2019年4月13日土曜日

李洛淵首相の上海臨時政府樹立100周年記念演説


韓国政府は411日、日本が朝鮮半島を統治していた1919年、中国上海にできた「大韓民国臨時政府」の発足100周年を祝う式典をソウルの汝矣島(ヨイド)広場で開き、李洛淵首相が記念の演説をした。https://www.youtube.com/watch?v=1L81-M9puQU

韓国国務総理秘書室HP 上海臨時政府樹立100周年記念式典で演説する李洛淵首相
元もと文在寅大統領が演説する予定だったが、米国での米韓首脳会談と重なり、李首相が出席した。
韓国ではかねて保守派を中心に解放後、李承晩大統領が韓国政府を樹立した1948815日を建国の起点としてきたが、文在寅政権は上海臨時政府を韓国建国のルーツと位置づけており、李首相も演説でその点を強調した。

上海臨時政府には当初、中国大陸や沿海州、米国などで活動していた独立運動家らがイデオロギーを超えて結集していた。韓国建国のルーツとしての上海臨時政府のアピールは、分断国家にあって「民族の一体性」を重視する文在寅政権の戦略とも絡んでいる。

以下に、李洛淵首相の演説を翻訳してみた。
 
■歴史を刻む汝矣島広場
尊敬する国民のみなさん、海外同胞のみなさん、
ここはソウルの汝矣島広場です。中国で活動していた大韓民国臨時政府光復軍の4人が解放3日後、最初に祖国の地を踏んだのが、まさにこの場所です。
 
その後も汝矣島は私たちの歴史と共にありました。民主化初期には大統領選挙の遊説対決がここで繰り広げられました。多くの離散家族が涙の再会をしたのもここでした。そしていま、汝矣島は大韓民国の政治、経済、メディアの心臓部として脈打っています。
 
100年前のきょう、大韓民国臨時政府が中国で創建されました。その100周年を私たちは、大韓民国現代史を証言する汝矣島で記念しています。
 
100年前に韓国の枠組み
帝国主義日本が祖国を踏みにじっていた191931日、私たちの先祖らは「朝鮮は独立した国」であり、「朝鮮人がこの国の主人だ」と宣言しました。その日から国の内外で独立万歳の運動が広がっていきました。とくに411日には民族の先覚者たちが中国の上海で大韓民国臨時政府をつくりました。
 
臨時政府は新しい国の国号を「大韓民国」、国体を「民主共和制」と定めました。臨時政府は国民の「平等」と「自由」を約束し、「太極旗」と「愛国歌」を国家の象徴として公式化しました。現在の大韓民国の枠組みはそのときに、つくられました。臨時政府の指導者らの時代を先取りした民主意識と透徹した愛国愛民の実践に敬意を表してやみません。
 
■大陸4000㌔を巡り、重慶へ
臨時政府はいばら道を歩みました。先賢たちは三度の食事もまともに取らず、所かまわずに睡眠をとりました。とくに、1932年尹奉吉義士<訳注1>の上海虹口公園での義挙後は、日帝の銃剣が臨時政府のノド元にまで迫りました。臨時政府は上海を離れなければなりませんでした。
 
<訳注1>尹奉吉(ユン・ボンギル/190832)は、韓国忠清南道出身。中国に渡り、上海の大韓民国臨時政府で活動していた独立運動家金九(18761949)の指令を受け、1932429日、上海虹口公園で開かれた「天長節祝賀会」に集った日本の要人たちに手榴弾を投擲した。これによって、上海派遣軍司令官陸軍大将の白川義則ら2人が死亡。ほかに第3艦隊司令長官海軍中将野村吉三郎(のちに外相、駐米大使など)、第9師団長陸軍中将植田謙吉、上海駐在公使重光葵(のちに外相など)ら多数が負傷、野村は隻眼となり、重光は片足を失った。尹奉吉は現場で逮捕され、上海派遣軍軍法会議で死刑判決。大阪衛戍刑務所をへて同年12月、第9師団の駐屯地だった石川県金沢市の軍法会議拘禁所へ移され、同市内で銃殺刑に処せられた。
 
その後、杭州、長沙、広州、綦江など、8年間にわたって4千㌔を巡り、1940年に重慶に落ち着きました。重慶で臨時政府は光復軍を創設し、日本に宣戦布告しました。光復軍は連合軍と共に中国、インド、ミャンマー戦線に身を投じ、韓国国内への侵攻作戦も立てていました。
 
臨時政府の264カ月間、多くの要人とその家族らが飢えや酷寒、病魔で倒れていきました。多くの義士と烈士が日帝と戦い、彼らの銃剣によって息を引き取っていきました。
 
■解放→分断→戦争
1945815日、日本は降伏し、祖国は解放を迎えました。金九主席をはじめとする臨時政府の指導者らはその年11月、金浦空港から祖国に帰ってきました。
 
祖国は臨時政府の指導者らが夢見た状態ではありませんでした。臨時政府が活動していた時期は南も北もありませんでした。しかし解放された祖国にはすでに南北分断の影が垂れ込めていたのです。間もなく南北それぞれに別個の政府が建てられ、北の侵略によって同族同士で争い、殺し合う戦争が繰り広げられました。
 
■経済成長→民主化→世界11位の経済力
大韓民国は深い絶望に呻吟しました。一人当たり国民所得60㌦、世界最貧国の一つでした。政治的混乱が続きました。そのような試練を経て大韓民国は経済を成長させ、民主化を実現させました。
 
いまや大韓民国は世界11位の経済力と先進国レベルの民主政治を実現しています。とくに昨年、大韓民国は人口5千万以上の国にあって一人当たり国民所得が3万㌦に達した「3050クラブ」に仲間入りしました。世界で7番目ですが、韓国の除くあとの6カ国はいずれも植民地を持って早くから経済力を蓄えてきた国々です。そんな中にあって韓国だけが植民地からの独立国だったのです。
 
これは大韓民国の偉大な成就です。こうも誇らしい大韓民国を築き上げた国民のみなさんに感謝を申し上げます。100年前に臨時政府を建てた先賢の方々に本日、私は後裔の偉大な成就をおこがましくも、ここに報告申し上げる次第です。
 
■臨時政府の法統を継承
いまの大韓民国は先賢たちの念願と犠牲の上にあります。大韓民国は臨時政府をルーツとし、その上に柱を建て、枝を伸ばし、花を咲かせました。現行憲法は「わが大韓民国は31運動で建立された大韓民国臨時政府の法統」を継承する、と宣言しています。

 
他郷暮らしの苦難と死の危険に耐え、独立に身を投じた臨時政府の先賢の方々を追慕し、感謝を申し上げます。
 
当然のことながら、私たちは独立の歴史を記憶し後世に伝え、犠牲になられた先人を礼遇しなければなりません。政府は2021年末の開館を目指してソウルの西大門に、臨時政府記念館を建てる準備を進めています。金九主席ら独立運動家7人の霊を祀るソウルの孝昌公園を、独立運動を記念する空間として造成します。
 
先ごろ、重慶の光復軍総司令部を復元し、ロシア・ウスリースクに崔在亨<訳注2>記念館を開館しました。米国フィラデルフィアの徐載弼<訳注3>記念館は再開館を目前にしています。日帝強占期[日本による植民地支配の時期]の受刑者や女性、義兵独立運動家ら約4300人を新たに探し出し、褒章の準備を進めています。
 
<訳注2>崔在亨(チェ・ジェヒョン/18601920)は、沿海州の朝鮮人社会の最高リーダーとして活躍し、上海臨時政府の初代財務総長にも選ばれた。ロシア革命(1917年)への干渉目的で日本軍がシベリアに出兵したのに伴って起きた尼港事件(192035月)で日本軍に捕らわれ、銃殺された。
 
<訳注3>徐載弼(ソ・ジェピル/18641951)は、朝鮮の独立運動家。開化派の金玉均と交わり、日本留学後1884年の甲申事変に参加、敗れて米国に亡命。95年朝鮮に帰国し、「独立新聞」を発刊、独立協会の運動を支えた。その後、再度渡米し、31運動後、米国で独立運動を展開した。
 
■より良い祖国へ、新たな挑戦
過去100年、私たちの歴史は決して平坦なものではありませんでした。35年間にわたって外国勢力の支配を受け、3年間戦争を行いました。71年間にわたって分断されたまま南北が互いを憎み合い、反目し合いながら生きてきました。惨めな貧困と、相次ぐ政変も経験しました。
 
このような苦難に耐えて私たちは世界が注目する国家に発展しました。しかし私たちはここで歩みを止めるわけにはいきません。私たちはよりよい祖国をつくるために挑戦しなければなりません。
 
第一に、祖国の分断を克服し、「平和と繁栄の韓(朝鮮)半島」を実現しなければなりません。そのために私たちは米国、中国、日本、ロシアなど国際社会と協力し、韓半島の平和と共同繁栄を模索しています。
 
第二に、経済の再跳躍へ、「革新国家」を実現しなければなりません。私たちは革新によって新しい経済発展の動力をつくろうと革新成長に邁進しています。
 
第三に、国民が共によく暮らせる「包容国家」へと進まなければなりません。私たちは不平等が緩和され、すべての人が共同体のなかに抱かれて暮らせるよう、さらに努力をしていきます。
 
第四に、国民が安心して暮らせる「安全な国家」にしていかなければなりません。私たちは災害や災難、事件、事故を減らし、その被害を最小化しようと奮発しています。
 
第五に、法と常識が支配する「正義国家」を打ち建てなければなりません。私たちはどのような特権も反則も容認しない法治主義を確立しようと決心しています。
 
■平和・繁栄、革新、包容、安全、正義
民族の先覚者たちは祖国独立のために生命、財産を惜しみませんでした。私たちは先賢の念願と犠牲を忘れることはできません。
 
こんどは私たちが成さねばなりません。「平和と繁栄の韓半島」を追求し、「革新国家」「包容国家」「安全国家」「正義国家」をつくっていけるよう、今日の私たちが打って出なければなりません。私たちは100年前の大韓民国臨時政府を建てた先賢たちの前で「やってみせる」といっしょに誓いましょう。

先賢たちは大韓民国を助けてくれるものと信じます。大韓民国は永遠です。
                                (波佐場 清訳)



2019年4月5日金曜日

「新聞の日」に寄せた文在寅大統領演説

文在寅大統領は44日、ソウルのプレスセンターで行った演説で、韓国の言論状況について語った。7日の「新聞の日」に向けて新聞・放送関係者が開いた祝賀の会での演説だった。https://www1.president.go.kr/articles/5916
青瓦台HP   新聞・放送関係者を前に語る文在寅大統領

韓国大統領府(青瓦台)のホームページで演説文を読みながらふと思ってみたことがある。これが日本で、たとえば安倍晋三首相がこのテーマで語ったとしたら、どんなものになっていただろうか…と。


そんなことを考えつつ、以下に文大統領の演説を翻訳してみた。

■新聞は民主主義の始まり

尊敬する新聞人のみなさん、内外来賓のみなさん、
63回「新聞の日」をお祝い申し上げます。

新聞について考えるとき、私には「初めて」という言葉が思い浮かびます。
朝早く、まだインクの匂いが残る新聞を手に取るのは、その日その日の世の中の情報と「初めて」接するということです。

新聞はまた、民主主義の「始まり」です。
イギリスの名誉革命で人類は初めて言論の自由をたたかい取りました。
言論の自由を通して民主主義、人権、正義、平和が大きく育つことができたのです。

■初の民間新聞「独立新聞」
私たちの歴史にあって、新聞は新しい時代と出会うことでした。
徐載弼先生が発刊した最初の民間新聞「独立新聞」は、120余年前に「初めて」民主主義と人権、女性の権利を掲げ、より多くの国民が読めるようにとハングルで発行しました。

31独立運動の当日に発行された「朝鮮独立新聞」第1号は、独立宣言の発表を国民に「初めて」知らせ、33日の第2号では「国民大会」を開いて臨時政府を樹立し、大統領を選ぶことになるだろうと伝えました。

大韓民国臨時政府もまた、1919821日に機関紙「独立新聞」を出し、臨時政府と独立運動のことを国民に知らせました。

■新聞人の良心と勇気
一枚の新聞、一行の記事に込められた新聞人の良心は歴史の流れを変えたりもしました。
1936年、東亜日報は孫基禎選手と南昇龍選手の胸に付けた日章旗を消した写真を報道しました。

植民地治下で苦痛を受けた私たち国民に「やればできる」という自信をもたせ、独立の意志を励ます役割を果たしました。

1960年、釜山日報のホ・ジョン記者が撮って特ダネで報じた金朱烈君の遺体写真は「419革命」の導火線となりました。

1980520日、全南毎日新聞の記者たちの良心を込めた共同辞表が2万枚の号外として撒かれました。そこには、こう書かれていました。

「私たちは見た。人間が犬のように引っぱられて行って死んでいくのを、この両眼ではっきりと見た。しかし新聞は、そのことについて、ただの一行も載せることができなかった。私たちは恥ずかしさの余り、ここに筆をおく」と。

独裁と検閲の時代に見せてくれた新聞人の勇気ある行動は、孤立した光州市民にとって熱い慰めと激励になりました。

ろうそく革命もやはり、私たちの新聞報道を通して最も平和的で民主的な革命として全世界に伝えられました。
すべて新聞と報道の力です。

■日帝、独裁とのたたかい
言論の自由は決して簡単には得られませんでした。
新聞と新聞人は、ほんとうに困難な道を歩んできました。

新聞を押収したり、停刊、廃刊させたりした日本帝国主義とたたかいました。
「報道指針」という名で記事に赤線を次々と引いた独裁とたたかいました。
白紙広告で抵抗し、数百人の記者たちが一度に解雇されたりもしました。

彼らは権力で国民の目を塞ぎ、真実を隠しましたが、私たちの新聞人は決して筆を折りませんでした。

国民らも私たちの新聞を愛し、信頼しました。
権力の検閲で新聞が思い通りに真実を伝えられなかった時期も、国民は一面トップの記事ではなく、片隅の小さな1段の記事からより大きな真実を読み取り、さらには書ききれていない記事の行間から真実を探ったりもしました。

私たちの新聞の誇らしい歴史を引き継ぎ、真実と正義のペンで新聞人の良心を守ってきたみなさんの労苦に感謝の言葉を申し上げます。

■言論の自由への兆戦
いまはもう、言論の自由を抑圧する政治権力は存在しません。
政権を恐れる言論もありません。
多くの解職記者たちは仕事場に戻っていきました。

それにもかかわらず、言論に対する国民の信頼がまた、高まってきているようには見えません。
真実の報道、公正な報道、バランスのとれた報道のために新聞が克服しなければならない内外のからの挑戦も依然としてあります。

第一に、言論の自由に対する挑戦です。
最も信頼できる指標として認められている「国境なき記者団」の言論自由指数(PFI)で、韓国は2006年に31位を記録していたのに2009年は69位、2016年には70位へと落ちました。

私たちの政府(文在寅政権)が発足した後、2017年は63位、2018年には43位へと再び回復してきていますが、政治権力以外にも言論資本や広告資本、社会的偏見、国民を分断する「陣営」論理、速報競争など、記者の良心や言論の自由を制約する要因は依然として多く存在しています。

■虚偽やフェイクニュース
第二に、信頼への挑戦です。
スマートフォンを持っているだけで、それが新聞となり放送となる時代です。
新聞が報じ、読者がそれを読んでいた時代は過ぎ去りました。

日々に発展する情報通信環境は、情報の流通速度を過去とは比べものにならないほどに高度化させましたが、同時に虚偽報道やフェイクニュースを高速拡散させる手段ともなっています。
これは新聞と新聞人に対する信頼はもちろん、社会の構成メンバーの間の信頼をも失墜させる深刻な挑戦です。

■スマートフォンの時代に
第三に、公正に対する挑戦です。
いまは韓国民10人のうちの8人までがモバイルでニュースに接する時代です。それほどまでにニュースを見るために新聞を開くよりもスマートフォンの方に馴染んでいます。

新聞社の立場では、だれが最初に報じたか、どこの社のクリック数が多いか、が重要となるでしょう。
そのために刺激的な記事、深みのない報道が多くなり、未完の記事がつくられているという指摘があります。

紙の新聞の購読率と閲読率が落ちているのは言論を取り巻く環境からいって仕方のないことかもしれません。しかし伝統的な新聞の役割についての国民の期待は薄らいではいません。
ニュース利用の空間はインターネットでも、そのインターネットを通して読んでいるのは、新聞社が提供するニュースなのです。

■国民の声代弁の役割
多くの人たちが新聞の危機について語りますが、私は新聞だけができる独自の役割があると考えます。

良心の自由は、言論の自由の土台です。
新聞人ひとり一人が言論人として良心の自由を守ると、新聞も本来の使命を果たすことができるのです。

新聞は、国民の声を代弁するとき、尊敬を受けます。
公正で、多様な視座に基づいた批判と国民の立場に立って提起する議題設定は、政府が緊張を緩めずに国民のことだけを考える力となります。
そうするとき、国民の利益は大きくなり、大韓民国は強くなります。

新聞と新聞人が言論の使命を忘れず、自らを革新していけば、国民の信頼と愛情は変わることなく続いていくことでしょう。

■新聞は弱者の代弁を
新聞は私たちの社会の鏡です。
国民と国家の力が分かるバロメーターです。
国民と政府の目標、新聞の目標がそれぞれ別個にあるわけではありません。

新聞人の良心が自由に発現され、新聞が力のない人、疎外された人たちを代弁するとき、私たちの社会はいっそう良い共同体へと発展するでしょう。
政府もいっしょに努力していかなければならないことです。

私たちの新聞が国民といっしょに歴史の桎梏を振りほどいてきたように、これからもいっそう公正で自由、民主主義的で平和な「革新的包容国家」大韓民国をいっしょにつくっていくパートナーとなっていただくよう期待致します。      (波佐場 清訳)