された。以来、百済はそれまで敵であった高句麗と手を結んで新羅と敵対していった。 

6世紀前半ごろまでの動きは、ざっと以上のようである。漢江流域を確保して三国競争の主導権をとった新羅は、このあと北方に勢力を拡大、南方の洛東江河口付近にあって日本(倭軍)も進出していた加耶諸国(任那)も併合していった。新羅はその後さらに唐と結んで百済、高句麗を滅ぼし、7世紀後半、半島の統一を成し遂げたのだった。

王宮跡

さて、私たちが訪れた公山城。案内パンフの「熊津百済」とは、いま見た通り、公州に都を置いた475年から538年まで60余年間の百済をいうのである。日本ではヤマト政権が関東や九州中部にまで支配体制を広げていった時代だった。 

そのころの日本の海外との関係についていえば、「倭の五王」最後の王、武王(雄略天皇)が中国南朝の宋(420479)に朝貢したのが478年。北九州で筑紫の豪族が新羅と結んでヤマト政権に抗った「磐井(いわい)の反乱」は527年のことだった。 

公州城の城郭は錦江に接した標高百メートルほどの山の稜線を中心に渓谷を包み込むかたちで築かれていた。総延長2・6キロ余。百済時代は土城だったが、朝鮮王朝時代に石城に改築され、土城が残るのは一部だけという。 

城内に入ってなだらかな坂道を登った。頂上付近が平地になっており、小さな池の跡が見えてきた。


のぞいてみると深さ10メートルほど。底に石が敷かれ、側壁もぎっしりと石が積まれている。ここらあたりに王宮があったとみられ、池は防火用などに使われたようだという。発掘作業はいまも続いている。 

帰路、城郭の上の狭い歩道を伝って下におりた。遠くに公州市街が見える。人口は年々減って現在11万。観光が主要産業で、国立公州大学は教員養成の名門として知られ、全国から学生を集めているという。

 この公州市と隣接の扶余郡、益山市の3地域に分布する遺跡地が「百済歴史遺跡地区」として2015年、ユネスコの世界遺産に登録された。私たちは公州市内に宿所を定め、この地域の遺跡を主に巡っていくことになる。 

次は、公山城のすぐ近くにある武寧王陵と、そこから出た遺物を主に展示する国立公州博物館だった。(つづく)

         波佐場 清