写真は、いずれも今年6月15日夜、南北首脳会談17周年にあわせて韓国KBSで放送された
「KBSスペシャル―遠い記憶 6・15南北首脳会談」のテレビ画面から
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<イム・ドンウォン>
1933年平安北道生まれ。韓国陸軍士官学校、ソウル大卒。80年陸軍少将として予備役編入。駐オーストラリア大使。盧泰愚政権下で南北高位級会談代表。金大中政権下で大統領外交安保首席秘書官、統一相、国家情報院長など。著書に『피스메이커(Peace-maker)』(중앙books)=日本語訳『南北首脳会談への道 林東源回顧録』(波佐場清訳、岩波書店)など。
(3)南北の和解と協力を推進
2000年6月、金大中大統領は平壌を訪問して分断後初の南北首脳会談を開き、それを平和と統一への画期的な転機として和解と協力の新しい時代を開いていくことになります。
南北両首脳は真摯な対話を通し、統一は達成しなければならない目標だが、平和的に成さねばならず、漸進的、段階的に進めていく「過程」であるという点で認識を同じくしたのです。
そして、平和と統一への長い過程を南北が共同で推進し管理していくための協力機構として「南北連合」(confederation)構成の必要性について合意します。南と北が互いに行き来し、助け合い、分かち合う、そんな経済、社会、文化的には統一したも同然の「事実上の統一」状況から実現しようというものです。南と北はまず、「経済協力を通して民族経済をバランスよく発展させ、社会、文化、スポーツ、保健、環境など各分野の協力と交流を活性化しながら相互の信頼を固めていく」ことで合意します。
このような共通認識に基づいて「6・15南北共同宣言」を採択し、南北の交流と協力を本格的に始めます。DMZ(非武装地帯)内の地雷を除去して断たれた鉄道と道路をつなぎ、空路と海路も開きました。分断後初めて人とモノが南北を行き来するようになったのです。
朝鮮半島の東側では金剛山観光団地、西側では南北経済共同体の足掛かりとなる開城工業団地(南側の企業約120社、北側労働者約5万余人)を建設、運営することとなりました。
離散家族が再会し、各分野で人々の往来と出会い(44万人)、交流と協力が推進されました。交易と経済協力も活気を帯び始めました。北に年平均2億4千万ドル相当の食糧、肥料、医薬品などの人道的支援(韓国民1人当たり5ドル/年)が提供されました。西ドイツが東ドイツに提供した規模(32億ドル/年)に比べると、10分の1にも満たない水準です。
経済、社会、文化、宗教、スポーツ、観光など各分野における人々の出会いと往来、交流と協力が活性化し、当局間の対話だけでなく市民参加の空間が開かれ、互いに相手方についてより多くを知ることができるようになりました。敵対意識が和らぎ、緊張が緩和し、相互信頼が芽生え始めました。民族共同体意識が涵養され、統一は接触と往来、交流と協力を通して現在進行形でつくっていく過程だという認識が広がりはじめました。
半世紀にわたる不信と対決の時代を乗り越えて初めて和解と協力の新しい時代が開かれ始めたのです。行く道は遠く、厳しくはあるが、大きな意味を持つ重要なスタートでした。
エゴン・バール博士は「南北連合」を通じた統一案を高く評価しました。東ドイツで市民革命の直後に統一問題が論議されたとき、西ドイツのヘルムート・コール首相は統一の後遺症を憂えて過渡的段階としての「国家連合」を通した漸進的、段階的な統一案(1989年11月28日)を提示しましたが、東ドイツ市民はすぐに統一する道を選んだのでした。
エゴン・バール博士はまた、ソウルを訪問した際に現地を見ていた開城工団事業を高く評価し、これを拡大発展させて南北経済共同体を形成していこうというのは非常に賢明かつ未来志向的で、平和統一へ向かう正しい道だと絶賛していました。
(4)南北関係の閉塞と東方政策の教訓
しかし、過去9年間にわたって南北関係が閉塞し、和解と交流・協力の朝鮮半島平和プロセスは中断してしまいました。
米国にブッシュ政権ができて北朝鮮の政権をイラク、イランとともに「悪の枢軸」(axis of evil)といい、軍事的先制攻撃(preemption)で除去(regime change)すべき対象だと宣言し、敵対視政策を推進します。クリントン政権の包容政策と朝鮮半島平和プロセスを全面否定(ABC)し、8年間にわたって北の核活動を凍結してきた米朝の「ジュネーブ枠組み合意」も破棄しました。北朝鮮は体制生き残りのために抑止力を確保するといって本格的な核開発に進むこととなり(2003年1月)、朝鮮半島の緊張は高まっていったのでした。
韓国は保守政権(李明博―朴槿恵政権)となり、北が早期に崩壊するものと誤判し、「吸収統一」に向けて圧迫と制裁の「敵対的対決政策」を推進しました。政権が交替しても東方政策をそのまま20年間にわたって一貫して推進した西ドイツと違って韓国では政権が交替すると和解と協力の太陽政策は否定され、その間に達成した南北間の合意はすべて黙殺されました。
「太陽政策は融和政策だ」「安保態勢を悪化させた」「核兵器開発を招いた」などといった事実を歪曲した批判と反対の声が強まり、平和と和解協力の主唱者たちを「親北左派」と非難する雰囲気がつくり出されたりもしたのでした。
エゴン・バール博士は太陽政策に対する批判と、一部に反対があることについては理解できると言いました。東方政策の場合も初めは野党やメディアの猛攻撃を受け、人気がなかったというのです。ブラント首相とエゴン・バール博士は容共的だという非難も受けたといいます。その点、同族で殺し合う戦争をしてしまい、互いに強い敵対意識を持つ韓国は西ドイツよりもずっと深刻だろうと考えられ、理解できるというのです。
しかし、ヨーロッパではCSCE(欧州安全保障協力機構)のデタントプロセスが進められ、「東方政策は正しい」ということが全ヨーロッパで認められるようになり、西ドイツ国民の支持も高まるなかで状況は変わっていったといいます。東方政策に反対していた保守右派も政権に就いた(1982年)あとは、東方政策を引き継ぎ、積極的に推進していくようになったといいます。
東方政策は単に東ドイツに限った政策ではなく、ソ連をはじめ東欧に対する政策でもありました。東西両陣営に分断されたヨーロッパで、冷戦が厳しいさなかの1969年に政権に就いたブラント首相はヨーロッパに平和の秩序がつくられて初めて、その枠組みの中でドイツの統一も可能になるという信念を持って外交努力を傾けました。
西ドイツはソ連やポーランドなど東欧国家との関係を正常化し、東西両陣営を隔てていた「鉄のカーテン」を取りはらい、平和の秩序づくりに努力しました。
また、ドイツが戦争犯罪国家として犯した過去の過ちを懺悔し、心からの謝罪と誠意ある賠償をおこないました。私たちはブラント首相がワルシャワのユダヤ人ゲットー(居住区)跡の慰霊碑にひざまずいて歴史の責任を認め、謝罪(1970年12月7日)する感動的な1枚の写真のことを記憶しています。
ひざまずいたのはブラント首相1人でしたが、再起したのは全ドイツ人でした。歴史の責任を誠実に受け入れたドイツはヨーロッパの胸に抱かれることとなり、世界の舞台に戻っていくことになったのです。
ブラント首相の東方政策は東西両陣営の35カ国が参加したヘルシンキ協約(1975年)の土台となりました。この協約に基づいてCSCEによる15年間の和解と協力のデタントプロセスが進められ、その中でソ連に改革主義者のゴルバチョフ氏が登場することとなります。
そのゴルバチョフ氏が改革開放政策を推進したことによってソ連と東欧圏に体制転換という大変革が起こり、冷戦体制が揺らいで、ついにはドイツ統一の環境がつくられていったのです。
エゴン・バール博士は「西ドイツの東方政策がなかったなら、ゴルバチョフ氏はソ連の最高指導者になれなかっただろうし、また、ゴルバチョフ氏なしにはドイツの統一も不可能だっただろう」という見方は正しいと語りました。東方政策はドイツの統一だけでなく、ヨーロッパの新しい平和秩序づくりとヨーロッパの統合(EU)を可能にする推進力となったのです。
ヨーロッパと違って東北アジアは地域安保協力機構がない世界で唯一の地域です。北朝鮮の核問題を扱うために米国、中国、ロシア、日本と南北が参加する6者協議が東北アジアの安保協力機構に発展していくことが望ましいが、まだそれが可能なようには見えません。
エゴン・バール博士は「2つのコリアが力を合わせて先導的な役割を果たす必要がある。そして、東北アジア平和共同体のなかでコリア統一を達成していくべきだ」と助言してくれました。そして、それにはまず南北関係の発展が緊要といい、「強者であり、持てる側の韓国の雅量と積極性が重要だ」との助言も忘れませんでした。
(5)当面する課題
この間、朝鮮半島を取り巻く戦略的情勢は大きく変化しました。東北アジアは中国の浮上と米国のリバランス政策、日本の再武装で葛藤と緊張がつくり出され、この地域の平和と朝鮮半島の平和に否定的に作用しています。核開発を中断していた北朝鮮は核武装化の段階に達したものと評価されており、それは東北アジアの平和に障害要因として作用しています。
情勢に変化があったとはいえ、私たちの目標と原則は不変です。朝鮮半島の冷戦構造を解体し、交流と協力を通して平和をつくっていかなければならないのです。韓国と米国は北朝鮮との敵対関係を解消し、関係正常化を推進しなければなりません。北朝鮮を変化に導いて朝鮮半島の非核化を達成しなければならず、軍事休戦体制を平和体制に転換しなければなりません。
韓国の新政権は和解と協力の太陽政策をこんにちの現実に合うように継承、発展させてこの9年間の逆行を食い止め、再度、平和と統一に向かって前進しなければなりません。朝鮮半島平和プロセスを再び推進しなければなりません。
朝鮮半島平和プロセスは、米中の協力関係に向けてその土台を提供することができ、東北アジアの平和秩序づくりに貢献することになるでしょう。また、東北アジアの平和秩序づくりは、それを通して朝鮮半島の平和統一が期待できることにもなるでしょう。朝鮮半島の平和なくして東北アジアの平和は保障できません。東北アジアの平和と繁栄を実現するためには朝鮮半島に平和体制を築くことが急務です。
ドイツの統一をうみ出した東方政策を手本にCSCEの経験を教訓として生かし、朝鮮半島平和プロセスを再び始めなければならないのです。