韓国政府は4月11日、日本が朝鮮半島を統治していた1919年、中国上海にできた「大韓民国臨時政府」の発足100周年を祝う式典をソウルの汝矣島(ヨイド)広場で開き、李洛淵首相が記念の演説をした。https://www.youtube.com/watch?v=1L81-M9puQU
元もと文在寅大統領が演説する予定だったが、米国での米韓首脳会談と重なり、李首相が出席した。
韓国ではかねて保守派を中心に解放後、李承晩大統領が韓国政府を樹立した1948年8月15日を建国の起点としてきたが、文在寅政権は上海臨時政府を韓国建国のルーツと位置づけており、李首相も演説でその点を強調した。
上海臨時政府には当初、中国大陸や沿海州、米国などで活動していた独立運動家らがイデオロギーを超えて結集していた。韓国建国のルーツとしての上海臨時政府のアピールは、分断国家にあって「民族の一体性」を重視する文在寅政権の戦略とも絡んでいる。
以下に、李洛淵首相の演説を翻訳してみた。
■歴史を刻む汝矣島広場
尊敬する国民のみなさん、海外同胞のみなさん、
ここはソウルの汝矣島広場です。中国で活動していた大韓民国臨時政府光復軍の4人が解放3日後、最初に祖国の地を踏んだのが、まさにこの場所です。
その後も汝矣島は私たちの歴史と共にありました。民主化初期には大統領選挙の遊説対決がここで繰り広げられました。多くの離散家族が涙の再会をしたのもここでした。そしていま、汝矣島は大韓民国の政治、経済、メディアの心臓部として脈打っています。
100年前のきょう、大韓民国臨時政府が中国で創建されました。その100周年を私たちは、大韓民国現代史を証言する汝矣島で記念しています。
■100年前に韓国の枠組み
帝国主義日本が祖国を踏みにじっていた1919年3月1日、私たちの先祖らは「朝鮮は独立した国」であり、「朝鮮人がこの国の主人だ」と宣言しました。その日から国の内外で独立万歳の運動が広がっていきました。とくに4月11日には民族の先覚者たちが中国の上海で大韓民国臨時政府をつくりました。
臨時政府は新しい国の国号を「大韓民国」、国体を「民主共和制」と定めました。臨時政府は国民の「平等」と「自由」を約束し、「太極旗」と「愛国歌」を国家の象徴として公式化しました。現在の大韓民国の枠組みはそのときに、つくられました。臨時政府の指導者らの時代を先取りした民主意識と透徹した愛国愛民の実践に敬意を表してやみません。
■大陸4000㌔を巡り、重慶へ
臨時政府はいばら道を歩みました。先賢たちは三度の食事もまともに取らず、所かまわずに睡眠をとりました。とくに、1932年尹奉吉義士<訳注1>の上海虹口公園での義挙後は、日帝の銃剣が臨時政府のノド元にまで迫りました。臨時政府は上海を離れなければなりませんでした。
<訳注1>尹奉吉(ユン・ボンギル/1908~32)は、韓国忠清南道出身。中国に渡り、上海の大韓民国臨時政府で活動していた独立運動家金九(1876~1949)の指令を受け、1932年4月29日、上海虹口公園で開かれた「天長節祝賀会」に集った日本の要人たちに手榴弾を投擲した。これによって、上海派遣軍司令官陸軍大将の白川義則ら2人が死亡。ほかに第3艦隊司令長官海軍中将野村吉三郎(のちに外相、駐米大使など)、第9師団長陸軍中将植田謙吉、上海駐在公使重光葵(のちに外相など)ら多数が負傷、野村は隻眼となり、重光は片足を失った。尹奉吉は現場で逮捕され、上海派遣軍軍法会議で死刑判決。大阪衛戍刑務所をへて同年12月、第9師団の駐屯地だった石川県金沢市の軍法会議拘禁所へ移され、同市内で銃殺刑に処せられた。
その後、杭州、長沙、広州、綦江など、8年間にわたって4千㌔を巡り、1940年に重慶に落ち着きました。重慶で臨時政府は光復軍を創設し、日本に宣戦布告しました。光復軍は連合軍と共に中国、インド、ミャンマー戦線に身を投じ、韓国国内への侵攻作戦も立てていました。
臨時政府の26年4カ月間、多くの要人とその家族らが飢えや酷寒、病魔で倒れていきました。多くの義士と烈士が日帝と戦い、彼らの銃剣によって息を引き取っていきました。
■解放→分断→戦争
1945年8月15日、日本は降伏し、祖国は解放を迎えました。金九主席をはじめとする臨時政府の指導者らはその年11月、金浦空港から祖国に帰ってきました。
祖国は臨時政府の指導者らが夢見た状態ではありませんでした。臨時政府が活動していた時期は南も北もありませんでした。しかし解放された祖国にはすでに南北分断の影が垂れ込めていたのです。間もなく南北それぞれに別個の政府が建てられ、北の侵略によって同族同士で争い、殺し合う戦争が繰り広げられました。
■経済成長→民主化→世界11位の経済力
大韓民国は深い絶望に呻吟しました。一人当たり国民所得60㌦、世界最貧国の一つでした。政治的混乱が続きました。そのような試練を経て大韓民国は経済を成長させ、民主化を実現させました。
いまや大韓民国は世界11位の経済力と先進国レベルの民主政治を実現しています。とくに昨年、大韓民国は人口5千万以上の国にあって一人当たり国民所得が3万㌦に達した「30-50クラブ」に仲間入りしました。世界で7番目ですが、韓国の除くあとの6カ国はいずれも植民地を持って早くから経済力を蓄えてきた国々です。そんな中にあって韓国だけが植民地からの独立国だったのです。
これは大韓民国の偉大な成就です。こうも誇らしい大韓民国を築き上げた国民のみなさんに感謝を申し上げます。100年前に臨時政府を建てた先賢の方々に本日、私は後裔の偉大な成就をおこがましくも、ここに報告申し上げる次第です。
■臨時政府の法統を継承
いまの大韓民国は先賢たちの念願と犠牲の上にあります。大韓民国は臨時政府をルーツとし、その上に柱を建て、枝を伸ばし、花を咲かせました。現行憲法は「わが大韓民国は3・1運動で建立された大韓民国臨時政府の法統」を継承する、と宣言しています。
他郷暮らしの苦難と死の危険に耐え、独立に身を投じた臨時政府の先賢の方々を追慕し、感謝を申し上げます。
当然のことながら、私たちは独立の歴史を記憶し後世に伝え、犠牲になられた先人を礼遇しなければなりません。政府は2021年末の開館を目指してソウルの西大門に、臨時政府記念館を建てる準備を進めています。金九主席ら独立運動家7人の霊を祀るソウルの孝昌公園を、独立運動を記念する空間として造成します。
先ごろ、重慶の光復軍総司令部を復元し、ロシア・ウスリースクに崔在亨<訳注2>記念館を開館しました。米国フィラデルフィアの徐載弼<訳注3>記念館は再開館を目前にしています。日帝強占期[日本による植民地支配の時期]の受刑者や女性、義兵独立運動家ら約4300人を新たに探し出し、褒章の準備を進めています。
<訳注2>崔在亨(チェ・ジェヒョン/1860~1920)は、沿海州の朝鮮人社会の最高リーダーとして活躍し、上海臨時政府の初代財務総長にも選ばれた。ロシア革命(1917年)への干渉目的で日本軍がシベリアに出兵したのに伴って起きた尼港事件(1920年3~5月)で日本軍に捕らわれ、銃殺された。
<訳注3>徐載弼(ソ・ジェピル/1864~1951)は、朝鮮の独立運動家。開化派の金玉均と交わり、日本留学後1884年の甲申事変に参加、敗れて米国に亡命。95年朝鮮に帰国し、「独立新聞」を発刊、独立協会の運動を支えた。その後、再度渡米し、3・1運動後、米国で独立運動を展開した。
■より良い祖国へ、新たな挑戦
過去100年、私たちの歴史は決して平坦なものではありませんでした。35年間にわたって外国勢力の支配を受け、3年間戦争を行いました。71年間にわたって分断されたまま南北が互いを憎み合い、反目し合いながら生きてきました。惨めな貧困と、相次ぐ政変も経験しました。
このような苦難に耐えて私たちは世界が注目する国家に発展しました。しかし私たちはここで歩みを止めるわけにはいきません。私たちはよりよい祖国をつくるために挑戦しなければなりません。
第一に、祖国の分断を克服し、「平和と繁栄の韓(朝鮮)半島」を実現しなければなりません。そのために私たちは米国、中国、日本、ロシアなど国際社会と協力し、韓半島の平和と共同繁栄を模索しています。
第二に、経済の再跳躍へ、「革新国家」を実現しなければなりません。私たちは革新によって新しい経済発展の動力をつくろうと革新成長に邁進しています。
第三に、国民が共によく暮らせる「包容国家」へと進まなければなりません。私たちは不平等が緩和され、すべての人が共同体のなかに抱かれて暮らせるよう、さらに努力をしていきます。
第四に、国民が安心して暮らせる「安全な国家」にしていかなければなりません。私たちは災害や災難、事件、事故を減らし、その被害を最小化しようと奮発しています。
第五に、法と常識が支配する「正義国家」を打ち建てなければなりません。私たちはどのような特権も反則も容認しない法治主義を確立しようと決心しています。
■平和・繁栄、革新、包容、安全、正義
民族の先覚者たちは祖国独立のために生命、財産を惜しみませんでした。私たちは先賢の念願と犠牲を忘れることはできません。
こんどは私たちが成さねばなりません。「平和と繁栄の韓半島」を追求し、「革新国家」「包容国家」「安全国家」「正義国家」をつくっていけるよう、今日の私たちが打って出なければなりません。私たちは100年前の大韓民国臨時政府を建てた先賢たちの前で「やってみせる」といっしょに誓いましょう。
先賢たちは大韓民国を助けてくれるものと信じます。大韓民国は永遠です。
(波佐場 清訳)
韓国国務総理秘書室HP 上海臨時政府樹立100周年記念式典で演説する李洛淵首相 |
韓国ではかねて保守派を中心に解放後、李承晩大統領が韓国政府を樹立した1948年8月15日を建国の起点としてきたが、文在寅政権は上海臨時政府を韓国建国のルーツと位置づけており、李首相も演説でその点を強調した。
上海臨時政府には当初、中国大陸や沿海州、米国などで活動していた独立運動家らがイデオロギーを超えて結集していた。韓国建国のルーツとしての上海臨時政府のアピールは、分断国家にあって「民族の一体性」を重視する文在寅政権の戦略とも絡んでいる。
以下に、李洛淵首相の演説を翻訳してみた。
■歴史を刻む汝矣島広場
尊敬する国民のみなさん、海外同胞のみなさん、
ここはソウルの汝矣島広場です。中国で活動していた大韓民国臨時政府光復軍の4人が解放3日後、最初に祖国の地を踏んだのが、まさにこの場所です。
その後も汝矣島は私たちの歴史と共にありました。民主化初期には大統領選挙の遊説対決がここで繰り広げられました。多くの離散家族が涙の再会をしたのもここでした。そしていま、汝矣島は大韓民国の政治、経済、メディアの心臓部として脈打っています。
100年前のきょう、大韓民国臨時政府が中国で創建されました。その100周年を私たちは、大韓民国現代史を証言する汝矣島で記念しています。
■100年前に韓国の枠組み
帝国主義日本が祖国を踏みにじっていた1919年3月1日、私たちの先祖らは「朝鮮は独立した国」であり、「朝鮮人がこの国の主人だ」と宣言しました。その日から国の内外で独立万歳の運動が広がっていきました。とくに4月11日には民族の先覚者たちが中国の上海で大韓民国臨時政府をつくりました。
臨時政府は新しい国の国号を「大韓民国」、国体を「民主共和制」と定めました。臨時政府は国民の「平等」と「自由」を約束し、「太極旗」と「愛国歌」を国家の象徴として公式化しました。現在の大韓民国の枠組みはそのときに、つくられました。臨時政府の指導者らの時代を先取りした民主意識と透徹した愛国愛民の実践に敬意を表してやみません。
■大陸4000㌔を巡り、重慶へ
臨時政府はいばら道を歩みました。先賢たちは三度の食事もまともに取らず、所かまわずに睡眠をとりました。とくに、1932年尹奉吉義士<訳注1>の上海虹口公園での義挙後は、日帝の銃剣が臨時政府のノド元にまで迫りました。臨時政府は上海を離れなければなりませんでした。
<訳注1>尹奉吉(ユン・ボンギル/1908~32)は、韓国忠清南道出身。中国に渡り、上海の大韓民国臨時政府で活動していた独立運動家金九(1876~1949)の指令を受け、1932年4月29日、上海虹口公園で開かれた「天長節祝賀会」に集った日本の要人たちに手榴弾を投擲した。これによって、上海派遣軍司令官陸軍大将の白川義則ら2人が死亡。ほかに第3艦隊司令長官海軍中将野村吉三郎(のちに外相、駐米大使など)、第9師団長陸軍中将植田謙吉、上海駐在公使重光葵(のちに外相など)ら多数が負傷、野村は隻眼となり、重光は片足を失った。尹奉吉は現場で逮捕され、上海派遣軍軍法会議で死刑判決。大阪衛戍刑務所をへて同年12月、第9師団の駐屯地だった石川県金沢市の軍法会議拘禁所へ移され、同市内で銃殺刑に処せられた。
その後、杭州、長沙、広州、綦江など、8年間にわたって4千㌔を巡り、1940年に重慶に落ち着きました。重慶で臨時政府は光復軍を創設し、日本に宣戦布告しました。光復軍は連合軍と共に中国、インド、ミャンマー戦線に身を投じ、韓国国内への侵攻作戦も立てていました。
臨時政府の26年4カ月間、多くの要人とその家族らが飢えや酷寒、病魔で倒れていきました。多くの義士と烈士が日帝と戦い、彼らの銃剣によって息を引き取っていきました。
■解放→分断→戦争
1945年8月15日、日本は降伏し、祖国は解放を迎えました。金九主席をはじめとする臨時政府の指導者らはその年11月、金浦空港から祖国に帰ってきました。
祖国は臨時政府の指導者らが夢見た状態ではありませんでした。臨時政府が活動していた時期は南も北もありませんでした。しかし解放された祖国にはすでに南北分断の影が垂れ込めていたのです。間もなく南北それぞれに別個の政府が建てられ、北の侵略によって同族同士で争い、殺し合う戦争が繰り広げられました。
■経済成長→民主化→世界11位の経済力
大韓民国は深い絶望に呻吟しました。一人当たり国民所得60㌦、世界最貧国の一つでした。政治的混乱が続きました。そのような試練を経て大韓民国は経済を成長させ、民主化を実現させました。
いまや大韓民国は世界11位の経済力と先進国レベルの民主政治を実現しています。とくに昨年、大韓民国は人口5千万以上の国にあって一人当たり国民所得が3万㌦に達した「30-50クラブ」に仲間入りしました。世界で7番目ですが、韓国の除くあとの6カ国はいずれも植民地を持って早くから経済力を蓄えてきた国々です。そんな中にあって韓国だけが植民地からの独立国だったのです。
これは大韓民国の偉大な成就です。こうも誇らしい大韓民国を築き上げた国民のみなさんに感謝を申し上げます。100年前に臨時政府を建てた先賢の方々に本日、私は後裔の偉大な成就をおこがましくも、ここに報告申し上げる次第です。
■臨時政府の法統を継承
いまの大韓民国は先賢たちの念願と犠牲の上にあります。大韓民国は臨時政府をルーツとし、その上に柱を建て、枝を伸ばし、花を咲かせました。現行憲法は「わが大韓民国は3・1運動で建立された大韓民国臨時政府の法統」を継承する、と宣言しています。
他郷暮らしの苦難と死の危険に耐え、独立に身を投じた臨時政府の先賢の方々を追慕し、感謝を申し上げます。
当然のことながら、私たちは独立の歴史を記憶し後世に伝え、犠牲になられた先人を礼遇しなければなりません。政府は2021年末の開館を目指してソウルの西大門に、臨時政府記念館を建てる準備を進めています。金九主席ら独立運動家7人の霊を祀るソウルの孝昌公園を、独立運動を記念する空間として造成します。
先ごろ、重慶の光復軍総司令部を復元し、ロシア・ウスリースクに崔在亨<訳注2>記念館を開館しました。米国フィラデルフィアの徐載弼<訳注3>記念館は再開館を目前にしています。日帝強占期[日本による植民地支配の時期]の受刑者や女性、義兵独立運動家ら約4300人を新たに探し出し、褒章の準備を進めています。
<訳注2>崔在亨(チェ・ジェヒョン/1860~1920)は、沿海州の朝鮮人社会の最高リーダーとして活躍し、上海臨時政府の初代財務総長にも選ばれた。ロシア革命(1917年)への干渉目的で日本軍がシベリアに出兵したのに伴って起きた尼港事件(1920年3~5月)で日本軍に捕らわれ、銃殺された。
<訳注3>徐載弼(ソ・ジェピル/1864~1951)は、朝鮮の独立運動家。開化派の金玉均と交わり、日本留学後1884年の甲申事変に参加、敗れて米国に亡命。95年朝鮮に帰国し、「独立新聞」を発刊、独立協会の運動を支えた。その後、再度渡米し、3・1運動後、米国で独立運動を展開した。
■より良い祖国へ、新たな挑戦
過去100年、私たちの歴史は決して平坦なものではありませんでした。35年間にわたって外国勢力の支配を受け、3年間戦争を行いました。71年間にわたって分断されたまま南北が互いを憎み合い、反目し合いながら生きてきました。惨めな貧困と、相次ぐ政変も経験しました。
このような苦難に耐えて私たちは世界が注目する国家に発展しました。しかし私たちはここで歩みを止めるわけにはいきません。私たちはよりよい祖国をつくるために挑戦しなければなりません。
第一に、祖国の分断を克服し、「平和と繁栄の韓(朝鮮)半島」を実現しなければなりません。そのために私たちは米国、中国、日本、ロシアなど国際社会と協力し、韓半島の平和と共同繁栄を模索しています。
第二に、経済の再跳躍へ、「革新国家」を実現しなければなりません。私たちは革新によって新しい経済発展の動力をつくろうと革新成長に邁進しています。
第三に、国民が共によく暮らせる「包容国家」へと進まなければなりません。私たちは不平等が緩和され、すべての人が共同体のなかに抱かれて暮らせるよう、さらに努力をしていきます。
第四に、国民が安心して暮らせる「安全な国家」にしていかなければなりません。私たちは災害や災難、事件、事故を減らし、その被害を最小化しようと奮発しています。
第五に、法と常識が支配する「正義国家」を打ち建てなければなりません。私たちはどのような特権も反則も容認しない法治主義を確立しようと決心しています。
■平和・繁栄、革新、包容、安全、正義
民族の先覚者たちは祖国独立のために生命、財産を惜しみませんでした。私たちは先賢の念願と犠牲を忘れることはできません。
こんどは私たちが成さねばなりません。「平和と繁栄の韓半島」を追求し、「革新国家」「包容国家」「安全国家」「正義国家」をつくっていけるよう、今日の私たちが打って出なければなりません。私たちは100年前の大韓民国臨時政府を建てた先賢たちの前で「やってみせる」といっしょに誓いましょう。
先賢たちは大韓民国を助けてくれるものと信じます。大韓民国は永遠です。
(波佐場 清訳)
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