拙宅書棚の隅に、少し赤茶けた岩波新書『日韓併合小史』が見つかった。定価150円の時代に買ったはずだ。奥付をみると、「1966年3月15日第2刷発行」。著者山辺健太郎の経歴が、次のように記されている。
1905年東京に生まれる
1918年別府北小学校卒業専攻―朝鮮近代史、日本社会運動史
著訳書―「アメリカ政治史概説」「コミンテルンの歴史」現代史資料「社会主義運動篇」13巻
なぜ急にいま、この人物なのかというと、日朝関係史の研究で知られる歴史家、中塚明・奈良女子大名誉教授が最近、『歴史家 山辺健太郎と現代』(高文研)を出版したのだ。「日本の朝鮮侵略史研究の先駆者」というサブタイトルがついている。
一読して感じたのは、山辺の視点の鋭さと、なぜか今この時代にもそのまま通じる新鮮さだ。中塚先生が「山辺健太郎と現代」とされた理由は十分にうなずける。本書は近く、韓国語版も出る。中塚先生は、その間の事情について次のようなことを書いている。
▽2014年2月、ソウルに招かれて講演したさい、ある市民運動の若い活動家から「話にでてきた山辺健太郎について韓国で本を出したい」との要望を受けた。韓国の、しかも若い世代から、そのような申し出を受けたのは意外だった。
▽私は1950年代の中ごろから山辺と親しく交際し、歴史を研究する上で山辺から多くのことを学んだ。それは私の研究の核となっている。その学恩をあらためて思い出し、決心した。
▽山辺が主張し続けた日本帝国主義の朝鮮侵略史研究に主眼をおいて編集した。この問題が、日本の思想的課題として現在もなおきわめて重要な問題でありつづけていると考えるからだ。日本・韓国のとりわけ若い人たちに読まれることを期待する。
私自身、ほこりを払いながら『日韓併合小史』をめくってみる。ところどころ、傍線を引いてあるが、果たしてどこまで読み込めていたものか。実際、漢字カタカナ交じり文の史料がふんだんに使われており、私の基礎知識をもってしては、とても読みこなせる内容ではない。
中塚先生は今回の本のなかで、先生自身、この『日韓併合小史』に大いに刺激を受けた、と次のようなことを書いている。
▽山辺から私あての1966年3月2日付葉書によると、『小史』は、「出版と同時に3万部が売り切れ、余分の5千部もすぐ売れ、翌日再販しましたが、これも売り切れたらしく、いま3刷を印刷中」と書かれていた。…近代日本と朝鮮の関係について、新たに研究しようとしていた私たち若い研究者を大いに励ましたことはいうまでもない。
今回の本では、山辺の論文などの一部もそのまま再録している。私の心に特に響いたのは、『日韓併合小史』と同じころに出版された論文集『日本の韓国併合』(太平出版社)の「序論」部分に据えられた「征韓論と日本のナショナリズム」である。次のような指摘をしている。
▽征韓論の主張がやぶれて内閣を去った板垣、副島等が下野してのち政府に要求したのは、民選議院設立の建白であった。しかし民選議院の設立を要求する思想と征韓というような侵略主義の思想がどうして結びつくのであろうか? まことに不思議である。
ここに日本ナショナリズムの特徴がある。日本では、ナショナリズムはいつも侵略主義と結合していた。
▽自由民権運動が弾圧されて、日本国内の民主主義運動がおとろえてからは、国権論すなわち侵略主義一本になったといっていい。…この状態は日本による朝鮮併合までつづき、これからの日本は、中国侵略を目ざすようになった。この時代の思想的武器が「大アジア主義」であろう。
この「大アジア主義」は、いつもアジア解放論とむすびついているから、朝鮮問題でボロを出すのである。日本は朝鮮の植民地支配を強化しながら、アジアにあるイギリスの植民地だけの解放をさけぶ。これはちょうど、朝鮮を支配するために、朝鮮の清国からの独立をとなえた往年の日本の主張とまったくおなじものである。
▽「大アジア主義」を歴史的にみると、これは日露戦争後におこった日本ナショナリズムの一変型である。したがって日露戦争後日本が朝鮮を併合してしまってからは、朝鮮からさらにすすんで、アジア全体を侵略する思想的武器が大アジア主義だから、日本のナショナリズムでは朝鮮のことは問題にならなくなった。
ただ、朝鮮のかわりに、全アジアが日本の侵略すべき対象となる。日本のナショナリズムは、大アジア主義となり、さらに「大東亜共栄圏」となって自ら崩壊したわけである。
明治以来の日本のナショナリズムと侵略、植民地主義の、まさに核心をついた指摘といえる。そして、いま、日本のナショナリズムはどうなのか。嫌韓論や朝鮮バッシング一辺倒にみられる日本のナショナリズムの高揚は、いままた、新しい形の国権論をよみがえらせつつあるように私には見えるのである。
さらに、昨年8月の安倍首相の「戦後70年談話」に向けて首相の私的諮問機関「21世紀構想有識者懇談会」がまとめた報告書が、「満州事変後の大陸への侵略」や「1930年代後半からの植民地支配の過酷化」を指摘しながらも、日清・日露戦争を通じて日本が朝鮮半島を植民地化していったことについては言及しなかった。
この点も、この懇談会に集った有識者らは「日露戦争後日本が朝鮮を併合してしまってからは、朝鮮からさらにすすんで、アジア全体を侵略する思想的武器が大アジア主義だから、日本のナショナリズムでは朝鮮のことは問題にならなくなった」と山辺が指摘した精神構造をそのまま引きずっているのだろうか。
山辺の『日本の韓国併合』の巻頭には、戦時中も反ファシズムの姿勢を貫いた歴史学者、羽仁五郎(1901~83)の推薦文が載せられていた。中塚先生は本書で、その推薦文も再録している。書き出しは、次のような文章である。
▽筆でかいたうそは、血でかいた真実をかくすことができない。 この書をよんで、魯迅のこのことばをおもいおこすのは、ぼくひとりではあるまい。 朝鮮問題とは日本国民にとっては、実は日本問題なのである。 日本の支配者が朝鮮にむかってなにをしたか、その真実の認識なくして、日本国民の自覚は決して真実となることができない。
山辺は小学校を出ただけで実社会に出、社会主義の実践活動に入り、投獄・出所・投獄を繰り返し、日本の敗戦で出所した。第2次大戦中、予防拘禁され、そこで朝鮮の社会運動家、金天海と知り合ったことが、朝鮮問題に目を開いたきっかけになったともいわれている。戦後、国立国会図書館憲政資料室を拠点に近代日本の朝鮮侵略の歴史的研究に没頭した。
中塚先生は本書について、「とくに若い人に読んでもらいたい」と書いているが、古希が遠くない私のような者にとってもまさに「目からウロコ」の一書である。
新聞報道によると、自民党は昨年11月、総裁(安倍首相)直轄の新しい組織「歴史を学び未来を考える本部」(本部長・谷垣禎一幹事長)を立ち上げた。その本部長代理を務める稲田朋美・政調会長は産経新聞に次のように語っている。
▽戦後70年も経過しているのですから、東京裁判の判決理由の中に書かれた「歴史ストーリー」を何も疑ってはいけない、疑うのは歴史修正主義だという風潮からは、そろそろ脱却すべきでしょう。
▽幹事長から「韓国との関係では日清戦争から振り返ったほうががいい」とのアドバイスもいただき、結局、明治維新から現在までを対象とすることにしました。明治憲法と現行憲法の制定過程もテーマにしたいと思っています。(2015年12月23日付「単刀直言」)
歴史修正主義をはびこらせてはならない。中塚先生のこの書を、年齢を問わず日韓全国民必読の書にしたいものである。
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