近代日朝関係史の研究で知られる中塚明・奈良女子大名誉教授のロングセラー『これだけは知っておきたい 日本と韓国・朝鮮の歴史』(高文研)が全面的に書き直され8月、増補改訂版として新たに出版された。
ほんとうはよく知らないのに、偏った意見だけは言う。いや、無知だから偏見を生むのだ。隣国のことを知らないというのは、実は日本のこともよく分からないということだ――。長年の研究で得た老歴史家の信念がそこには込められている。
(波佐場 清=立命館大学コリア研究センター上席研究員)
2002年に出た旧版は12刷を重ねた。新版には、この間、中塚先生の主導で重ねられた日韓市民による「東学農民軍の歴史を訪ねる旅」で得た新たな知見や、近年の日韓をめぐる動きなどが書き加えられた。中塚先生は9月、93歳の誕生日を迎える。新版の一部をかいつまむと、以下のような内容が含まれている。
■国家主権踏みにじって開戦
日本は明治維新で近代国家への道を歩みはじめ、40年ほどで世界の強国の仲間入りをした。背後にあったのは、「征韓論」という名の朝鮮侵略論。それは日清・日露戦争―韓国併合という形で現実となった。併合に結びついた2つの戦争はいずれも、朝鮮・韓国(大韓帝国)の国家主権を踏みにじるところから始まった。
日清戦争で日本が最初に武力行使したのはソウルの朝鮮王宮占拠だった。一般に日清開戦の口火と言われる1894年7月25日の「豊島沖海戦」の2日前のことだった。朝鮮をめぐって日清がにらみ合うなか、日本軍は国王を人質に朝鮮サイドから清国軍駆逐のお墨付きを取り付けて開戦を正当化していった。
日露戦争は一般に1904年2月8日、日本海軍による仁川沖のロシア艦隊攻撃で始まったとされる。しかしその2日前の2月6日、日本軍は韓国・鎮海湾奥の馬山浦の電話局を占拠してロシア側の通信遮断をはかるとともに、鎮海湾を日本の連合艦隊の根拠地として確保した。事実上の戦端だった。
日露戦争の日本海海戦で日本の連合艦隊は1905年5月27日、ロシアのバルチック艦隊を対馬海峡で迎撃。逃れた一部ロシア艦船も翌28日、竹島近海で捕捉し、壊滅させた。日本の連合艦隊司令官東郷平八郎は大本営に勝利の電報を送った。
電報は翌日、大本営に届き、官報、新聞にそのまま掲載された。そこでは竹島のことを「リャンコ―ルド岩」としていたが、8日後の6月5日、官報に「竹島」だったとする訂正記事が載った。
日本政府が「竹島」を日本領に編入したのは日本海海戦4カ月前の1905年1月28日だった。ロシア艦隊を迎え撃つ軍事的必要と結びついていた。いま日本政府が「日本固有の領土」とする竹島だが、日本の連合艦隊関係者も、大本営も、そして新聞社もその新しい名を知らなかったのである。
■「明治栄光」論
「明治は栄光の時代だった」とする見方が日本には根強い。日清・日露戦争の時期は政治家も軍人もしっかりとしていたが、満州事変(1931年)以降、舵取りを誤り、日本の敗戦を招いたとするものだ。歴史作家の司馬遼太郎などは盛んにそのようなことを言っていた。その「栄光」の陰で踏み台にされ、国を滅ぼされた朝鮮のことは頭になかった。
司馬だけではない。日本敗戦後、「戦争犯罪人」を裁いた東京裁判の判決(1948年11月)を傍聴した作家大佛次郎は「悲しいかな、日本国民は今日まで、これだけ裏面まで行き届いた『日本近代史』の要約を読んだことがなかった」などと「日本近代史に対する深刻な反省」を書いた。
しかし大佛がここで想念した「日本近代史」には日清戦争も日露戦争も入っていなかった。当時、日本の最高の知性であった大佛にして、そうだったのである。
■影落とした古代日朝関係史
どうしてこういうことになったのか。そこには、とくに明治期に台頭した日朝関係をめぐる日本の古代史観も濃い影を落としていた。
明治になって日本政府発行の紙幣に人物の肖像が印刷されるようになり、その第一号として登場したのが「神功皇后」だった。神のお告げで朝鮮を攻めて新羅を降伏させ、百済、高句麗を服従させた「三韓征伐」の立役者として古事記、日本書紀にでてくる伝説上の人物だ。日本にとって朝鮮は「征伐」の対象であるかのように仕向けられた。
古代、「大和王権」は4世紀半ばから6世紀半ばまでの200年間、朝鮮半島南部に広大な領地を有して任那に「日本府」(出先の役所)を置き、百済・新羅も従属させていた――日本では長い間、そんな見方が支配的だった。天皇の権威は古くから強いものだったとするために8世紀に書かれた日本書紀に基づいた見方だった。
日本書紀は、朝鮮の諸国を日本の朝貢国としてえがくが、中国の史書『宋書』が5世紀、宋の皇帝に朝貢したと書く「倭の五王」については何一つ触れていない。
■東学農民戦争
明治以降の日本の侵略に対し、朝鮮はただおとなしくしていたわけではもちろん、ない。日清戦争期には大きな抗日運動が起きた。「東学」をよりどころとした農民たちのたたかいだった。東学農民戦争である。日本では長らく「東学党の乱」といわれてきた。
1894年2月、全羅道・古阜での農民反乱が口火を切った。不正官吏の厳しい取り立てに対する蜂起だったが、東学のリーダー、全琫準らの指導でまたたく間に広がった。抑えられなくなった朝鮮政府は清国軍に出兵を要請、日本もすかさず出兵した。
日・清の干渉に危機意識をもった農民軍は政府軍と和睦し、朝鮮政府も日・清両軍の撤退を主張。しかし日本は引かずに清国を挑発、日清戦争に突入していった。そんななかで東学農民らは抗日の旗を公然と掲げ、再決起した。これに対し日本軍は農民軍を朝鮮半島南西端の珍島に追い詰め、皆殺しにした。
■東学の復権
東学は、朝鮮王朝末期の政治的、社会的混乱のなか、社会の変革をめざして朝鮮内で形成された思想だった。日本では「キリスト教(西学)に反対する民族宗教」と説明されることが多いが、朝鮮内部の社会的な矛盾のなかで生まれた「朝鮮の学問、思想」と見るべきだ。
東学農民戦争は、日本の教科書でいま、「甲午農民戦争、東学の乱」(山川出版『詳説日本史』)などと表記している。しかし「東学の乱」では、農民はまだ「乱民」のイメージだ。
東学農民は韓国でも長らく「乱民」に貶められ、遺族や子孫らは息をひそめてきた。しかし1980年代に民主化運動をたたかった人たちは韓国の自主・民主の根源として東学に行きつき、民主化後、2004年には農民軍の名誉を回復する特別法も制定された。
そんな韓国市民の自主・民主のたたかいは、その後も「ローソク革命」など非暴力の市民運動にひきつがれてきているのである――。
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以上、内容のほんの一部をかいつまんだが、随所にハッと気づかされる興味深いエピソードが散りばめられている。全体にかみ砕いた、分かりやすい文章でつづられており、歴史の現場を踏まえた話には説得力がある。若い人、とくに高校生や大学生にぜひ読んでもらいたい一書である。