2022年9月2日金曜日

『これだけは知っておきたい 日本と韓国・朝鮮の歴史』に増補改訂版/中塚明先生

近代日朝関係史の研究で知られる中塚明・奈良女子大名誉教授のロングセラー『これだけは知っておきたい 日本と韓国・朝鮮の歴史』(高文研)が全面的に書き直され8月、増補改訂版として新たに出版された。

ほんとうはよく知らないのに、偏った意見だけは言う。いや、無知だから偏見を生むのだ。隣国のことを知らないというのは、実は日本のこともよく分からないということだ――。長年の研究で得た老歴史家の信念がそこには込められている。 

(波佐場 清=立命館大学コリア研究センター上席研究員)


2002
年に出た旧版は12刷を重ねた。新版には、この間、中塚先生の主導で重ねられた日韓市民による「東学農民軍の歴史を訪ねる旅」で得た新たな知見や、近年の日韓をめぐる動きなどが書き加えられた。中塚先生は9月、93歳の誕生日を迎える。新版の一部をかいつまむと、以下のような内容が含まれている。

■国家主権踏みにじって開戦

日本は明治維新で近代国家への道を歩みはじめ、40年ほどで世界の強国の仲間入りをした。背後にあったのは、「征韓論」という名の朝鮮侵略論。それは日清・日露戦争―韓国併合という形で現実となった。併合に結びついた2つの戦争はいずれも、朝鮮・韓国(大韓帝国)の国家主権を踏みにじるところから始まった。

  日清戦争

日清戦争で日本が最初に武力行使したのはソウルの朝鮮王宮占拠だった。一般に日清開戦の口火と言われる1894725日の「豊島沖海戦」の2日前のことだった。朝鮮をめぐって日清がにらみ合うなか、日本軍は国王を人質に朝鮮サイドから清国軍駆逐のお墨付きを取り付けて開戦を正当化していった。

  日露戦争

日露戦争は一般に190428日、日本海軍による仁川沖のロシア艦隊攻撃で始まったとされる。しかしその2日前の26日、日本軍は韓国・鎮海湾奥の馬山浦の電話局を占拠してロシア側の通信遮断をはかるとともに、鎮海湾を日本の連合艦隊の根拠地として確保した。事実上の戦端だった。

 竹島を知らなかった日本の軍部・マスコミ

日露戦争の日本海海戦で日本の連合艦隊は1905527日、ロシアのバルチック艦隊を対馬海峡で迎撃。逃れた一部ロシア艦船も翌28日、竹島近海で捕捉し、壊滅させた。日本の連合艦隊司令官東郷平八郎は大本営に勝利の電報を送った。

電報は翌日、大本営に届き、官報、新聞にそのまま掲載された。そこでは竹島のことを「リャンコルド岩」としていたが、8日後の65日、官報に「竹島」だったとする訂正記事が載った。

日本政府が「竹島」を日本領に編入したのは日本海海戦4カ月前の1905128日だった。ロシア艦隊を迎え撃つ軍事的必要と結びついていた。いま日本政府が「日本固有の領土」とする竹島だが、日本の連合艦隊関係者も、大本営も、そして新聞社もその新しい名を知らなかったのである。

■「明治栄光」論

「明治は栄光の時代だった」とする見方が日本には根強い。日清・日露戦争の時期は政治家も軍人もしっかりとしていたが、満州事変(1931年)以降、舵取りを誤り、日本の敗戦を招いたとするものだ。歴史作家の司馬遼太郎などは盛んにそのようなことを言っていた。その「栄光」の陰で踏み台にされ、国を滅ぼされた朝鮮のことは頭になかった。

司馬だけではない。日本敗戦後、「戦争犯罪人」を裁いた東京裁判の判決(194811月)を傍聴した作家大佛次郎は「悲しいかな、日本国民は今日まで、これだけ裏面まで行き届いた『日本近代史』の要約を読んだことがなかった」などと「日本近代史に対する深刻な反省」を書いた。

しかし大佛がここで想念した「日本近代史」には日清戦争も日露戦争も入っていなかった。当時、日本の最高の知性であった大佛にして、そうだったのである。

■影落とした古代日朝関係史

どうしてこういうことになったのか。そこには、とくに明治期に台頭した日朝関係をめぐる日本の古代史観も濃い影を落としていた。

  ▽「神功皇后」

明治になって日本政府発行の紙幣に人物の肖像が印刷されるようになり、その第一号として登場したのが「神功皇后」だった。神のお告げで朝鮮を攻めて新羅を降伏させ、百済、高句麗を服従させた「三韓征伐」の立役者として古事記、日本書紀にでてくる伝説上の人物だ。日本にとって朝鮮は「征伐」の対象であるかのように仕向けられた。

 ▽「任那日本府」

 古代、「大和王権」は4世紀半ばから6世紀半ばまでの200年間、朝鮮半島南部に広大な領地を有して任那に「日本府」(出先の役所)を置き、百済・新羅も従属させていた――日本では長い間、そんな見方が支配的だった。天皇の権威は古くから強いものだったとするために8世紀に書かれた日本書紀に基づいた見方だった。

 日本書紀は、朝鮮の諸国を日本の朝貢国としてえがくが、中国の史書『宋書』が5世紀、宋の皇帝に朝貢したと書く「倭の五王」については何一つ触れていない。

 日本人の朝鮮についての意識を考えるとき、古代史も「いま」と切り離すことはできない。

■東学農民戦争

明治以降の日本の侵略に対し、朝鮮はただおとなしくしていたわけではもちろん、ない。日清戦争期には大きな抗日運動が起きた。「東学」をよりどころとした農民たちのたたかいだった。東学農民戦争である。日本では長らく「東学党の乱」といわれてきた。

18942月、全羅道・古阜での農民反乱が口火を切った。不正官吏の厳しい取り立てに対する蜂起だったが、東学のリーダー、全琫準らの指導でまたたく間に広がった。抑えられなくなった朝鮮政府は清国軍に出兵を要請、日本もすかさず出兵した。

日・清の干渉に危機意識をもった農民軍は政府軍と和睦し、朝鮮政府も日・清両軍の撤退を主張。しかし日本は引かずに清国を挑発、日清戦争に突入していった。そんななかで東学農民らは抗日の旗を公然と掲げ、再決起した。これに対し日本軍は農民軍を朝鮮半島南西端の珍島に追い詰め、皆殺しにした。

■東学の復権

東学は、朝鮮王朝末期の政治的、社会的混乱のなか、社会の変革をめざして朝鮮内で形成された思想だった。日本では「キリスト教(西学)に反対する民族宗教」と説明されることが多いが、朝鮮内部の社会的な矛盾のなかで生まれた「朝鮮の学問、思想」と見るべきだ。

東学農民戦争は、日本の教科書でいま、「甲午農民戦争、東学の乱」(山川出版『詳説日本史』)などと表記している。しかし「東学の乱」では、農民はまだ「乱民」のイメージだ。

東学農民は韓国でも長らく「乱民」に貶められ、遺族や子孫らは息をひそめてきた。しかし1980年代に民主化運動をたたかった人たちは韓国の自主・民主の根源として東学に行きつき、民主化後、2004年には農民軍の名誉を回復する特別法も制定された。

そんな韓国市民の自主・民主のたたかいは、その後も「ローソク革命」など非暴力の市民運動にひきつがれてきているのである――

     

以上、内容のほんの一部をかいつまんだが、随所にハッと気づかされる興味深いエピソードが散りばめられている。全体にかみ砕いた、分かりやすい文章でつづられており、歴史の現場を踏まえた話には説得力がある。若い人、とくに高校生や大学生にぜひ読んでもらいたい一書である。


2022年8月9日火曜日

「コリアン民族主義」と「愛国」自民の癒着

旧統一教会の考え方は、朝鮮半島を非常に重んじるコリアン民族主義だ。創設者の故・文鮮明氏は、日本が経済的に栄えたのは、韓国に財物をささげるためだと教えている。そうした国家観の組織と、愛国主義を唱える自民党の政治家が、なぜ付き合ってきたのか強く疑問に思う――。

霊感商法対策弁護士連絡会を立ち上げ、旧統一教会(世界平和統一家庭連合)の被害救済に取り組んできた山口広さんは、こんな疑問を提起している。(87日付京都新聞)

 

内田樹さんの「答え」

思想家の内田樹さんも『週刊金曜日』(812日号)で同じような問いかけを発し、自ら一つの「答え」を導き出している。

――愛国調の口吻で「日本スゴイ」と言い立てる人々が韓国人宗教家を「メシア」に想定し、韓国を男性、日本を女性に見立て、「男にひたすら尽くすのが女の道」というような異様なナラティブを掲げる組織とどうして癒着できるのか。

たぶん、「保守派」の方々は統一教会がどういう組織で、何をめざしているのかについて一通りのことは知っていたのだろうが、「そんなのはどうでもいいことだ」と思って無視していたのだろう。政治家にすれば、イベントに顔を出したり、祝電を送ったりすると、たっぷりと「見返り」がある。

統一教会は政治家たちの無知と無関心を梃子に自民党内部にケルンを築き、日本政府の政策決定に深い影響を与えてきた。政治家たちは統一教会を「便利な機械」だと思い、統一教会は政治家たちを「便利なエージェント」だと思っていた。

その通りなのだと思う。そのうえで、この問題をさらに掘り進めると、日本と朝鮮半島の間に堆積してきた歴史の鉱床に突き当たる。

歴史の影

内田さんが指摘するように、この教団は日本を「エバ国家」、韓国を「アダム国家」とし、妻が夫に仕えるように日本が韓国に尽くすのは当たり前といったふうに説いている。なぜ、そうなのかといえば、過去、日本が朝鮮半島を支配した歴史からいって、贖罪上、当然だとするのである。

教祖自身の歴史体験がそこに投影されているのかもしれない。文鮮明氏は、日本の植民地下の1920年、いま北朝鮮地域になっている平安北道定州郡で生まれ、41年日本に留学。日本では独立運動にも関与したといい、「警察に捕まって、取り調べを受けたり、殴られたり、留置所に拘禁されたりしたことも、数えきれないほどありました」と書いている。(『平和を愛する世界人として 文鮮明自叙伝』創芸社)

「日本は兄貴分」

そんな教団と日本の「愛国」自民保守派はどうして手を取り合えるのか。ナゾを解くカギは彼らの歴史観にある。85日付朝日新聞は、自民党の保守派有力衆院議員の発言を伝えていた。「日本は韓国の兄貴分」持論展開――という見出しが付いている。

衛藤征士郎・元衆院副議長である。同氏は(8月)4日の党会合で日韓関係について次のようなことを述べたという。

「韓国はある意味では兄弟国。はっきり言って、日本は兄貴分だ」「韓国ともしっかり連携し、協調し、韓国をしっかり見守り、指導するんだという大きな度量をもって日韓関係を構築するべきだ」

衛藤氏はさらに記者団の取材に対し、「発言の真意」について次のように述べたという。

「我が国はかつて韓国を植民地にした時がある。そこを考えた時に、韓国は日本に対してある意味、兄貴分みたいなものがある」「日本国民は日米関係を対等だと思っているか。僕は思っていない。同じように日韓関係は対等だと韓国が思っていると、僕は思っていない」「日本は常に指導的な立場に立ってしかるべきだ」

■「日鮮同祖論

驚くべき発言だが、この間の慰安婦や徴用工の問題をめぐる彼らの言動に照らすと、自民保守派といわれる人たちの歴史観とその対韓認識は大方のところ、そのようなものなのだろうと思う。そしてそれは、日本の韓国併合を正当化していったかつての「日鮮同祖論」と重なっているようにもみえる。 

この「同祖論」は、とくに明治以降、日本史研究家の重野安繹、星野恒や言語学者金沢庄三郎らによって唱えられた。簡単に言えば、日本人と朝鮮人の祖先は同じで、兄弟、あるいは一つの家族のようなものだ、ただし、日本人は常に家長や兄として指導する立場にある、とする主張だった。(鄭在哲著・佐野通夫訳『日帝時代の韓国教育史』=皓星社=など)

ともあれ、「愛国」自民保守派がなぜ……との問いに対する答えは、衛藤氏の発言の中に見出せると私は思う。 

「あだ花」

衛藤氏が言うように、「日韓は兄弟国で、日本が兄貴分として韓国をしっかり見守り、指導する立場に立ってしかるべき」という上から目線に立つと、自ずと「大きな度量」や余裕も生まれてくるというものだろう。

「韓国自身、日本と対等の関係にあるとは思っていない」と信じていれば、相手の少々の我がままだって大目に見てやれるし、いざというときは、いつでも言うことをきかせることができるという「自信」も生じる――そんな勝手な思い込みが元統一教会の問題をここまで肥大化、深刻化させてしまったのではないか。

同じことは、慰安婦や徴用工の問題についても言えるだろう。衛藤氏のような視点に立てば、日本はもう妥協する必要はない。日本が「指導」すれば、いずれ韓国側から歩み寄ってくる、と信じ込める。そんな心情が問題をいまのようにこじらせてしまったのではないのだろうか。

「日韓癒着」はかつて韓国の軍事政権と日本の保守勢力の間にもあった。元統一教会の問題は戦後のそんな流れのなかで生れ、肥え太ってきた歪な「あだ花」であるかのようにも見えてくる。

■歴史を肝に銘じて…

いま、韓国について改めて思うことがある。韓国の歴史にあってあの日本の植民地支配とは何だったのかということだ。この際、韓国の側に身を置いて考えてみるのも無意味なことではないだろう。

大陸から陸続きの朝鮮半島は過去、度重なる外からの侵攻をうけてきた。古くは、日本の教科書にも出てくる前漢・武帝による楽浪郡設置という名の一部地域の植民地支配。三国時代、百済、高句麗、新羅と隋、唐との葛藤もよく知られている。

高麗時代には首都が契丹族の遼に攻められて灰燼に帰し、モンゴルの侵攻では全土が蹂躙された。女真・満州族の清にも大変な屈辱を強いられた。 

以上のようなことはすぐに思い浮かぶが、見逃してならないのは、このような受難が繰り返されながらも、いつの時代も、この国、この民族の王朝がその命脈を保っていたということだ。つまり、根こそぎ完全な異民族支配ということはなかったのである。

唯一の例外が日本による、あの植民地支配だった。日本は朝鮮王朝を廃絶させ、国そのものを完全に奪い取り、「日本人への同化」の名のもとにこの民族の抹殺をはかろうとした。かつての日本はそういうことをやってしまったのである。

こんなことは朝鮮史を少し勉強すれば分かることだが、それがこの民族にとってどれほどの屈辱であったことか。これは「民族の記憶」として恐らく、この先100年、200……いや、永遠に引き継がれていくだろう。

こうした「過去」は、時の権力によって「不可逆的な解決」がなされたとしても「屈辱の記憶」は消え去らない。そうした記憶は、場合によっては、時の経過とともに却って純化されていくこともあるかもしれない。

日本はこのことを肝に銘じてこの隣国と向き合うべきだろう。そうした時、初めて相手も心を開くのではないか。                        (波佐場 清)