当時の盧武鉉弁護士はいま考えると、まさに激烈だった。初めて信仰の道に入った信者が、古くからの信者以上に信仰生活に熱情的なのと、どこか似ていた。
私には「弁護士なのだからやれる範囲はここまで…」という、自ら設定したラインがあった。私に限らず、みながそうだった。弁護士には弁護士のやりようがあるというのが一般的な考えだった。しかし盧武鉉弁護士はそうではなかった。正しいと思うとおりに行動した。のちの政治家・盧武鉉も同じだった。
公害問題研究所釜山支部ができると、そこで活動する人たちは情報機関の監視対象になった。情報員や刑事がその事務室前に陣取るようにして活動を監視し、出入りする人たちをチェックした。事務室の中にまで随時出入りした。
そこからさらに一歩進み、弁護士事務所内に労働法律相談所も設けた。それまで私たちは労働事件が発生すれば裁判と弁論を支援するというやり方をしていた。しかし、盧武鉉氏はそれで満足しなかった。労働組合の設立から日常活動までを支援しようとしたのである。
■盧武鉉弁護士の原則主義
釜山民主市民協議会の創立大会を開いた日のことだった。行事は1部が講演会、2部で創立大会を予定していた。1部の講演の弁士は趙甲済氏(*)だった。そのときまで彼は「国際新聞」の解職記者として地域でいい評価を受けていた。
(*のちに『月刊朝鮮』編集長などをつとめた極右保守の論客)
警察が会場を封じ込め、初めから中に入れなくした。そんな不法をみんなで糾弾した。それでも警察がどかないと、盧武鉉弁護士はそのまま路上に横になり、一人でスローガンを叫ぶのだった。
それによって一気に過激な弁護士という噂になった。弁護士として品位に欠ける、とも言われた。しかし、警察の不法な会場封じ込めに、ただ抗議するそぶりだけで済ますことはできないというのが盧武鉉氏の考えだった。
この件について私たちは釜山市警察局長(現在の釜山警察庁長)と管轄警察署長を刑事告訴した。盧武鉉弁護士が代表告訴人になったが、まともに捜査もしないままうやむやにされてしまった。
のちのことになるが、1987年、故朴鍾哲君の追慕集会で私と盧武鉉氏がいっしょに連行され、取り調べを受けた時も同じだった。私は調べに応じ、正当性を主張するというやり方で臨んだのだが、盧武鉉氏は初めから陳述を拒み、署名・捺印すら拒否した。
盧武鉉氏は連行され、調べを受けること自体が不法、不当でいっさい応じられないとがんばったのだった。初めてのことであり、まして弁護士という立場では調べ自体を拒むというのは容易なことではなかっただろうに、自分が正しいと思った通りを貫いたのである。
それが後日、政治家になった盧武鉉氏の原則主義だったと私は思っている。
■デモ参加を妨害
全斗煥独裁政権に対する抵抗がしだいに強まり、集会やデモが頻繁におこなわれるようになると、主要な集会、デモのさいには警察が事務所を訪ねてきて参加できないよう妨害した。「事務所軟禁」だった。弁護士に対してもそのようなことがなされた時代だった。
集会、デモがあるときは、警察の目をどう逃れるか、常に思いをめぐらせなければならなかった。初めから事務所に入らないようにしたこともあった。また、いったん入った後でいろいろと工夫をこらしたりもした。情報機関員や刑事が集会、デモの会場までついてくることもあった。
わが家が捜索・押収されたこともある。アパートに住んでいたときのことだが、刑事がそのアパートの警備室に2、3日間たてこもっていて、ある日、正式に令状をもってやってきた。事由は、「5・3仁川事態」(*)関連者のうちの一人が我が家に隠れている疑いがあるというものだった。
(*1986年5月3日、学生や在野関係者約1万人が国民憲法制定など求めて繰り広げた大規模デモ。319人が連行され、129人が拘束された。全斗煥独裁政権が民主化運動弾圧を本格化させる契機となった)
確認してみると、「匿名の市民が電話で通報してきた」という警察官の報告書一枚が唯一の根拠だった。あきれ果てるばかりだった。公安検事が請求すれば、現職弁護士に対しても判事がそんな令状をだす暗黒の時代だった。
■女子工員らを無償で弁護
労働者たちが権利意識に目覚め、労働事件が相次ぎ始めた。私もそうだったが、盧武鉉弁護士は学生の事件よりも労働事件への関心の方がずっと大きかった。主張や論理がいつも似ていた学生の事件と違い、そこには労働者が生活を立てていくうえでの苦労がにじんでいた。
そのころ、釜山の主力産業だった靴工場で働く女性労働者らの処遇は極めて劣悪だった。残業や特別勤務を合わせても月6~7万ウォン台、それも遅払いが常態化していた。作業場内の人格侮辱やセクハラも茶飯事だった。生存権を掲げて勤労基準法の順守を要求したり、すこし後になってからは労働組合づくりをしたりして集団解雇される女性労働者が多かった。
自らを守るために集団行動に出て業務妨害で拘束される労働者も多かった。彼女たちに会うたびに心が痛んだ。2人で無償の弁論を精一杯やったが、救ってあげられなかった人たちも多かった。
盧武鉉弁護士はそのような事件を重ねるうちに労働弁護士に専念しようと決心した。弁護士事務所内に労働法律相談所を付設したのもそのような考えからだった。私たち自身、専門性をもっと高めようという目的もあった。
■労働法を自分で勉強
そのころ、労働法の本は概ね保守的な観点からのものだった。その時代に噴出した労働事件を扱う上であまり役に立たなかった。そんな中にあって当時最も進歩的で現実に合う理論を提示していたのは辛仁羚教授の論文集で、大きな助けとなった。
とはいえ、その論文集で扱われていない問題が多く、自分で勉強せざるを得なかった。判事や検事らも労働法を知らないまま市民法的な考えから事件を扱った時代だった。
盧武鉉弁護士は、あまりにも熱心すぎて、そのことが後輩の弁護士にかえって負担になるほどだった。たとえば、昌原で後輩弁護士が誕生したと思ったのだが、結局、そうした負担に耐えられずに地域を去ってしまった。
労働者らにしょっちゅう盧武鉉弁護士と比べられるのが大きな負担になったと思われる。「盧武鉉弁護士は無償弁論で、法廷でもいっしょにたたかってくれた。それなのに、お前は…」と言われれば、どんなものか。あまりに献身的すぎるというのも、必ずしもいいことばかりではない、という思いだ。
盧武鉉弁護士は86年後半から人権弁護士の仕事だけに専念した。一般事件は端から引き受けなかった。時局事件、それもほとんどが労働事件だけに絞った。事件の弁論だけでなく、労働組合や労働者相手の講演も多くこなした。労働者たちの行事に招かれて参加したりもした。それで、事務所から受け取った給料は月200万ウォンにすぎなかった。