2013年11月20日水曜日

「安重根の隠れ家」を中国・延辺に見た


「犯罪者だ」(菅義偉官房長官)
「独立と東洋平和のために命を捧げた方だ」(韓国外務省報道官)

日本の初代首相、伊藤博文を中国ハルビン駅で暗殺した独立運動家、安重根の碑を建てる計画が中国で進んでいることをめぐる日韓政府間の応酬は、両政府間で行き違う歴史認識問題の、いよいよ核心部分に行きついたようだ。

中国吉林省の延辺朝鮮族自治州で、その安重根が一時期活動の拠点にしていたとされる「隠れ家」を見た。以下は20074月に現地を訪れた時の様子を書きとめておいた一文の再録である。
 

中朝国境を流れる豆満江は中流でいったん北に大きくうねり、延辺朝鮮族自治州の州都、延吉市の東あたりで、また、南下しながら東の日本海へ注いでいく。下流付近は北朝鮮とロシアに両側から挟まれて中国領土は狭くなり、日本海まで15キロ余りの防川というまちで、中国の領土は尽きる。その防川の手前およそ20キロの小さな村に「安重根の家」はあった。
 















行政区画でいえば、琿春市敬信鎮圏河村。幹線道路沿いに中国語で「安重根義士故居」、ハングルで「安重根義士遺跡地」と記した案内表示があり、そこをわき道に200メートルほど入ると、畑の中に小さな家がみえてきた。

わらぶき木造、土壁の平屋。オンドルの煙突が突っ立っている。家屋全体がすこし歪んでいる。

どこからか、ひとりの女性が現れた。近くで農業を営み、この家の管理を引き受けている崔今花さん(33)だった。朝鮮族で、その話すところは、こうだ。
  
100年前、安重根は間島(延辺朝鮮族自治州の旧称)から沿海州にかけての地域で活動し、この家は190846月の間、安重根とその仲間ら12人が拠点にしていた————


 中に入ると、入り口に3つのかまどが並び、むしろ敷き8畳ほどの居間が広がっている。奥には3畳ほどの部屋が2つ。天井に裸電球が一つぶら下がり、その横の壁に安重根の写真が掛けてある。 

家の歪みは外から見た以上にひどく、壁が傾いていまにも崩れ落ちそうだ。崔さんは4年前まで家族とここに住んでいたが、いたみがひどく、別の家に移ったそうだ。
 
関係当局に補修と保存を訴えてきたが、聞き入れてもらえないという。ここら辺りは以前、朝鮮族の住民が多かったが、だんだんと減り、いま、この村の住民380人のうち朝鮮族は15人だけで、あとはみな漢族だという。当局の腰が重いのはどうやら、そんなこととも関係があるようなのだ。

入り口に募金箱があった。のぞいてみると中国の元札にまじって韓国のウォン札も何枚かみえる。ここ数年、韓国の観光客がふえ、去年は約3千人がここに来たという。崔さんは「みなさんの力を借りてこの家を守っていきたい」と、わたしにも協力を求めるのだった。
 
 
 
 
近くに碑があり、安重根についてつぎのような内容がハングルで刻まれていた。 

187992日、黄海道海州生まれ。日露戦争後、義兵闘争に参加。上海、延辺とロシア沿海州一帯で抗日救国活動を展開。190709年、何度か琿春県敬信を訪れ、人民を動員、学校を建て抗日と民族独立を宣伝した。19091026日、伊藤博文をハルビン駅で射殺。その事績は中国でも大きな波紋を呼び、周恩来は中学時代、「安重根」という劇を演出、のにち「中朝人民が日本帝国主義の侵略に反対した闘争は安重根が伊藤を銃撃した時から始まった」と語った>
 
 
この家について語られていることが実際にどこまで検証されたものか、わからない。しかし蓋然性はある。

韓国各地で義兵が立ち上がった1907年夏、平壌南西の鎮南浦で無為の日々を送っていた青年安重根は山岳ゲリラに加わった。翌年6月、間島で「連合大韓義軍」の参謀中将に選ばれ、朝鮮半島北部の咸鏡北道へ出撃。このあとロシアのポシェットで「断指同盟」を提唱し、仲間と薬指の先を切って「大韓独立」を誓い合ったといわれる。

190910月、安重根はロシアのウラジオストクにいて伊藤博文のハルビン行きを知り、ウスリースクから中ロ国境を越えて綏芬河に入り、東清鉄道でハルビンへ。旅順・大連から満鉄を北上し、奉天(瀋陽)、長春をへてハルビンに向かった伊藤を待ち受けたのだった。

これを現地で聞いた説明と付き合わせると、安重根があのわら屋にいたのは、ちょうど連合大韓義軍の参謀中将になる直前だったということになるわけである。

伊藤暗殺後、日本は一気に韓国の完全な植民地化へと進み、19108月、併合。その朝鮮支配を「安定」させるためさらに満洲の支配へと突き進んだ。そんな中で間島の地は抗日闘争のひとつの拠点となっていったのだった。
  ◇
中国・延辺朝鮮自治州はかつて朝鮮側から「間島」(朝鮮語読みで「カンド」)と呼ばれた地域である。日本のかいらい国家「満洲国」の時代は「間島省」とされた。もともと19世紀後半、朝鮮からの移住者によって開墾された土地であることから「墾土」(カント)といったのが、なまったとも言われているようだ。

20世紀初頭の日露戦争(190405)は朝鮮半島と満州をめぐる争いだった。勝った日本はさっそく伊藤博文が漢城(ソウル)に乗り込み、時の朝鮮の王、高宗に直接迫って韓国の外交権を奪い保護国化する。190511月の第2次日韓協約(乙巳保護条約)である。

韓国は強く反発し、高宗は国際社会に訴えようとオランダ・ハーグの万国平和会議に密使を送る。19076月のことだった。密使はハーグで門前払いされ、伊藤の激怒で高宗は退位させられる。日本はこれを機にその夏、韓国支配をさらに強め、軍隊も解散させる。

職を失った兵士らは義兵となり、農民らも加わって各地で蜂起する。その一部は豆満江を越え、間島やロシアの沿海州を拠点に抗日活動をおこなった。そんな中に、のちに伊藤博文を暗殺する安重根もいたのだった。
 
 

2013年8月11日日曜日

鄧小平と北朝鮮の指導者の違い

『キッシンジャー回想録 中国<上・下>』(塚越敏彦ほか訳、岩波書店)を読んだ。冷戦下、1972年の米中和解の立役者であり、その後も4世代にわたる中国の指導者らとの深い交わりで米中関係に大きな影響力を及ぼしてきた米外交の巨人、ヘンリー・A・キッシンジャー氏の大著である。

毛沢東、周恩来から鄧小平、江沢民、胡錦濤、さらに習近平氏にまで言及、中国の歴史に対する深い造詣と各世代の政治家への鋭い洞察、そして国際政治に通じた碩学ぶりには、ただ圧倒されるばかりである。

本書については、いろいろな人たちの書評がなされているところだが、ここは「コリア閑話」の主宰者として、中国に隣接するもう一つの社会主義国、北朝鮮との関係で思い浮かんだことを少しばかり書いてみたい。

とくに印象に残ったのは、鄧小平に対するキッシンジャー氏の思い入れの深さだ。中国を改革開放に導き、いまの「経済大国」の基礎を築いた、その人である。私は北朝鮮の現状を思い浮かべ、平壌の指導者らと重ね合わせながら、その部分を読んだ。

鄧小平については、次のようなことを書いている。

▽毛沢東の哲学的な長広舌や寓話と、周恩来の優雅な専門家かたぎに慣れっこになっていた私は、鄧小平の渋い、きまじめなスタイル、時に挟む皮肉な合いの手、哲学への嫌悪と現実的なものへの偏愛といったものに慣れるには時間がかかった。
▽彼は自分のことを「田舎者」と形容し、「言語の習得は難しい。私はフランスに留学したことがあるが、フランス語はついにできなかった」と告白した。
▽時がたつにつれて、私は、思いに沈んだような目を持つ、この小柄で果敢な人物を大変尊敬するようになった。彼は信念を曲げず、世の中の激動に直面して平衡感覚を失うこともなく、いつか、この国を変革するであろう人物だった。

鄧小平は、中国の現状に謙虚だった。

▽鄧小平は復権した1973年、オーストラリアの科学者代表団との会談で、中国は貧しい国であり、先進国から学ばなければならない、と語った。こうした自己認識を表明する中国の指導者は、彼が初めてだった。鄧小平はまた代表団に、中国が達成した成果だけでなく、遅れている面も見るべきだ、と助言した。これも中国の指導者としては前代未聞の発言だった。
794月に北京を訪問した際、華国鋒と鄧小平の2人と個別に会談した。華国鋒は、重工業に重点を置き、農業生産は、人民公社を基礎に、おなじみの5カ年計画によって機械化と肥料使用を進めるという、ソ連方式での生産拡大計画について説明した。
▽鄧小平はこうした正統的な考え方の一切を退けた。彼によれば、人民は自ら生産したものに対し、報酬を与えられるべきなのだった。重工業より消費物資の生産が優先されなければならず、共産党は指図することを減らし、政府の権限は分散させられなければならないのだった。
▽それからほどなく、華国鋒が指導部から姿を消した。その後、10年間にわたって、鄧小平は、語った通りを実践した。
▽彼の戦術の要点は、毛沢東の存命中はほとんど表面に出ることのなかった「実事求是」「理論と実践の統一」の考え方を「毛沢東思想の基本原則」にまで高めることだった。毛沢東は少なくとも60年代半ば以降、国内問題で実利性を強調したことはない。

鄧小平は、巧みなやり方で、毛沢東の一部を否定していった。

▽鄧小平は「70%は正しく、30%は誤り」とした毛沢東のスターリン評価を持ち出し、毛沢東に対してもこの「7030」評価が妥当だとの考えを示唆した(これが程なく中国共産党の公式の毛沢東評価となり、それは今も変わらない)。こうすることで鄧小平は、毛沢東が自らの後継者に指名した華国鋒を非難することができた。

鄧小平は人民の創造性を解き放った。

▽毛沢東は、彼の個人的なビジョンで苦しむ人民の耐久力を当てに、統治した。鄧小平は、彼の将来ビジョンを実現してくれるであろう人民の創造性を解き放つことで、統治した。
▽毛沢東は意志の力とイデオロギー的純粋さで障碍を乗り越えるという、中国「大衆」の力に神秘的な信頼を寄せることで、経済発展を成し遂げようとした。鄧小平は、中国の貧困と、先進世界との生活水準の巨大な格差を直視する。鄧小平は「貧困は社会主義ではない」と宣言し、中国は欠点を是正するため、外国からの技術、専門家の助言、資本を必要とすると訴えた。

鄧小平は7812月の中国共産党113中全総で再び復権。この会議で、鄧小平のその後のあらゆる政策を特徴づけることになる「改革開放」のスローガンが採択されたのだった。

▽鄧小平は会議の閉幕に当たって重要講話を行い「思想を解放し、実事求是で、前に向かって一致団結しよう」と宣言。毛沢東が文字通り、人生のあらゆる問題について解答を与えた10年間が終わった。鄧小平はイデオロギー的な締め付けを緩和し、「自分で物事を考える」態度を奨励することが必要だと強調した。
80年に、鄧小平の地位の上昇は完成した。鄧小平の大規模な改革は達成の過程でかなりの社会的、政治的緊張を生み、89年には天安門事件となって爆発したのだった。

鄧小平は、外国訪問でも率直な姿勢を貫いた。

▽毛沢東はまるで皇帝のように外国指導者を招いたが、鄧小平のやり方は違った。彼は東南アジア、米国、日本を歴訪し、大変に目立ち、率直で、時として非常に慌ただしい、独自の外交を展開した。
78年と79年に鄧小平が行った一連の外遊は、革命的な挑戦者という、それまでの海外における中国のイメージを変えた。鄧小平は歴訪中、先進国と比べた中国の後進性を指摘し、先進工業国から技術と専門知識を得たいとの望みを強調した。
▽鄧小平が外遊したこと、および、その外遊で彼が繰り返し中国の貧困に言及したことは、中国政治の伝統からの衝撃的な決別だった。それまで、中国指導者の外遊は珍しかった(天下を統べるという中国の伝統的概念からすれば、彼らに訪問すべき「外国」など、もちろんなかった)。中国の後進性と、海外から学ぶことの必要性を開けっぴろげに強調する鄧小平の姿勢は、中国の皇帝や官僚が外国人と接する時の超然たる態度とは、際立った対照をなしていた。

鄧小平は、日本に対してもへりくだった態度を見せ、実利を取った。

▽鄧小平の歴訪は日本から始まった。日中平和友好条約の批准書交換セレモニー出席が目的だった。鄧小平の戦略構想では、ソ連、ベトナムを孤立させるうえで日本の協力を得るためには、正常化だけではなく、和解が必要だった。
▽この目的のため、鄧小平は半世紀にわたって日本が中国に与えた苦しみについて、問題を決着させる用意があった。彼は元気いっぱいに振る舞い、「私の心は喜びでいっぱいだ」と宣言し、日本側の会談相手を抱きしめさえした。
▽鄧小平は中国の経済的な後進性を隠そうとはしなかった。来客のサイン帳に署名を求められ、彼は日本の達成を評価する前代未聞の言葉を記した。「われわれは、偉大で、勤勉で、勇敢で、知的な日本の人々を尊敬し、彼らから学んでいる」。

鄧小平は、引き際もきれいだった。

▽鄧小平は90年代初めから、重要な役職から徐々に身を引き始めた。近代中国で、自ら身を引いた指導者は彼が初めてだった。8912月、スコウクロフト(国家安全保障担当大統領補佐官)は鄧小平が謁見した最後の外国高官となった。以来、公式行事に出席せず、世捨て人となって97年に死去した。

こうしてみると、北朝鮮の指導者との違いが際立つ。北朝鮮が「先代の遺訓」を金科玉条とし、自尊心にこだわるのも、やはり、「自主」を「生命」とすることの表れなのだろうか。

キッシンジャー氏は中国と北朝鮮の関係について、次のような分析もしている。

▽中国は1961年に北朝鮮と友好協力相互援助条約を結んだ。その条文には、外部からの攻撃に対する相互防衛の条項が含まれていて、現在も有効である。しかし中国の歴史からみれば当然ながら、その条項は朝貢関係という意味合いを持っていた。北京は北朝鮮に保護を提供し、北朝鮮と相互に依存するという関係ではなかった。

▽中国は、北朝鮮の核開発計画の最初の10年間、米朝間で解決すべきという姿勢をとっていた。北朝鮮は主に米国から脅威を感じているので、核兵器の代わりとなる、必要な安心感を北朝鮮に与えるのは、米国の責任というのが中国の考えだった。だが、時間が経つにつれ、北朝鮮への核拡散はいずれ中国の安全保障にも影響を与えることが明白になってきた。
▽もし北朝鮮が核保有国として受け入れられれば、日本や韓国だけでなく、ベトナムやインドネシアなどのアジア諸国までもが最終的に核クラブ入りし、アジアの戦略的展開が様変わりすることになる。
▽中国の指導者は、そのような結末に反対している。同様に、中国は北朝鮮の壊滅的な崩壊も危惧している。なぜなら、そうなれば60年前に中国が阻止しようとして(朝鮮戦争を)戦ったのとまったく同じ状況が、国境地帯に再現される可能性があるからだ。

キッシンジャー氏は北朝鮮の核問題をめぐる今の状況を、こう分析しているというわけである。



2013年4月6日土曜日

「包括的、根本的なアプローチで」 林東源元統一相


林東源・元統一相
朝鮮半島の緊張は高まるばかりである。この局面をどう打開したらいいのか。
 
韓国金大中政権のもとで統一相などをつとめ、米クリントン政権の北朝鮮政策調整官ウイリアム・ペリー氏とともに朝鮮半島の平和プロセスを推進した林東源氏は今年223日、ソウルで開かれた「世界平和連合大会」の講演で「包括的、根本的なアプローチ」の必要性を改めて強調した。冷静に、時間をかけて、ということだろう。講演自体は北朝鮮による3回目の核実験のあと朴槿恵氏の大統領就任の直前になされたが、現時点でも、いや、こんな時だからこそ十分に噛みしめてみるに値する。
 
ここでは、「南北関係と朝鮮半島の平和」と題してなされた講演の内容をそのまま日本語に訳出して掲載する。翻訳は立命館大学コリア研究センターの波佐場清・客員研究員が担当し、小見出しも訳者の責任で付けた。

ここ数年間、朝鮮半島の南北関係は閉塞状態となり、一時活発だった南北間の往来と交流協力が中断されています。国際社会の反対にもかかわらず北朝鮮は212日にまた、核実験を強行し、緊張が高まっています。しかし間もなくスタートする韓国の新政権は、南北関係の改善と朝鮮半島の平和へ転機をもたらすうえで寄与するものと期待されています。

1990年代初めに国際冷戦が終わり、ドイツなどの分断国家が統一を達成するなど国際情勢に地殻変動が起こりましたが、朝鮮半島だけは冷戦の孤島として残ってしまいました。とはいえ、そんな朝鮮半島においても過去20年余、冷戦を終わらせて平和をつくろうという努力はなされてきました。

南北が不信と対決の敵対関係を終わらせて和解と協力の新しい関係をつくろうと模索する一方で、北朝鮮の核問題の解決と米朝間の敵対関係解消のための努力も展開されてきたのです。とはいえ、その道は決して平坦なものとはいえませんでした。成功と挫折、前進と中断、そして安定と危機が交錯する紆余曲折の連続でした。

南北関係改善の努力は行きつ戻りつという状況でした。南北が国連に同時加入し、ロシアと中国が韓国との関係を正常化しました。しかし米国と日本は北朝鮮と敵対した関係を続け、北朝鮮はこれに対抗して核開発を進めてきました。戦争の砲声が止んで60年になりますが、依然、平和ではなく不安定な休戦状態が続いています。朝鮮半島問題は不信と対決の南北関係、米国と北朝鮮の敵対関係と北朝鮮の核開発、そして休戦体制などが密接に絡み合い、相互に関連し合っている点が特徴です。問題解決のためには包括的で根本的なアプローチが必要な所以です。

最初にまず南北関係と統一問題について整理し、北朝鮮の核問題と米朝関係を中心に朝鮮半島の平和の問題を考えてみたいと思います。

❐朝鮮半島の平和プロセス
20年前、南と北は互いに相手を平和と統一のパートナーと認め、双方侵略せず和解と交流協力によって南北関係を改善していくことを約束し合いました。「南北基本合意書」を採択したのです。しかし、南北関係の改善は米朝関係の改善と切り離すことができず、並行させなければならないという教訓を得ることとなります。金大中大統領は政権に就いたあと、米国のクリントン大統領を説得し韓米日3国の政策協力を通して朝鮮半島の平和プロセスを推進しました。

その結果、分断後初めての南北首脳会談が実現し、それを通して南北関係に転機をもたらす「6.15南北共同宣言」を採択することとなります。米国も北朝鮮との関係改善へロードマップを示した「米朝共同コミュニケ」を採択し、オルブライト国務長官が平壌を訪問してクリントン大統領の訪朝を推進しました。日本も小泉純一郎首相が北朝鮮の指導者との首脳会談を通して両国間の国交交渉を約した「平壌宣言」を採択しました。このように韓米日3国の対北関係改善への努力で朝鮮半島の平和プロセスがスタートしたのでした。

❐目指すは、まず事実上の統一状況
朝鮮半島問題の核心は分断に終止符を打ち、平和統一を実現するところにあります。コリアは1000年以上にわたって統一国家を維持してきました。分断した状況にあっては互いの正統性争いが避けられず、勝敗を競うゲームの誘惑を絶つのは困難です。したがって常に葛藤と緊張、軍備競争、そして戦争の危険がひそむこととなり、民族のエネルギーを浪費せざるを得ません。また朝鮮半島の分断は東北アジア地域の平和と安定を損なう原因ともなっています。

南北首脳会談で両首脳は、南北関係改善の前提となる統一問題から論議しました。「統一は必ず平和的に成さなければならない。したがってそれは急に達成できるものではなく漸進的、段階的に進めていかなければならない」「統一は目標であると同時に過程(process)である」ということで認識を同じくしました。即刻の連邦制統一を主張していた北朝鮮の立場が変わることとなったのです。南と北が法的な統一(de jure unification)に先立ち、まず相互に交流協力し平和的に共存し、完全な統一でなくとも統一と似た事実上の統一(de facto unification)状況から実現しようというのです。この過程で経済共同体をつくって発展させる。さらに軍備の削減を実現し、休戦状態を平和体制に転換させていこうというのです。そして平和と統一の過程を南北連合を構成して南北が力を合わせて推進し、効率的に管理していこうということで合意したのです。

このようなコリア特有の漸進的平和統一モデルは朝鮮半島問題に利害を有する関連国の利益に反するものではなく、米国をはじめとする周辺国の支持と協力を得るに十分な、理想的で現実的なプランであると確信するものです。

❐「5M」————北朝鮮に変化の兆し
6.15南北共同宣言」が実行に移されることで和解と協力の新しい時代が開かれることになりました。南北の鉄道と道路をつなぎ、半世紀にわたる分断をへて初めて人とモノが休戦ラインを越えて南北を行き交い始めました。経済、社会、文化、宗教など、いろいろな分野にわたって往来と交流がなされました。最も輝かしい成果は北の地域の開城に工業団地を建設し、南北の人びとがいっしょに働くようになったという事実でしょう。現在、120余の韓国の企業で5万人余の北の労働者が南の管理者といっしょに働いています。

往来と交流協力が深まるにつれて敵対意識が弱まり、緊張が緩和され、民族共同体意識が涵養されて相互信頼が芽生え始めました。行く道は遠く険しいとはいえ、重要なスタートとなったのです。交流協力が増えるとき、北朝鮮には外部からの情報が入り、市場経済が育ち、社会統制が緩むほかなくなるでしょう。

すこし前まで6年間にわたって北朝鮮に滞在したスイスのある北朝鮮問題専門家が最近の北朝鮮の変化について「5M」と表現したのが印象的です。Market(市場の活性化)、Money(カネの味を知るようになる)、Mobile(携帯電話の普及による情報の流通)、Motor(車の増加)、そしてMind-set(意識の変化)です。変化の始まりといえるでしょう。

❐李明博政権で南北閉塞
しかし遺憾なことに過去5年間、南北関係は閉塞し、北朝鮮の核問題、そして米朝関係にも何の進展もありませんでした。韓国の李明博政権はそれまでの政権とは正反対の道を選んだのです。

核問題が解決する前には南北関係を改善しないという硬直した原則を固守しました。南北間で採択した和解と協力の合意はすべて否定されました。漸進的な平和統一ではなく、北の崩壊と吸収統一に期待をかけ、和解と協力の包容政策(engagement policy)ではなく、屈服を強要する圧迫と制裁の対決政策を進めたのです。

北朝鮮は反発し、南北は事ごとに葛藤、反目、対決することとなり、緊張が生まれ、さらには軍事的衝突へと発展することになりました。南北間の対話と交流、交易と経済協力はもちろん、人道支援も全面的に中断されました。開城工団一つだけが辛うじて命脈を保っています。

北朝鮮は過去20年間、韓国、米国、日本との関係改善を求める南方政策に失敗するや、浮上する中国、ロシアとの協力を強化する北方政策へと政策転換をはかり始めました。そして北朝鮮の対中国貿易が貿易額全体の90%を占めるまでになりました。

一方で昨年初めに権力の世襲に成功した北の新しい指導者金正恩は統治基盤を固め、人民生活の向上と経済活性化をはからなければならない重大な課題を抱えています。中国との協力関係を強化する一方で、国家安保と体制維持に向け米国との関係改善に力を入れる外交努力を傾けるものと見られます。

❐核実験に込めた狙い
次に、北朝鮮の核問題と米朝関係について見てみたいと思います。

国際社会の反対にもかかわらず北朝鮮は今年212日にまた地下核実験を強行しました。今回は7年前(200610月)と4年前(095月)の実験に続く3度目の核実験でした。北朝鮮は今回の核実験について「これまでとは異なり、爆発力が大きく、小型化、軽量化した原子爆弾を使って高い水準で完璧に行われた」と主張しました。

北朝鮮は国際社会の反対と制裁にもかかわらずなぜ、核実験を続けるのでしょうか。政治、軍事、技術の3つの側面から見てみる必要があります。

政治的には核開発を外交カードとして使おうとするものです。北朝鮮は米国との関係正常化と平和協定の締結を一貫して主張してきました。今回の核実験も米国に狙いを付けたものだと主張しています。北朝鮮は米国との関係正常化によって生存の道を求めようしているのですが、核カードの使用という誤った選択で事態を悪化させる結果を招いているのです。

一方、軍事的には国家安保と体制維持へ抑止力として核兵器を確保しようとしているのです。ブッシュ・ドクトリンと米国のイラク侵攻で大きな衝撃を受け、脅威を感じることとなった北朝鮮は安保の脅威が除去されない限り、決して核開発を放棄できないという強硬な立場を貫いています。しかし核開発は貧しい北朝鮮をいっそう困難にし、国際的な孤立を招くだけでなく、安全保障の面においても、むしろ危機を招くだけです。

また、北朝鮮は核関連技術を向上させていくことが外交上の交渉力を高め、軍事面での抑止力を強化する道だと信じています。核実験を重ねて原子爆弾をミサイルに装着できるまでに小型化、軽量化し、最終的には核ミサイルを確保しようというのです。

❐米国の2つのアプローチ
北朝鮮の核問題が提起されて20年以上になります。北朝鮮の核開発は決して認めることはできません。それは東アジア地域はもちろん、世界の平和と安定を損なうものです。さらには核拡散につながる危険性があります。韓国と日本も核武装の誘惑にかられる危険性を排除できません。したがって必ずや阻止しなければなりません。問題はどう阻止するか、ということです。この間、米国は相異なる2種類の接近方法をとってきました。

クリントン政権は北朝鮮を対話と交渉の相手と認めて1994年、ジュネーブで米朝の枠組み合意(Agreed Framework)を採択し、核物質を生産する前の段階で核開発を阻止することとなりました。北朝鮮の核開発計画廃棄と米朝の関係正常化を交換するギブ・アンド・テークの接近方法でした。このジュネーブ枠組み合意は8年間にわたって守られ実行に移されました。そしてそれは核問題の解決はもちろん、朝鮮半島の平和プロセスの推進にも寄与しました。

しかしブッシュ政権は北朝鮮を信頼できないといい、クリントン政権の対北政策をABCAnything But Clinton)として全面否定しました。そしてブッシュ・ドクトリンによって北朝鮮をイラク、イランとともに「悪の枢軸(axis of evil)」呼ばわりして軍事的先制攻撃(military preemption)で北朝鮮政権を転覆(regime change)させるという敵視政策を推進しました。ジュネーブ合意は破棄され、北朝鮮は核開発を再開しました。朝鮮半島の平和プロセスは中断されたのです。

ブッシュ政権は、北朝鮮はまず核を放棄しろと、圧迫と制裁を加える接近方法をとりました。北朝鮮は屈服せず、米国がまず敵視政策をやめて関係正常化と平和共存を保障しろと対抗して核物質を再処理し、核実験を強行する段階に至りました。

6者プロセス中断
幸いにも、米国、中国、ロシア、日本と南北が参加する6者協議は2005年、「9.19共同声明」を通して北朝鮮の核問題解決の基本原則に合意しました。北朝鮮の核廃棄と米朝、日朝の関係正常化を同時並行的に推進することにしたのです。また、朝鮮半島の軍事休戦体制を強固な平和体制に転換するための関連当事国間の平和会談開催にも合意しました。東北アジアの冷戦構造を解体するための合理的かつ現実的な方向を設定したのです。

紆余曲折はありましたが、6者協議は一定の成果を収めました。北朝鮮は核施設を解体し、さらなるプルトニウムの生産ができなくなりました。それにあわせて米国は北朝鮮を敵性国通商法とテロ支援国家指定の対象から外すなどの措置を取りました。これによって、北朝鮮はすでに生産し保有している核物質と核爆弾を廃棄し、それと並行して米国と日本は北朝鮮との関係を正常化する措置を取っていかなければならない段階に近づいたものと思われました。

しかしオバマ政権発足間もない時期、北朝鮮は無謀にもミサイル(衛星ロケット)を発射し、2回目の核実験を強行したことで米国との関係が悪化し、国連制裁を招きました。そしてオバマ政権がいわゆる「戦略的忍耐(strategic patience)」で北朝鮮の態度変化を待つということで6者協議プロセスが中断してもう4年以上になります。この間核開発の継続と、それに対する圧迫、制裁という悪循環が繰り返され、3回目の核実験という事態に直面することとなったのです。いまは、こうした悪循環を断ち、劇的な局面転換をしなければならない難しい課題に当面しています。

解決方法はすでに提示されているものの、相互不信と実行の意志が問題です。いまは相当な期間にわたる制裁論議が避けられないとみられるが、さらなる事態の悪化を食い止め、冷却期間をへて結局のところ、再び対話と交渉をせざるを得なくなると見られます。

❐包括的、根本的なアプローチ
北朝鮮の核問題は過去10年の失敗の経験が教えるように、圧迫と制裁だけでは解決できません。だからと言って戦争を招き得る軍事的措置も解決策とはなり得ません。与えるものは与え、得るべきものを得ながら飴と鞭でやらないといけないでしょう。核兵器を持たなくとも、それ以上にずっと安全な道があり、繁栄と発展がもたらされうるという確信を持てるようにすべきなのです。

北朝鮮の核問題だけに執着するのではなく、朝鮮半島問題を包括的、根本的なアプローチの中で核問題も解決していくという知恵が必要です。南北関係の改善、米朝関係の正常化、軍備管理、北朝鮮が開放と改革に進める条件整備、そして平和体制の構築などを並行して進める朝鮮半島の平和プロセスを推進すべきなのです。

米国と北朝鮮は対話と交渉を本格的に進めなければなりません。北朝鮮は核活動とミサイルの発射をいったん中断し、真摯な対話へと進まなければなりません。米国は敵対国であった中国、ベトナム、ミャンマーとの関係を正常化したように、北朝鮮とも関係正常化を進めて核問題の解決はもとより、朝鮮半島の平和体制構築に寄与すべきなのです。

今年は休戦協定が結ばれて60年にあたる年です。6者協議で合意した通り、休戦協定に関係した当事国である米国、中国、そして南北の4者による平和会談を始めなければなりません。平和協定の締結までには長い期間がかかるでしょうが、平和会談を通して朝鮮半島の平和プロセスを推進することで、緊張を緩和し、問題解決に有利な環境と条件をつくっていけるようになるのです。

❐南北関係の改善が急務
《結語》南北関係の改善が急務です。南北関係の改善で朝鮮半島の平和プロセスを先導していかなければなりません。南北関係がうまく進めば、金大中——クリントン時代にそうであったように米国、日本、さらに中国、ロシアも協力することになるのです。南北関係の改善は米朝の関係改善に寄与し、米国と中国の協力関係にも助けとなるでしょう。南北対話を進め、核問題は核問題として関連国と協力し、並行して解決をしていくべきなのです。

朴槿恵大統領は「6.15共同宣言」など南北間の合意を守り実行していくといい、無条件で南北対話を推進すると公約しました。また政治状況とは関係なしに北に対して人道支援も提供し、信頼プロセスを推進すると公約しています。この公約を誠実に実行すれば、南北関係を改善し朝鮮半島の平和をつくっていけるものと期待されます。

信頼を積み重ねるうえで最もよい方法は、核実験という挑戦と危機をチャンスに換えて南北関係を改善することです。まず、南側が一方的に中断した人道支援、南北交易、南北間の往来と交流協力を再開し、南北対話を積極的に推進することです。信頼は対話と交流協力の実行を通して踏み固めていくものなのです。平和をつくる(peace making)ための努力なくしては平和を守ること(peace keeping)も難しくなります。包括的、根本的なアプローチで朝鮮半島の平和プロセスを再び推進することが朝鮮半島はもちろん、東北アジアの平和と安定への道となるでしょう。


《略歴》林東源(イム・ドンウォン) 1933年平安北道生まれ。韓国陸軍士官学校、ソウル大卒。80年陸軍少将として予備役編入。駐オーストラリア大使。盧泰愚政権下で南北高位級会談代表。金大中政権下で大統領外交安保首席秘書官、統一相、国家情報院長など。著書に『피스메이커Peace-maker)』(books)=日本語版『南北首脳会談への道』(波佐場清訳、岩波書店)http://www.iwanami.co.jp/cgi-bin/isearch?isbn=ISBN978-4-00-024163-2 /英語版『PEACEMAKER』(米スタンフォード大学アジア太平洋研究センター)=など。