2015年8月1日土曜日

「慰安婦は軍属」/辻政信が明言


旧日本陸軍参謀、辻政信(190268?)が著書『潜行三千里』のなかで慰安婦について「身分は軍属」と明言していたことを最近、同書を読んで初めて知った。

旧日本軍の慰安婦や慰安所をめぐっては1993年、当時の河野洋平官房長官が「河野談話」で、設置、管理に日本軍が関与していたことを認める一方で、一部には「民間業者が戦地に設置、運営した公娼」との主張もまだ根強い。

辻政信は陸軍大学卒業後大本営参謀となった人物で、ノモンハン事件やビルマ作戦を直接指揮したことでも知られている。そうした旧陸軍の核心人物が自ら、慰安婦は軍に所属する存在だったことを認めていたというわけである。

『潜行三千里』は、タイ・バンコクで敗戦を迎えた辻が、戦犯追及のイギリス軍の探索をかいくぐってベトナム経由で中国へ亡命、そこで国民党政府の国防部に勤務するなどして48年に上海経由で日本に帰ってくるまでのことを書いている。

1950年に出版されると、ベストセラーになった。私が読んだのは20081月に毎日ワンズから出された復刊版。
http://www.amazon.co.jp/%E6%BD%9C%E8%A1%8C%E4%B8%89%E5%8D%83%E9%87%8C-%E8%BE%BB-%E6%94%BF%E4%BF%A1/dp/4901622463

物語は45年初夏、ビルマ戦線で負傷した辻が空路バンコクに入るところから始まっている。当時バンコクに駐屯していた日本軍の中村明人司令官らにあいさつに出向いた時のことなどを記述したあと、次のように続けている。
 
…軍司令官官邸の裏に小さい神社があった。『大義神社』と墨痕鮮やかな標柱が立っている。おもしろい名前だ。『小義神社』というのがどこかにあるような気がする。
 六月八日、初の月例祭に参拝した。司令部の将兵全員とバンコクの居留民代表が朝早くからお詣りする。
 神籬(かみがき)の内に、拝殿に向かって右側に将校が、左側には居留民代表が居並び下士官や兵は鳥居の外で並んだ。
 召集将校の中に本職の神官がいる。白装束、烏帽子の謹厳な姿で祝詞(のりと)をあげている際に、前に向き合っている一群の若い女性たちがしきりに対面の将校にモーションをかけている。神域に不似合な光景であった。
 帰ってから調べてみると、この若い女たちは将校慰安所の女であり、偕行社の給仕であった。
 彼女らもある意味において、それぞれの役割を果たしているのであろう。身分も軍属である。…

     ◇

辻が慰安婦に触れているのは、これがすべてである。ただ「将校慰安所の若い女」とするだけで、国籍や服装などは分からない。「一群の…」とあるので、相当な人数だったのだろう。「将校慰安所」とあるから、これとは別に、下士官や兵の慰安所もあったと考えるのが自然だろう。
 
そして彼女らは「偕行社の給仕」でもあったとしている。

偕行社(かいこうしゃ)とは何なのか。たとえば、ブリタニカ国際大百科事典は次のように説明している。

<旧日本陸軍の全将校の社交、研究団体。1877年創立。1924年に財団法人。酒保、宿舎の経営のほか、図書の出版、死亡者への義助などの便益を行った…>

彼女らは、その偕行社で給仕をする一方で、「ある意味において、それぞれの役割を果たしているのだろう」と、辻は書いているのである。

ここで、私の頭に浮かんできたのは、朝日新聞が最近報じた京都大学大学院の永井和教授(日本近現代史)のインタビュー記事である。「慰安婦問題を考える」として1ページ全面を埋めた201572日付のこの特集記事は、警察や軍の公文書などをもとに「慰安所は軍の施設として設置された」とした永井教授の明快、説得力ある研究成果を分かりやすく簡潔に整理してくれている。

永井教授はここで、「慰安所を軍の施設とする根拠は?」との記者の問いに次のように答えていた。

「陸軍大臣が日中戦争開始後の379月に『野戦酒保規程』という規則を改定した記録を04年、防衛庁防衛研究所(当時)の所蔵資料から見つけました。軍隊内の物品販売所『酒保』に『慰安施設を作ることができる』との項目を付け加える内容です。上海派遣軍参謀長は12月、『慰安施設の件方面軍より書類来り』『迅速に女郎屋を設ける』と日記に記しました。派遣軍が『慰安施設』として『女郎屋』を設けたことを意味しています」

19456月、つまり日本の敗戦間際、辻政信がバンコクで目撃した「将校慰安所の女であり、偕行社の給仕」で「身分も軍属」だったこの女性たちこそ、永井教授が掘り起こした、陸軍大臣が19379月に改定した「野戦酒保規程」によって軍隊内の酒保に設けることが認められた慰安施設の女性たちではなかったのか。

「慰安所は戦地における民間の売春施設であり、慰安婦は公娼だった」とする一部の主張は、旧陸軍の核心人物であった辻政信が書き残した著書によっても明確に否定されているのである。

 

 

2015年2月12日木曜日

ワイツゼッカー氏と安倍首相の落差


ナチスの罪を直視し、戦後ドイツの周辺国との和解に貢献したワイツゼッカー元ドイツ大統領の公式追悼行事が211日、首都ベルリンの大聖堂で営まれた。ことし131日、94歳で亡くなった「ドイツの良心」。現地発の共同電は「歴史認識をめぐり日本と中国、韓国の関係が困難に直面しているのに対し、ドイツがナチス時代のイメージを払拭できたのは同氏の功績が大きい」と伝えていたが、その通りだと思う。

「過去に目を閉ざす者は現在にも盲目になる」。こんなフレーズで知られる、あの名演説「荒れ野の40年」(永井清彦訳/岩波ブックレット)を読み返してみた。第2次大戦でのドイツ敗戦40周年にあたった198558日、連邦議会でおこなった演説である。

折から戦後70年。以下のようなくだりが改めて胸に迫ってくる。

■ワイツゼッカー演説
大抵のドイツ人は国の大義のために戦い、耐え忍んでいるものと信じておりました。ところが、一切が無駄であり無意味であったのみならず、犯罪的な指導者たちの非人道的な目的のためであった、ということが明らかになったのであります>

<振り返れば暗い奈落の過去であり、前には不確実な未来があるだけでした。
しかし日一日と過ぎていくにつれ、58日が解放の日であることがはっきりしてまいりました。……ナチズムの暴力支配という人間蔑視の体制からわれわれ全員が解放されたのであります>

<一民族全体に罪がある、もしくは無実である、というようなことはありません。罪といい無実といい、集団的ではなく個人的なものであります>

<今日の人口の大部分はあの当時子どもだったか、まだ生まれていませんでした。この人たちは自ら手を下していない行為について自らの罪を告白することはできません。
ドイツ人であるというだけの理由で、粗布(あらぬの)の質素な服をまとって悔い改めるのを期待することは、感情を持った人間にできることではありません。しかしながら先人は彼らに容易ならざる遺産を残したのであります。
罪の有無、老幼いずれを問わず、われわれ全員が過去を引き受けねばなりません。だれもが過去からの帰結に関わり合っており、過去に対する責任を負わされております>

<問題は過去を克服することではありません。さようなことができるわけはありません。後になって過去を変えたり、起こらなかったことにするわけにはまいりません。しかし過去に目を閉ざす者は結局のところ現在にも盲目となります。非人間的な行為を心に刻もうとしない者は、またそうした危険に陥りやすいのです>

■韓国、中国の「日独比較」論
過去の侵略や戦争に対する反省、戦後補償のありようをめぐって日本はドイツとしばしば対比されてきた。とくに韓国、中国からは「徹底的に反省し償うドイツと、過去を正当化する日本」といった図式で日本非難が繰り返されてきた。

20135月、訪米して米上下両院合同会議で演説した韓国の朴槿恵大統領は英語で次のようにぶった。名指しこそしなかったものの、日本を当てこするような内容だった。

It has been said that those who are blind to the past cannot see the future.
This is obviously a problem for the here and now.

「過去に目を閉ざす者は…」。まったくの偶然だろうが、朴槿恵大統領がこの演説をおこなった日はドイツ降伏68週年にあたった58日、まさにその日だった。朴大統領は、ワイツゼッカー演説を意識していたのは間違いないと思われる。

*詳しくは、下の韓国大統領府のホームページ参照(後半に英文が載っている)
http://www1.president.go.kr/news/newsList.php?srh[view_mode]=detail&srh[seq]=139

■東郷和彦教授の論考
ワイツゼッカー演説に類するものは日本にはなかったのか。この点、元外交官(条約局長、駐オランダ大使など)の東郷和彦・京都産業大学教授がその著書『歴史認識を問い直す―靖国、慰安婦、領土問題』(角川oneテーマ21)のなかで、次のような指摘をしているのが、私にとっては目からうろこだった。

▽日本人が自ら総合的に戦争責任と歴史認識について結論を出したのは、戦後50年にあたっての「村山談話」(1995815日)しかない。
▽日本とドイツでは、戦争とのけじめのつけ方が大きく違った。日本はサンフランシスコ条約など一連の戦後処理条約、いわゆる「平和条約」を結ぶことで解決してきたのに対し、ドイツのそれは被害者個人への補償として、相手国との間では、補償を支払うための協約を結ぶことで行われた。
▽そんな異なった背景があるのだとしても、村山談話とワイツゼッカー演説を比べると、そのあまりの違いに驚く。

*村山談話は、外務省のホームページ参照http://www.mofa.go.jp/mofaj/press/danwa/07/dmu_0815.html

東郷教授は2つの演説(談話)の違いを下のような表に整理してみせている。
 

村山談話とワイツゼッカー演説比較



 

村山談話

ワイツゼッカー演説

    誰が?

日本

特定個人。国家でも民族でもない。

    何をして?

植民地支配と侵略

ホロコーストを始めとする列挙された犯罪

    どう対処し?

痛切な反省と心からのお詫び

心に刻む

    責任者は誰で?

日本(と解釈せざるをえない)

犯罪者ではないが、すべてのドイツ人が結果について責任を負う

    具体的行動は?

平和友好交流事業と現在取り組んでいる戦後処理問題に対する誠実な対応

特定列挙せず(被害者個人への償い方式が背景)
東郷和彦著『歴史認識を問い直す―靖国、慰安婦、領土問題』(角川oneテーマ21)より


表は、2つの演説について①誰が、②何をして、③それについてどう対処し、④やったことの責任者は誰で、⑤具体的な行動は何か――を簡潔にまとめている。説明の概略はこうだ。

▽村山談話は包括的・直観的・無前提な形で国家の行為をとらえ、それについて謝罪している。このようなやり方は、近代国家では例を見ない。
▽ワイツゼッカー演説は徹底して個別的・分析的・条件付きである。たとえば個別具体的な犠牲者をリストアップ。ナチス以外のドイツ人について「罪はないが責任はある」とし、「全員が過去を引き受けなければならない」などとしている。

東郷教授はさらに、ワイツゼッカー演説の思想的背景としてヤスパース、村山談話の精神的背景としては鈴木大拙との関連性について論考を加えている。その詳細は著書に譲るが、ここで明らかなのは、日本の場合、一つには戦争責任の所在を曖昧にやり過ごしてきた結果が、いま大きなツケとして回ってきているということである。

■安倍首相の「戦後70年談話」
いま、気になるのは安倍首相の歴史への向き合い方である。具体的には安倍首相が8月に予定している戦後70年にあたっての「安倍談話」の中身である。安倍首相はこの間、これに関連して次のようなことを言ってきた。

20134月の参院予算委員会
「安倍内閣として、言わば村山談話をそのまま継承しているというわけではない。これは戦後50年に村山談話が出され、そして60年に小泉談話が出されたわけであって、これから70年を迎えた段階において安倍政権としての談話をそのときに、いわば未来志向のアジアに向けた談話を出したいと今既に考えている」(422日)

「侵略という定義については、これは学界的にも国際的にも定まっていないと言ってもいいんだろうと思うわけだし、それは国と国の関係において、どちら側から見るかということにおいて違う」(423日)

2014314日、参院予算委員会
「歴史認識については、戦後50周年の機会には村山談話、60周年の機会には小泉談話が出されている。安倍内閣としてはこれらの談話を含め、歴史認識に関する歴代内閣の立場を全体として引き継いでいく」

2015125日、NHKの討論番組
「村山、小泉談話、安倍政権としてこうした歴代の談話を全体として受け継ぐ考えは、すでに何回も申し上げた通り。安倍政権としてどう考えているという観点から談話を出したい。
このような世界をつくっていくかという未来に対する意思を書き込みたい。いままでのスタイルそのまま、下敷きとして書くことになれば、いままで使った言葉を使わなかった、新しい言葉が入ったという、こまごまとした議論になっていく。そうならないように70年の談話は新たに出したい」(要旨=朝日新聞より)

◇同年129日、衆院予算委員会
「村山談話、小泉談話については閣議決定されているものであり、我々は全体として受け継いでいる。先の大戦の反省の上に戦後70年どういう国をつくってきたのか、今後未来に向かってどういう国をつくっていくか発信していきたい。
(戦争の教訓は)まさに多くの国民の命を失い、アジアの方々にも多大なご迷惑をおかけした」(朝日新聞より)

こうして振り返ると、安倍首相の発言は微妙にぶれている。戦後70年の安倍談話に関しては、このところ、村山談話、小泉談話を「全体として受け継ぐ」という言い方で一貫させているが、「全体として」とは引き継がない部分もあるということなのかどうか。いずれにしても、村山、小泉談話にある「植民地支配と侵略」「痛切な反省と心からのお詫びの気持ち」といったキーワードが周辺国との関係でどうなるかが大きな焦点になるのは間違いない。

■落差
戦後70年談話に向けて安倍首相が「未来志向」「未来についての意思」「未来に向かって…」といった具合に、「未来」を強調しているのも気がかりである。

東郷和彦教授は、さきの著書で次のようなことも書いている。
▽歴史認識問題との関連で、「未来志向」ということを日本側から言い出すことは、禁句だと考える。被害者の立場にたてば、「未来志向」と加害者が言えば、それは「過去を忘れましょう」と言っているのと同じように聞こえる。
▽歴史に認識に関していえば、「未来志向の未来」とは、中国や韓国が日本に向けて送るべき言葉なのである。

同感である。ワイツゼッカー氏と安倍首相の落差を改めて感じてしまう。