2026年8月22日土曜日

金忠植『5共 南山の部長たち』/韓国民主化40年(52)

連載小説に難癖をつけ、拷問

金泳三が自宅軟禁されて1年になろうとしていた198151日、安企部(部長・兪学聖)の次長、玄鴻柱がソウル上道洞の金泳三宅を訪れた。

「きょうから兵力を撤収させます。もう、自由です」

その間、金泳三は自宅に閉じ込められ、ほとんど鬱病に近い状態になっていた。

▽足踏みランニング

毎朝5時に起きるのだが、行くところがなかった。活動できる空間といえば、広さ45坪の狭い庭だけだった。そこで毎日30分ほど足踏みのようなランニングをすることから一日を始めた。右回りに15分ほど走り、目が回ってくると、こんどは左回りに15分、といった具合だった。そんなことを狂ったように繰り返していると、芝生が剥がれて狭い庭は踏み固められ、まるで脱穀場のようにツルツルに光っていた(『金泳三回顧録』)。

金泳三は軟禁を解かれ、安企部の尾行と監視を意識しながら、李敏雨、金命潤、洪英基、金東英、崔炯佑、金徳龍、尹赫杓らと会い始めた。

 8169日からは金東英、崔炯佑、金徳龍らと北漢山へ登山にも行った。

「民主山岳会」の始まりだった。

金泳三に登山こそ許したものの、安企部のやることは相変わらずだった。

▽作家や新聞部長に拷問

奉斗玩(ニュースキャスター出身の元民正党国会議員)の話を聞いてみよう。

19816月のある日、三星(サムスン)グループの李健煕・副会長が国会議員の奉斗玩にたいしていきなり悪態をつき始めた。

「ひどい奴らだ。純真な作家や何の罪もない新聞の文化部長(中央日報文化部長の鄭圭雄)を電気拷問にかけるんだから。ほんとうに悪い奴らだ」

李健煕は怒りを爆発させていた。

奉斗玩と李健煕は、奉がワシントンで韓国日報の特派員をしていたときからの知り合いで、奉が東洋放送のニュースキャスターに移籍したのも李健煕の取り持ちがあったからだった。

▽軍事政権を風刺

19815月、兪学聖率いる安企部からむごい拷問を受けた小説家、韓水山のケース――

作家の韓水山(右)。左はバスケットボール選手の金裕宅
 安企部が問題にしたのは、中央日報の連載小説「欲望の街」の1981514日付と同22日付に掲載された一節だった。

「時どきテレビのニュースで見かける顔――。政府の高官がヘンに田舎臭い帽子をかぶって炭鉱町のようなところを訪ねて行っては、そこのおばさんたちと握手をする。おばさんたちは、自分たちのことをいろいろ聞いてもらえるのが、ただ恐れ多く、高官の差し出す手を握って恥ずかしそうに笑っている、そんな顔……」(514日付)

「世の中、ろくでもない男には何種類かあるものだ。その第一は、制服を着た者たちなんだから…。そのなかには軍隊に行ってきたこと以外、話すことがない者たちが必ずいるもんだ」(522日付)

▽後遺症

「ヘンに田舎臭い帽子をかぶった政府の高官」「ろくでもない、制服を着た男たち」というくだりが青瓦台や軍出身者らの神経を逆なでした[「田舎臭い帽子をかぶった」はズバリ、全斗煥大統領を皮肉ったとみられた]。かれらの過剰な反応、過剰な忠誠心がもたらした権力の乱用だった(奉斗玩の回顧)。

韓水山をはじめ、中央日報文化部の鄭規雄部長、同李殷允次長ら7人が23日ないし35日間にわたってボコボコに殴りつけられた。

この事件の巻き添えで捕まり拷問を受けた詩人の朴正萬(当時、出版社「高麗院」の編集長)は、その後遺症で何年か後に亡くなってしまった。韓水山とは出版の仕事で何度か会っただけで、ほかになんの関係もなかった朴正万だったが、「反政府人物」として生涯を終えたのである。

韓水山は作家の道を諦めなければならず、精神的に苦しんだ末に結局、1988年、日本に移住し、一時期をそこで過ごした。

▽作家の呻き

韓水山の呻きが記録として残っている。

「引き裂かれ、砕かれるわたしの全裸に降り注いだ棍棒、水、電気、拳と足蹴り、吊し上げ。そして、干し魚(イシモチ)を縄で連ねるかのように芋づる式に引っ張ってきて、なにか、同じゴルフコースでもいっしょに回わらせられているような、わたしの情愛深かった先輩や友人たち。わたしにはまだ、わからない。一人の作家――『散文詩のような言語と、愛と死の美学』を描き出すという、批評的な修飾語を名前の上にくっ付けて生きる、そんな一人の作家を絞りに絞って、いったい彼らは何を得ようとしたというのか」(奉斗玩『ニュースキャスター』より)

                     訳:波佐場 清

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