コリア閑話
2024年3月3日日曜日
「蕃国」新羅を見下す「帝国」日本/百済歴史散策⑱
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日本の律令国家は、隋唐帝国の脅威に対処するための権力集中と軍事体制強化によって実現していった。その仕組みは大化改新以後半世紀、近江令、飛鳥浄御原令をへて 701 年の大宝律令の完成によってほぼ整った。「日本」が国号として正式に用いられるようになったのもこのころだ。 ■唐の律...
2024年2月28日水曜日
倭と新羅の和解と不信/百済歴史散策⑰
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白村江の敗戦によって倭国は国家体制の整備と防衛の強化を迫られた。防衛政策では敗戦翌年、対馬・壱岐・筑紫に「防人(さきもり)」と「烽(とぶひ)」(のろし)をおき、亡命百済人の指導下、大宰府を守る水城や大野城、基肄(きい)城を築城、瀬戸内海の要地や大和でも朝鮮式山城が築かれた。 ...
2024年2月24日土曜日
「羅唐戦争」と新羅の統一/百済歴史散策⑯
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百済を滅ぼした唐と新羅は、北と南から挟み撃ちにするかたちで高句麗に迫っていた。そんなとき、高句麗で独裁体制を固めてきた淵(泉)蓋蘇文が 665 年( 664 年あるいは 666 年とも)に没すると、後継をめぐって蓋蘇文の身内で争いが起きた。 蓋蘇文の次男の淵男建が主導権を握...
2024年2月20日火曜日
百済の微笑/百済歴史散策⑮
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私たちの小さな旅も終わりに近づいた。最終日の 4 日目、私たちは忠清南道瑞山(ソサン)市を訪ねた。宿泊地の公州から高速道路を北西方向に走って 1 時間 40 分。そこの山中で見た別名「百済の微笑」といわれる摩崖仏が印象に残った。 摩崖如来三尊像 加耶山(標高 678 メートル)と...
2024年2月16日金曜日
白村江の戦い/百済歴史散策⑭
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百済復興軍の救援を決断した倭国は 660 年暮れ、斉明女帝が難波宮に赴き、出兵の準備にかかった。翌 661 年正月、斉明は 68 歳の老齢を押して難波を発ち、北九州に向かった。一行は途中、兵士を徴発しながら西へと進み、伊予熟田津(にぎたづ)の石湯(道後温泉)の行宮に泊まった。 ...
2024年2月12日月曜日
百済復興軍の決起/百済歴史散策⑬
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錦江を離れた私たちは定林寺址に案内された。かつての百済の泗沘都城址にひらけた今の扶余のまちのほぼ中央にあった。寺址といっても残っているのは石造の五重塔だけで、これが残ったこと自体、アイロニーであり、一つの奇跡といえた。 定林寺址の石塔 660 年 7 月、百済の都城を攻め落とし...
2024年2月8日木曜日
命運尽きて…/百済歴史散策⑫
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対百済戦争を準備した唐は、その前にまず西突厥を滅ぼして西方の不安を取り除き、さらに高句麗の西部国境を攻撃して高句麗の防御力と百済の注意をその方面に引きつけた。そのうえで 660 年 3 月、蘇定方を司令官とする 13 万の軍が唐を進発、海路、百済に向かった。 徳積島 덕적...
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